「応仁の乱」の原因と結果。戦国時代の幕開けのグダグダ内戦をわかりやすく解説

フォローする



応仁の乱

皆さんは「応仁の乱」についてどの程度ご存知でしょうか?「1467年から1477年までの11年間にも及ぶ京の都全域を焼き尽くすような長期間の内戦で、細川勝元と山名宗全が東陣と西陣に分かれて戦った」ということぐらいでしょうか?

しかし、それにしても「応仁の乱」というのは今一つよくわからない「グダグダ内戦」というか「ダラダラ内戦」です。

話が脱線しますが、「グダグダ」という言葉を、私はあまり使わないのですが、7月20日の宮迫博之と田村亮の「闇営業問題」謝罪会見を受けた7月22日の吉本興業(株)の岡本昭彦社長の5時間にも及ぶ訳のわからない「グダグダ記者会見」を見ていて、「応仁の乱もグダグダ内戦だったな」と改めて思ったので使ってみました。

その後の多数の吉本芸人たちのSNS発信や取材を受けての発言、それに吉本興業とコラボ事業を展開している政府関係者や公正取引委員会のコメントも出るに及んで、コンプライアンスやパワハラ問題、独占禁止法上の問題も明らかになり、焦点が今や「吉本興業自身の体制・体質問題」へと移って来た感があります。「吉本興業のグダグダ内戦」も終結には数年はかかるかもしれません。

閑話休題、2016年10月に出版された呉座勇一氏の「応仁の乱」(中公新書)が、37万部を超える異例の大ヒットとなりました。それなりに人々の関心があるテーマのようです。

そこで今回はこの「応仁の乱」について、色々な角度から考えてみたいと思います。

1.応仁の乱とは

応仁の乱とは、室町時代の末期、管領家の畠山氏ならびに足利将軍家の跡目争いを発端として、細川、山名という有力守護大名の勢力争いが絡み合って、東西両陣営に分かれて、1467年~1477年までの11年間にわたって京都を中心に繰り広げられた大きな内戦です。

応仁の乱は、京の都を荒廃させ、庶民を苦しめた挙句、室町幕府を崩壊へと導く勝敗の決着すらつかない無益な戦いでした。関白以下多くの公卿たちはこの乱を避けて地方に下りました。

2.応仁の乱の原因

11年もの長期間にわたって京の都を中心に大きな内戦が続くことになった原因は一体どういうものだったのでしょうか?

(1)直接の原因

①管領畠山氏の跡目争い

室町幕府8代将軍(在職:1449年~1473年)の足利義政(1436年~1490年)は、畠山氏の後継者問題について、当初嫡流の義就に家督相続を命じますが、途中で義就の従弟である政長を指名するという優柔不断な態度を示します。

この相続問題を巡って義就と政長が対立し、それに有力守護の山名宗全(1404年~1473年)と細川勝元(1430年~1473年)が介入して来ます。さらにそれぞれに加担する守護たちが京都に集結して来ます。

②足利将軍家の跡目争い

一方、足利義政も自分の後継者を、当初弟の義視と考えていましたが、嫡子の義尚が生まれたことで、義政の妻の日野富子(1440年~1496年)は義尚擁立に動き、二派の対立が生まれます。

御家人の中には義視の暗殺を企てる者も現れたため、義視派と義尚派が争う形で、山名宗全と細川勝元との争いに加わって行きます。

こうして、畠山義就・山名宗全・足利義尚の西軍側と畠山政長・細川勝元・足利義視の東軍側とに分かれて、戦闘の火蓋が切られることになったのです。

③その他の守護たちの参戦

その他の守護たちには、これと言った「大義名分」が無いため、自己の勢力拡大のために「有力と思われる方に加担」したり、「最初加担していた方が劣勢と見るや裏切って寝返り」したりと、節操も何もない争いになりました。その結果、一進一退を繰り返す「グダグダ内戦」となったわけです。

しかし、その結果、一番被害を被ったのは、京の都の庶民たちであり、庶民や商人の町家はもとより神社・仏閣などの歴史ある建造物や文化財も大きな被害を受けました。

(2)間接の原因や遠因

①足利義政の優柔不断な性格と政治からの逃避

性格的に優柔不断で、将軍職にありながら、政治を妻の日野富子や有力守護大名に任せて、自分は能楽や趣味の世界に没入していたことです。ただ、そのおかげで「東山文化」という現代日本にもつながる文化が開花したというプラスの側面もあったのですが・・・

②山名宗全と細川勝元の対立

当初は有力守護の両者は協力して室町幕府を支えていましたが、やがて勢力争いから対立し、山名宗全は日野富子に肩入れするようになります。

③将軍や天皇が戦の大義名分に担ぎ出されたこと

守護同士の小さな争いであれば、幕府が乗り出すまでもありませんが、どんどん勢力を拡大しつつある山名宗全に対して、細川勝元は警戒を募らせた結果、「幕府軍」としての大義名分を得るために、足利義政の屋敷を包囲して、自分たちを「幕府軍」に任命するよう威圧しました。

御家人は細川勝元の横暴で強引な行動を許したくありませんでしたが、義政は半ば投げやりになってこれを認めたため、幕府の軍事権が細川勝元に独占されることになりました。

これに対して山名宗全は、生き残っていた南朝系の天皇(西陣南帝)を自邸に招き入れ、自分は「天皇軍」であると主張しました。

こうして山名宗全と細川勝元は、自分たちを権威づけるために各地の味方を京に呼び寄せ、全国の守護が関心を持つ大きな内戦に発展してしまったのです。

Wikipediaに1467年の東西両軍の勢力図(水色:東軍、黄色:西軍、黄緑色:両軍伯仲)が掲載されていますので、参考までにご紹介します。

応仁の乱勢力図

3.応仁の乱の経過

①足利義視の寝返り

次期将軍の希望を奪われた足利義視ですが、最初は義政に協力して東西両軍の和睦のために奔走します。しかし、義政の側近から敵視されるようになったため、山名宗全の誘いに応じて西軍に寝返ります。

②守護たちの身動きが取れないジレンマ

山名宗全と細川勝元の誘いに応じて京に集結した守護たちも、地元では「お家騒動」や「領地争い」を抱えており、自分が留守にしている間に問題が複雑化したり、領地を敵に攻められたりしていました。本当は帰りたいが目の前に敵がいるので動けないというジレンマを抱えていました。

③山名宗全と細川勝元の死

1473年には乱の首謀者である山名宗全と細川勝元の二人が相次いで病死します。すぐに両家の後継者同士で和睦交渉が進められましたが、「和睦反対派」が大勢いたため内戦終結に至りませんでした。

④大内政広の主導で内戦続行

その急先鋒は、当時西軍の事実上の総大将となっていた大内政広(1446年~1495年)です。彼は足利義視を自邸に匿い、戦を続行する姿勢を見せます。

同じころ義政は、正式に義尚に家督を譲って隠居します。義視も日野富子を通じて早々に義政と和睦しようとしていました。このような中で、戦闘をやめて帰国する守護が現れ始めます。

ところが、大内政広だけは細川勝元の息子の政元との戦いを続行していました。しかし、大将の義視が義政に臣従する意思を示したので、彼もついに戦う意味を失います。

最後は、日野富子が朝廷に働きかけ、大内政広の領国と官職をそのままとし、生きて帰ることを許可します。これによって大内政広は帰国し、残っていた西軍も一斉に撤退して応仁の乱はようやく終わりを告げたのです。

4.応仁の乱の結果変わったこと

(1)室町幕府の権威の失墜と衰亡

室町幕府の権威は、以前から低下傾向にありましたが、応仁の乱によって、決定的に権威が失墜し、幕府は有名無実化します。以後は日本各地で戦乱が常態化し、有力大名が入り乱れて天下の覇権を争う「戦国時代」がスタートするきっかけとなりました。

また、将軍家と細川家の対立も鮮明になり、将軍家が細川家の家督争いの道具にされるという事態も起こります。

(2)「下剋上」の気運の蔓延

それまでの幕府の「権威」による支配が通用しなくなり、「実力」による支配が全ての戦国時代となります。

(3)村落内部での「国人領主」や「土豪層」の勢力台頭

在地に根を下ろし、着実な領主制を展開してきた「国人領主」や「土豪層」が、在地支配を疎かにしてきた「不在地主」のような「守護大名」に代わって勢力を伸ばします。

「守護代」が「守護大名」を倒して「戦国大名」化して行く動きがその象徴です。

(4)戦法の変化

応仁の乱以降、「足軽」が第一線で活躍するようになり、戦国時代の戦い方に大きな影響を与えました。


応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) [ 呉座勇一 ]


マンガ応仁の乱 [ 小和田哲男 ]