後白河法皇(後白河天皇)は謎が多いが実は面白い人物!?その生涯とは(その2)

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後白河天皇

前に「後白河天皇の保元の乱までの人生」をたどる記事を書きましたが、今回はその後の人生についてわかりやすくご紹介したいと思います。

天皇家と藤原摂関家の関係は複雑ですので、理解しやすいように家系図を付けておきます。

後白河法皇関係図

1.平治の乱

「保元の乱」の後、信西と藤原得子との間で話し合いが行われ、第77代後白河天皇(1127年~1192年、在位:1155年~1158年)は予定通り守仁親王に譲位し、守仁親王が二条天皇(第78代)(1143年~1165年、在位:1158年~1165年)として即位します。

しかし、「後白河法皇が院政をするのか?二条天皇が親政をするのか?」で朝廷内は大きく対立しました。そして1159年、再び平安京で乱(平治の乱)が起こります。これは「後白河法皇の近臣(部下)たちの間の権力争い」です。

藤原信頼は、後白河法皇の寵臣として絶大な権力を振るいましたが、同じく後白河法皇の近臣である藤原通憲(信西)と対立するようになり、三つのグループが出来ます。

①後白河院政派:藤原通憲(信西)グループ

②後白河院政派:藤原信頼グループ

③二条天皇親政派:美福門院(藤原得子)グループ

①の信西グループを②と③のグループが襲撃して、「平治の乱」が勃発します。藤原信頼は源義朝とともに藤原通憲(信西)を襲撃し、信西は敗死し、後白河法皇は幽閉されます。

途中までは②③のグループが優勢でしたが、平治の乱が勃発した時「熊野詣」で都を離れていた平清盛が六波羅に戻って反撃し、藤原信頼を斬首し、源義朝も尾張で殺害し、最終的に平清盛(1118年~1181年)が①の後白河院政派として勝利します。

平清盛は、直ちに法皇・天皇のいる皇居を本拠地とする藤原信頼・源義朝に対して「信西の弔い合戦」をするのは「朝敵」とされる恐れがあり様子見をして、裏工作に動きます。二条天皇親政派の藤原惟方・藤原経宗に接近し、藤原信頼派と二条天皇親政派の協力関係の切り崩しに成功します。

そして二条天皇は女装して皇居から脱出し、後白河法皇は仁和寺に逃れます。そして二条天皇に「藤原信頼追討の宣旨」を出させて、平清盛は藤原信頼・源義朝を攻撃し勝利したのです。

平清盛は、1167年には太政大臣となって平氏全盛時代の幕を開けることになります。

2.後白河法皇と平清盛

後白河法皇と平清盛

人材不足に悩む後白河法皇は、平清盛に急接近しました。平清盛は後白河法皇を助ける見返りに平氏一族の官位を引き上げるように要求し、成功します。「ギブアンドテイク」の持ちつ持たれつの関係です。

そんな中、後白河法皇は「平滋子(後の建春門院)」(平時信の娘。姉が平清盛の妻の時子)に一目惚れし、1161年には子供まで出来てしまいます。これが後の高倉天皇(第80代)です。

平清盛は、後白河法皇を個人的には好いておらず、二条天皇が親政を行うべきと考えていましたが、妻の妹の滋子と後白河法皇との間に子供が生まれたことで微妙な関係になりました。

しかし、後白河法皇がその子をすぐに皇太子にしようと計画したことが事前に露見します。これに平清盛は激怒し、後白河法皇の近臣を要職から外して、法皇の政治的影響力を奪いました。

政治能力を失った法皇は、仏教にのめり込み、1164年には千体の千手観音像で有名な三十三間堂(蓮華王院)を建立しています。平清盛は後白河法皇の政治能力を奪いましたが、抹殺するようなことはせず、法皇からの「三十三間堂建立の資材協力要請」にも応じています。

3.後白河法皇と二条天皇

二条天皇は22歳の若さで亡くなりますが、父の後白河法皇とは平治の乱で対立したこともあり、仲が良くありませんでした。。天皇には順仁親王がいましたが、生後1年にもならない乳飲み子でした。順仁親王が即位しなければ、次の天皇は後白河法皇の息子の高倉天皇にシフトすることが確実です。

そこで、亡くなる間際に順仁親王を即位させ六条天皇(第79代)(1164年~1176年、在位:1165年~1168年)としました。

しかし、二条天皇が亡くなると、政治の実権を奪われていた後白河法皇が平清盛と手を結んで、甥から叔父へという「不自然な皇位継承」を実現し、高倉天皇(第80代)(1161年~1181年、在位:1168年~1180年)が誕生しました。

なお、後白河法皇は、荘園領主として勢力を拡大し、各地で国司と紛争を起こしたり、寺社同士で対立抗争を繰り返す南都北嶺(奈良興福寺と比叡山延暦寺)に対しては、厳しい強硬な態度で臨みました。

4.後白河法皇と源平合戦

平氏系図

こうして、後白河法皇は本格的に「院政」を再開し、平清盛は平滋子のツテなどを利用して1172年に娘の「平徳子(後の建礼門院)」を高倉天皇の中宮とします。

徳子に男子が生まれて、その子が天皇になれば、平清盛は天皇の外祖父として絶大な権力を手に入れられるという計画です。そうなった時点では、平清盛にとって後白河法皇は無用の存在というか邪魔者でしかありません。

後白河法皇と平清盛との対立関係は、平滋子の存命中は何とか抑えられていましたが、1176年に彼女が亡くなると、1177年に起こった「鹿ケ谷陰謀事件」によって表面化します。

後白河法皇と平清盛との最後の仲介役だった清盛の嫡男平重盛(1138年~1179年)が1179年に亡くなると両者の対立は決定的となり、1180年の「治承三年の政変」というクーデターで平清盛は後白河法皇を幽閉状態に追い込み、政治の実権を完全に掌握します。

1168年に高倉天皇が即位した際、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)(1151年~1180年)も天皇候補でした。しかし我が子を即位させたい平滋子の妨害により、失脚しました。

彼は皇位の望みと財政基盤を奪われ、平家を恨みながら月日を過ごしていましたが、平家一門の度を越した権勢や栄耀栄華に業を煮やして、1180年に反乱を起こします(以仁王の挙兵)。

以仁王の挙兵は失敗に終わり、彼は命を落としますが、彼が発した「以仁王の令旨」に呼応して全国各地の源氏が立ち上がり、「源平合戦」が始まります。

各地の源氏は平安京を目指し、後白河法皇を味方に付けて、平氏を追放し、彼らに代わって官位を得ようとしたわけです。

幽閉されている後白河法皇は何も出来ず、源氏たちが救いに来てくれるのを待っていました。

5.後白河法皇と木曽義仲

平家軍を破り、後白河法皇を救ったのは、木曽義仲(源義仲)(1154年~1184年)でした。しかし二人の連携は全くうまく行きませんでした。

後白河法皇は「安徳天皇は平清盛が勝手に即位させた天皇なので、次は正式に後鳥羽天皇を即位させたい」と言うと、木曽義仲は、「次の天皇は今回立ち上がった以仁王の息子の北陸宮にすべき」と主張しました。新参者の武士が皇位継承について無遠慮に発言することに、後白河法皇や朝廷貴族は猛反発します。

そこで、後白河法皇は木曽義仲には見切りを付け、遅れて平安京に向かった源頼朝が派遣した源義経に頼ろうとします。

追い詰められた木曽義仲は、後白河法皇を強制幽閉することを決意し、法皇の住む法住寺を襲い、再び幽閉します。

しかし木曽義仲は、1184年「宇治川の戦い」「粟津の戦い」で義経・範頼連合軍に敗れ、亡くなりました。

6.後白河法皇と源頼朝

源氏家系図

再び自由の身となった後白河法皇は、源頼朝と協力しながら平家を追い詰めていきます。後白河法皇としては、源氏が平氏を滅亡に追いやれば、また平清盛の二の舞になりかねないので、平家の滅亡は望んでおらず、武家同士を争わせて法皇の権威をちらつかせながら調整役として政治の実権を握ろうとしていたのかもしれません。

しかし、1185年に平家は「壇ノ浦の戦い」で滅亡しました。源頼朝の一人勝ちになると平清盛の再来になる恐れがあるため、後白河法皇は、頼朝・義経兄弟の仲に軋轢が生じているのを利用して、義経を味方に引き入れ、頼朝の対抗馬にしようとしました。

ところが義経の力では頼朝に対抗できず、義経は奥州藤原氏とともに1190年に頼朝に滅ぼされます。

その結果、後白河法皇は朝廷と鎌倉幕府という権力の二重構造を容認せざるを得なくなります。源頼朝は巧みな政略で困難な時代を切り抜けた後白河法皇を「日本国第一之大天狗」(日本一の大天狗)と評しています。

ただ、鎌倉幕府は東国に本拠を置いた「本格的な武家政権」で、平家のように京の都にあった「実質的な武家政権」ではありませんでした。しかし、武力で政治の実権を握った源頼朝も、天皇から「征夷大将軍」に任ぜられるという「正統性のお墨付き」を必要とすることを後白河法皇は見抜いていたのでしょう。

このように後白河法皇(後白河天皇)の生涯を振り返ってみると、「歴史というものは一人の人間(たとえば天皇)の目を通して眺めると案外よくわかる」ように私は思います。今回の例で言えば、「平安時代にタイムスリップ」して「後白河法皇になりきって」みると、歴史を見る目が変わるかもしれませんよ。

7.後白河法皇(後白河天皇)にまつわるエピソード

(1)「今様」に熱中したこと

「梁塵秘抄口伝集」には自ら次のような趣旨を記しています。

十歳余りの時から今様(当時の流行歌)を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、そのうち二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。

待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした。

その没頭ぶりは、周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、「愚管抄」によれば鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていたそうです。

同じく「梁塵秘抄口伝集」によれば、1162年正月の熊野詣で、千手観音経千巻を読んでいた時に、ご神体の鏡が輝いたので、法皇は次のような「今様」を歌ったそうです。

万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ。

意味は、「多くの仏の願いよりも、千手観音の願いは頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟る、とお説きになられている」ということです。

(2)「梁塵秘抄」の撰者であること

平安時代末期の1180年ごろ、後白河法皇によって編まれた今様歌謡集の「梁塵秘抄」には、次のような「今様」(当時の流行歌)が載っています。この今様は「白拍子」によって舞い歌われ、後白河法皇も大変お気に入りだったそうです。

遊びをせんとや生まれけん 戯(たはぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば わが身さえこそ動(ゆる)がるれ」

「仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見へたまふ」

「舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に 蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 真(まこと)に美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん」

蛇足ですが「梁塵秘抄」の「梁塵」とは、「中国の漢時代に魯の虞公が大変な美声で、歌うと梁の塵まで動いた」という故事(「梁塵を動かす」)が由来です、

(3)「年中行事絵巻」を描かせたこと

原本は、保元2年~治承3年(1157年~1179年)頃の成立と推定されています。

後白河法皇は楽しいことや面白いことが大好きな人物だったようで、宮廷絵師の常磐光長らに描かせた「年中行事絵巻」は本来宮廷・公家における年間の儀式・祭事・法会・遊戯などを描くものですが、民間の風俗もふんだんに盛り込んでおり、生き生きとした庶民の姿も描かれており、鳥獣戯画に通じるものがあります。ひょっとすると鳥獣戯画も後白河法皇が発注したのかもしれません。

ちなみに「鳥獣戯画」とは京都の高山寺所蔵の「鳥獣人物戯画」という墨絵の絵巻物のことです。国宝で、「日本最古の漫画」とも称されます。甲・乙・丙・丁の4巻からなり、内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたものです。

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