童謡の誕生秘話。北原白秋と山田耕筰のコンビが生んだ日本人の「こころのうた」

フォローする



北原白秋

(北原白秋)

山田耕筰

(山田耕筰)

「小学唱歌」に起源を持つ日本人の愛唱歌「童謡」は、私たち大人から子供たちに残したい美しい歌が多く、「共有したい日本人の心」を後の世代に橋渡しする役割を持っているように思います。

そこには、日本人の心に共通する日本独特の風情があります。日本人の心象風景を歌った「こころのうた」とも言えます。ところで、この童謡については、意外なあるいは悲しい、興味深い誕生秘話があります。

今回はその中からいくつかをご紹介したいと思います。

1.からたちの花(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)

「からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ

からたちのとげはいたいよ 青い青い針のとげだよ

からたちは畑(はた)の垣根よ いつもいつもとおる道だよ

からたちも秋はみのるよ まろいまろい金のたまだよ

からたちのそばで泣いたよ みんなみんなやさしかったよ

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ」

北原白秋(1885年~1942年)と山田耕筰(1886年~1965年)の二人はコンビとなって多数の名曲を世に送り出しました。

温かく懐かしい余韻の残る優しくリズム感のある白秋の詩が、耕筰のメロディーによって引き立てられ、長年歌い継がれる童謡が生まれました。

1925年に発表された「からたちの花」は、山田耕筰の少年期の辛い体験を元にして北原白秋が作った詩です。

耕筰は10歳の時に父親を亡くし、13歳までは活版工場で働きながら夜学で学んでいました。工場で先輩の職工から足蹴(あしげ)にされたりしてつらい目に遭うと、からたちの垣根のある道まで逃げ出して泣いたそうです。5番の歌詞の中に「からたちのそばで泣いたよ」とあります。

北原白秋と山田耕筰のコンビで作られた童謡は、このほかに「この道」「砂山」「ペチカ」「酸模(すかんぽ)の咲くころ」「待ちぼうけ」「あわて床屋」などがあります。

2.(作詞:林柳波、作曲:井上武士)

「海は広いな 大きいな 月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波 ゆれてどこまで 続くやら

海にお舟を 浮かばして 行ってみたいな よその国」

この曲は、日華事変がすでに始まっている戦時下で、太平洋戦争開戦直前の1941年に発表されました。題名は最初「ウミ」で、後に「うみ」に変更され、更に「海」と表記されるようになりました。

この題名変更の経緯は、1913年に発表された「小学唱歌」の「松原遠く消ゆるところ♪」で始まる同名異曲の「海」との混同を避けるためだったのかもしれません。

戦意高揚のために作られた曲なので、歌詞の中にある「海にお船を浮かばして 行ってみたいなよその国」は「敵国」の意味だったようです。

林柳波林きむ子

(林柳波と妻きむ子)

林柳波(本名:林照寿)(1892年~1974年)は、群馬県沼田市出身で童謡詩人であるとともに明治薬学校(現明治薬科大学)を卒業した教育者・薬剤師でもあります。

在学中から詩や俳句に手を染め、1923年に野口雨情と出会い、童謡や民謡も書くようになりました。また母校の明治薬学校の講師にもなっています。

彼の最初の妻は1年後に死別し、1919年に再婚した相手は9歳年上の未亡人日向(ひなた)きむ子でした。彼女は元代議士の妻で、「大正三美人」の一人として有名で社交界の花形だったそうです。

彼女はその美貌を看板に、化粧品の製造・販売も行っており、彼は薬剤師として化粧品の改良に助言を行うことなどで彼女とのつながりを深めたようです。

彼女は野口雨情から「童謡の振付け」を依頼され、雑誌「金の星」に写真入り解説の掲載を始めました。これが縁となって彼は雨情と出会い、その影響で再び詩作を行うようになりました。

井上武士

(井上武士)

井上武士(1894年~1974年)は、群馬県前橋市出身の作曲家で、東京音楽学校を卒業し、母校の教授も務めました。

主に唱歌・童謡の作曲に従事し、「海」「チューリップ」「うぐいす」「菊の花」「麦刈り」など多くの作品を残しました。

ところで、「われは海の子」という1910年発表の「小学唱歌」がありますが、普通は3番の歌詞までしか載っていません。しかし、7番の歌詞は次のようになっています。

「いで大船を乗出して 我は拾はん海の富 いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の國

3.夕焼け小焼け(作詞:中村雨紅、作曲:草川信)

「夕焼け 小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る

おててつないで みなかえろう からすと いっしょに かえりましょ

子供が かえった あとからは まるい大きな お月さま

小鳥が夢を 見るころは 空には きらきら 金の星」

この歌は詩人・童謡作家の中村雨紅(本名:高井宮吉)(1897年~1972年)が1919年に発表した詩に、童謡運動の旗手として活躍した作曲家草川信(1893年~1948年)が1923年に曲を付けたものです。

中村雨紅は、東京の日暮里にある小学校の教師で、八王子市にある自宅まで片道16kmの道のりを徒歩で通っていたそうです。そんなある日の夕暮れに見た美しい夕焼けからこの詩が生まれました。彼は後に神奈川県厚木市の高等女学校の教師となり職業人生を終えています。

彼は終生、教え子には自分が「夕焼け小焼け」の作詞者であることを口外しなかったそうです。

美しいけれどもちょっぴり寂しい田舎の夕暮れを歌った抒情的な中村雨紅の歌詞に、ゆったりとして歌いやすい草川信の「ヨナ抜き音階」の曲がよくマッチしています。

ところで、「夕焼け小焼け」の「小焼け」とはどういう意味なのか、というのが少し引っかかります。広辞苑にも出ていません。ただし「日本国語大辞典」では「夕焼け小焼け」の項で、「『こやけ』は語調を整えるために添えたもので、『夕焼け』に同じ」と説明されています。

この「夕焼け小焼け」という表現は、北原白秋の童謡「お祭り」(1918年発表)が初出例だということです。中村雨紅のこの歌は1919年発表なので、白秋の造語表現を利用したようです。ちなみに「夕焼け小焼けの赤とんぼ♪」で始まる三木露風作詞の「赤とんぼ」は1921年の発表です。これは白秋や雨紅の表現を参考にしたのでしょう。

童謡詩人で童謡研究家でもある藤田圭雄(たまお)氏は著書「童謡の散歩道」の中で、この小焼けは「日本語のような音数律の詩の場合、リズムを整えるために、意味のない枕詞だとか対語が使われます」と述べています。

わらべうたの中にも「大寒小寒」「大雪小雪」などの例句があり、白秋にも「涼風小風(すずかぜこかぜ)」「仲良し小よし」など同様の例があると述べています。

ちなみに「夕焼け小焼け」があるのだから、「朝焼け」にも付けられるだろうと考えた童謡詩人の金子みすゞ(1903年~1930年)は、1924年発表の詩「大漁」を、「朝焼け小焼けだ大漁だ」で始めています。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする