蛍の光には3番・4番の歌詞がある!戦後、歌詞が抹消・改作・改変された唱歌

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蛍の光歌詞

1.蛍の光

私が学校に通っていた昭和30年代~40年代の頃は、「蛍の光」が「卒業式の歌」の定番でした。しかし最近は、卒業式で「蛍の光」は歌わないそうです。昔は「蛍の光」と「仰げば尊し」がセットで卒業式の定番曲だったのですが、最近は「仰げば尊し」も卒業式で歌われなくなったようです。今や「蛍の光」は「閉店時の追い出し曲」という認識になったのでしょうか?

この曲は元々スコットランド民謡(Auld Lang Syne)で、これに国学者・教育者で歌人の稲垣千穎(いながきちかい)(1845年~1913年)が歌詞を付けて小学唱歌としたものです。

ところで稲垣千穎の歌詞は、冒頭の画像にある通り4番まであるのですが、私も1番と2番の歌詞しか歌った記憶がありません。そしてこの歌詞は、中国の故事「蛍雪の功」に由来するという程度の認識でした。

しかし元々の歌詞の全体の意味は、南や北の国土防衛に赴く兵士を送る妻の惜別の歌だったのです。

戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本に対して「国史(歴史)」と「地政学(地理)」と「修身(道徳)」の教育を禁止しました。日本人の愛国心を骨抜きにするためです。

文部科学省の概説」によると「軍国主義的及び国家主義的思想の排除を教育内容において徹底しようとするもので、修身・日本歴史・地理の授業停止とそれらの教科書・教師用参考書との回収を命じたものである」そうです。

日本政府がGHQに忖度したのか、GHQから直接削除の指示があったのかわかりませんが、この3番と4番の歌詞が国家主義的(軍国主義、滅私奉公)だとして敬遠され、また日本固有の領土である沖縄がアメリカに占領され、千島がソ連に占領されていたという事情もあって、教育現場への指導で、3番と4番の歌詞は歌われなくなったのだそうです。

トインビー

ところで、イギリスの歴史家アーノルド・J・トインビー(1889年~1975年)は「滅亡する民族の三つの共通点」として次の三つを挙げているそうです。

自国の歴史を忘れた民族は滅びる

12~13歳までに自分たちの国の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる。なぜなら自分の国の歴史や神話、これらについて何も知らないと自分の国に対する誇りが持てないからだ。

②全ての価値を物やお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる

③理想を失った民族は滅びる

ただし、この「アーノルド・J・トインビー」の説というのは、彼自身の著作や言葉には見当たらないそうで、日本神話を信奉する戸松慶議氏・吉川正文氏・出雲井晶氏・竹田恒泰氏のような日本の古事記研究者などが作り上げた説のようです。

確かに①②③に該当した民族は一体どの民族なのかという素朴な疑問が起きますよね。帝国主義に基づく植民地政策によって、「原住民の言語・文化・民族性が否定されて滅びた(民族としてのアイデンティティーが失われた)」という例は実際にあったと私は思います。

現在日本の近隣国のロシア・中国・北朝鮮の共産主義諸国がそろって「軍国主義的」ないし「侵略主義的」になっていることは明白です、日本は「平和ボケ」にならず、現実から目を背けず防衛に万全を期す必要があると思います。「自虐史観」は民族滅亡につながります。

戦前の日本の軍国主義を、戦後になって徹底的に批判し今も批判し続けている朝日新聞などのマスコミが、戦前の「大本営」のような報道への圧力はないはずなのに、現在のロシア・中国・北朝鮮などの動きを批判する記事を一切書かないのは奇妙な話です。

軍国主義や侵略主義を本当に憎んでいるのであれば、最近のロシア・中国・北朝鮮の動きを厳しく批判する論陣を張るのが筋ではないかと思うのですが・・・

2.里の秋

「静かな静かな 里の秋 おせどに 木の実の 落ちる夜は♪」で始まるこの「里の秋」(作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実)は、1945年(昭和20年)12月24日のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で初めて、川田正子さんの歌唱で放送されました。放送直後から大きな反響があり、翌年から始まったラジオ番組「復員だより」の曲としても使われたそうです。

元々この歌は国民学校の教師だった斎藤信夫氏が昭和12年に作った「星月夜」(*)という詩で、「軍国童謡」とでも言うべきものでした。1番と2番は、「里の秋」と同じですが、3番は、父親の武運を祈る家族と、4番は、将来兵隊になる希望を持つ男の子を歌ったものです。

(*)<星月夜3番>きれいなきれいな椰子の島 しっかり護って下さいと ああ父さんのご  武運を 今夜も一人で祈ります <星月夜4番>大きく大きくなったなら 兵隊さんだようれしいな ねえ母さんよ僕だって 必ずお国護ります

斎藤氏は海沼実氏に「童謡としての作曲」を依頼する手紙を送りましたが、作曲されることなく終戦を迎えました。

NHKから、「復員兵を元気づける歌」の作曲を急遽依頼された海沼氏が、戦時中に作られた斎藤氏の「星月夜」(「里の秋」の元の詩)を思い出して、斎藤氏に、3番と4番の軍国調を消した歌詞に変更を依頼して出来上がったのがこの歌です。戦争で戦うよう生徒に教えていた斎藤氏は、責任を感じて戦後、教師を辞めていました。

1番は、ふるさとの秋を母子が過ごす情景、2番は、出征中の父親を夜空の下で思う情景、3番は父親が南方の島から無事に引揚げて来ることを祈る家族の情景となっています。

3.冬の夜

「冬の夜」は「小学唱歌」の一つです。文部省唱歌の慣例で、作詞者・作曲者は公表していません。初出は明治45年3月の「尋常小学唱歌(三)」です。戦後の研究でも、作詞者・作曲者の特定には至っていません。

2番の歌詞の「過ぎしいくさの手柄を語る」(初出の時代背景から、日清戦争もしくは日露戦争を意識したものと思われます)が「戦意高揚」であると一部の人々に否定されたことから、戦後発行された教科書や「唱歌・童謡集」では、「過ぎし昔の思い出語る」に改変されました。

しかし、「そうすると、なぜ子供たちが『拳を握って』興奮するのか意味不明になる」という意見も出て、再度オリジナルの歌詞に戻す動きも出ているようです。

この改変は、「差別的だからという理由で、違う漢字に書き換えたり、違う言葉に言い換えようとする動き」とよく似た「言葉狩り」で、意味のないことであり、私としてはあまり感心しません。

<ご参考>

1番  燈火ちかく衣縫ふ母は
春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数かぞへて喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪

2番  囲炉裏の端に繩なふ父は
過ぎしいくさの手柄を語る (過ぎし昔の思い出語る)
居並ぶ子供は ねむさを忘れて
耳を傾け こぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪

4.船頭さん

「村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん♪」で始まるこの歌は、作詞:武内俊子、作曲:河村光陽で1941年に発表された童謡です。

武内俊子(1905年~1945年)は河村光陽(1897年~1946年)とのコンビで「かもめの水兵さん」(1937年)や「りんごのひとりごと」(1940年)も作っています。

歌詞のモデルになった場所は、作詞者の武内俊子が幼少期を過ごした広島県三原市の実家近くの沼田川だそうです。

この歌の2番と3番の歌詞は、戦後改作されました。

<ご参考>

<オリジナルの歌詞>

1番  村の渡しの 船頭さんは 今年六十の お爺さん 年はとっても お船をこぐ時は

元気いっぱい 櫓(ろ)がしなる ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

2番 雨の降る日も 岸から岸へ ぬれて船こぐ お爺さん 今日も渡しで お馬が通る

あれは戦地へ 行くお馬 ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

3番 村の御用や お国の御用 みんな急ぎの 人ばかり 西へ東へ 船頭さんは

休むひまなく 船をこぐ ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

<戦後の改作版>

2番 雨の降る日も 岸から岸へ ぬれて船こぐ お爺さん 今朝もかわいい 仔馬を二匹

向こう牧場(まきば)へ 乗せてった ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

3番 川はきらきら さざなみ小波 渡すにこにこ お爺さん みんなにこにこ ゆれゆれ渡る どうもご苦労さんと いって渡る ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ



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