「鶏頭論争」というのは、俳句の解釈と評価の難しさを如実に表した論争です。

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鶏頭群生

1.俳句の解釈と評価の難しさ

私が高校生の時、「現代国語」の授業で先生が次のような俳句を紹介しました。

「五月雨(さみだれ)や 年中の雨 降り尽くし」

皆さんはこの俳句の意味はどういうものだと思われます?そしてこの俳句は優れていると思われますか、それともつまらない句だと思われますか?

実はこの俳句は、ある新聞の俳句のコンクールで「特選」になったものです。

選者の俳人は「五月雨というのは、しとしと降り続く長雨だが、春雨や霧雨のような細雨もあれば、秋雨、冬の時雨のような風情のある雨もあり、また台風の時のような豪雨もありと、一年のさまざまな雨の形を見せてくれるものだ」とこの句を解釈し、激賞しました。

私をはじめとして生徒の多くは、「一年間に降る雨をこの時期に全部降り尽くしてしまうほどの大変な雨量だ」という意味だと解釈しました。

どうも、この句の作者もそのつもりだったようです。選者の俳人の解釈相違による的外れな激賞か過大評価だったのかもしれません。

2.鶏頭論争

ところで、俳句の世界ではこの「俳句の解釈と評価の難しさを如実に表す論争が巻き起こったことがあります。それが「鶏頭論争」です。

正岡子規(1867年~1902年)の俳句に次のようなものがあります。この句は教科書にも載っていたのでご存知の方も多いと思います。

鶏頭の 十四五本も ありぬべし

子規が病床から庭先の鶏頭を見て詠んだ句で、意味は一般には、「(庭の)鶏頭が十四五本もあるに違いない」という意味だと理解されています。

また、子規が脊椎カリエスで起き上がるのもままならない病床にあったので、「よくは見えないが、昨年見たような鶏頭が、今年も同じように咲いているらしい。十四五本ほどでもあろうか。去年そうであったから、今年もやはりそのくらいが一塊になって咲いているのだろう。もはや床を離れて見に行くことも出来ないけれど」という解釈もできます。

この句は元来評価が分かれており、昭和20年代にはこの句の評価をめぐって「鶏頭論争」と呼ばれる論争が起こり、以後も現代に至るまで俳人や歌人、文学者の間でしばしば論議の対象となっています。

(1)成立

1900年9月に子規庵で行われた句会で出された句です。高浜虚子(1874年~1959年)など19名が出席しました。二回目の「運座(うんざ)」(一定の「題」によって句を作り、互選する会のこと)で「鶏頭」が出され、彼も9句詠んだうちのひとつです。

彼の庭には、夏目漱石の友人でもあった画家の中村不折(1866年~1943年)から贈られた鶏頭が実際に十数本植えられていたので、「嘱目吟」(実際に景色を見ながら作句すること)だったようです。

しかしこの句は特に支持を集めず、二人が点を入れただけでした。虚子も彼の句では「鶏頭や二度の野分に恙なし」を選んでいます。そして虚子が「天」(最上の句)としたのは、別人の句でした。

彼は2カ月後、雑誌「日本」に「庭前」の前書き付きで掲載しました。特に必要ないと思われる前書きを付けたのは、「難しく捉えずに、写生句として読んでほしい」という気持ちからのようです。

(2)評価

①論争前史

当初、子規の俳句仲間にはほとんど評価されませんでした。子規の没後の1909年に虚子と河東碧梧桐によって編まれた「子規句集」にも、この句は選ばれていません。

最初にこの句に注目したのは歌人たちでした。まず長塚節が斎藤茂吉に対して、「この句がわかる俳人は今は居まい」と語ったということです。

その後、茂吉は「子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作だと「童馬漫語」「正岡子規」などの本で喧伝し、この句が「子規句集」に選ばれなかったことに強い不満を示しました。

しかし、虚子は1941年の「子規句集」でも、「選むところのものは私の見て佳句とするものの外、子規の生活、行動、好尚、其頃の時相を知るに足るもの、併(ならび)に或事によって記念すべき句等」とし、「驚くべき頑迷な拒否」でこの句を入れませんでした。

②鶏頭論争

このような背景のなかで、戦後いち早くこの句を取り上げて否定したのが俳人の志摩芳次郎でした。志摩は1949年に「氷原帯」において「子規俳句の非時代性」の中で、「この句は単なる報告に過ぎず、たとえば『花見客十四五人は居りぬべし』などいくらでも同種の句が作れるし、それらとの間に優劣の差が見られない」としました。

また、斎藤玄も、「『鶏頭』を『枯菊』などに、『十四五本』を『七八本』に置き換えうるのではないか」という意見を出しています。

これらに対して、山口誓子は1949年に「俳句の復活」において「鶏頭をこの句のように捉えたときに、子規は『自己の生の深処に触れた』のである」として、句の価値を強調しました。

また西東三鬼も山口の論を踏まえつつ、1950年に「天狼」において「病で弱っている作者と、鶏頭という武骨で強健な存在が十四五本も群立しているという力強いイメージとの対比に句の価値を見出して、志摩への反論を行っています。

その後、評論家の山本健吉1951年に「鶏頭論争終結」において、当時の論争を概括し、まずこの句が単純素朴な即興の詩でありだからこそ「的確な鶏頭の把握がある」として評価しました。

そして、誓子・三鬼の擁護意見が「病者の論理を優先し過ぎている」と批判しつつ、「十四五本」を「七八本」に置き換えうるとした斎藤の説については、現実の鶏頭と作品の世界の鶏頭とを混同していると批判し、言葉の効果の上で明らかに前者が優れていると指摘しました。

その上で、この句が「子規の鮮やかな心象風景を示していると改めて高く評価し、この論争を締めくくりました。

ちなみに、高浜虚子は、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」も駄句と考えていたようで、「子規句集講義」や「子規句解」にはこの句を入れていません。

③論争以後

以後しばらくは、山本の論に匹敵するような論説は現れませんでしたが、1976年に歌人の大岡信が「一年前の『根岸草蘆記事』という子規庵を題にした写生文競作の思い出に焦点を当て、眼前にはない去年の鶏頭を思い出して作られたもの」で、「当日の句会の中で唯一の『根岸草蘆記事』の参加者であった虚子を意識して出されたものである」という新説を提示しました。

『根岸草蘆記事』の中で、子規は自邸の「燃えるような鶏頭」を熱心に称えており、そしてこの鶏頭が霜のためか一斉に枯れてしまった時には、「恋人に死なれたら、こんな心地がするであらうか」と思うほど残念がったことを記しています。

また大岡は、句の中の「ぬべし」という、完了および強意の「ぬ」に推量の「べし」が結びついた語法が客観写生の語法とは言えず、「現在ただ今の景を詠む語法としては異様」としています。

2009年には、正岡子規の研究者でもある俳人の坪内稔典が、「鶏頭の句は駄作」と主張しています。子規という作者の人生を読み込まなければ「語るに足らない駄作」であると明言し、「もし句会にもう一度作者の名前を消して出したとしても、末期(まつご)の存在感のようなものは感じ取れないだろう」と書いています。

(3)私の見方

人間による評価というものは、「人事評価」でも、「スポーツの芸術点評価」でも、「芸術作品の評価」でも、第三者あるいは有識者から見て「妥当な評価」もあれば「過大評価」「過小評価」もあります。

俳句についても、たとえば鶏頭の句について、「十四五本」でなくても「七八本」でも同じだとして、単なる駄句と決めつける人もいます。

これは「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」についても、「法隆寺」を別の「東大寺」に取り換えても同じ駄句だという意見もあるでしょう。

しかし、私は柿と法隆寺という言葉から、斑鳩の里の静かな秋の風情を感じます。東大寺では少し情緒が違うように思います。

俳句の評価についてあれこれ言う資格は、門外漢の私にはありませんが、芸術作品については人それぞれの見方があってよいと思います。そして、その俳句の成立した背景や情緒を度外視して、字面だけをあげつらうのは適当ではないと思います。

3.鶏頭という季語

鶏頭

鶏頭(ケイトウ)は、鶏(ニワトリ)の鶏冠(とさか)に似た花で、炎のような鮮やかな赤色をつける目立つ花です。暑さに強く7月から11月にかけて開花します。

秋の季語になります。



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