インカ帝国があっけなく滅亡し、インカ文明も消滅したのはなぜか?

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マチュピチュ

インカ帝国の遺跡と言えば、世界遺産(文化遺産)にも指定されて観光地として有名なペルーの「マチュピチュ」でしょう。

このマチュピチュに村を作り「ホテル」を建てて世界的な観光地に押し上げたのは野内与吉氏という日本人で、今でもペルーで尊敬されている日本人です。

ところで、高度な文明を持ちながら、帝国主義列強であるスペインの征服者ピサロの少数の軍隊によってあっけなく滅ぼされた「インカ帝国」と「インカ文明」は謎に包まれています。

そこで今回はインカ帝国とインカ文明の謎に迫ってみたいと思います。

1.インカ帝国とインカ文明

インカ帝国

インカ帝国は、13世紀から16世紀にかけて繁栄した南米一の巨大な帝国です。太陽神の化身と言われる皇帝が帝国を治め、高度な農耕文化や金属文化がありながらも、16世紀にスペイン人の侵略によってあっけなく滅亡しました。

「太陽神の化身」というのは、エジプトのファラオも日本の天皇(天照大神)もそうですが、古来・古今東西に共通した発想のようです。

インカ帝国のインカ文明は、精巧な作りの用水路、地震でも壊れない石造りの建物、天文観測所など高度な技術を持ったものでしたが、文字を持たなかったため詳細な記録が残っておらず、多くの謎に包まれています。

インカ文明文字を持たなかったことは、最大のウィークポイントの一つではないかと思います。紀元前3000年頃に始まった古代エジプト文明でも、「象形文字」がありました。紀元前2600年頃に始まったインダス文明でも、「象形文字」がありました。紀元前1600年頃に始まった古代中国の黄河文明でも、「甲骨文字」がありました。

偉大な文明には「文字」が欠かせなかったと思うのですが、インカ帝国が文字を持たなかったことはとても不思議な気がします。「紙」は発明されていなくても、石や木に文字を記すことは可能だったはずです。建物の建設や、指揮命令にも「口頭」だけでは何かと支障があったのではないでしょうか?

なお、「キープ」と呼ばれる「複雑に組み合わされた結び目付きの紐」が、文字の代わりに情報を記録していたという研究が最近発表されています。

キープキープ・文字の代用

2.スペインによる征服前のインカ帝国

インカ帝国は、南アメリカ大陸、現在のペルー・エクアドル・ボリビア・チリ北部を支配し、1200年頃に成立し、15世紀に最盛期を迎えた国家です。

「ケチュア族」の中の「インカ部族」が建てた国で、首都は標高3400mのクスコです。「アンデス文明」を継承して繁栄し、高度な「インカ文明」を成立させましたが、スペインの征服者ピサロによって征服され、1533年に滅亡しました。

(1)帝国誕生の初期は群雄割拠の状態

第2代~第8代皇帝までの200年あまりは、帝国というよりも「部族の群雄割拠」で、クスコを中心とした数十キロ内の部族と絶え間ない戦闘を続けていました。

(2)急速な周辺部族征服による大帝国の成立

ところが15世紀の中頃、長年の仇敵であった北方の「チャンカ族」と戦って勝利を収めると、急速に周辺部族の征服を開始し、第9代のパチャクチ皇帝は在位33年間に帝国の版図を約1000倍に拡張しました。古代ギリシャのアレキサンダー大王のような感じですね。

第11代のワイナ=カパックはさらに領土を拡張し、アンデス世界の百万㎢、南北の距離は4000㎞に及ぶ大帝国となりました。

ただし、インカ帝国は被征服部族の自治を比較的自由に認めていたため、一種の「連邦国家」のような形でした。

(3)天然痘の蔓延

スペインの侵略者たちが最初にインカ帝国に到達する前に、天然痘がコロンビアからインカ帝国内に急速に広まりました。

天然痘は、わずか数年間でインカ帝国の人口の60%から94%を死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こしました。

3.スペインによる征服

フランシスコ・ピサロ

(1)スペインの征服者ピサロの最初の侵攻

スペインの征服者(コンキスタドール)たちは、フランシスコ・ピサロ(1470年頃~1541年)兄弟に率いられ、パナマから南下し、1526年にインカ帝国の領土に達しました。

そしてインカ帝国が財宝に満ちた富裕な国であることを確認し、1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、「その領域の征服」と「副王就任の許可」をスペイン国王から得ました。

(2)皇位継承をめぐるインカ帝国の内戦(1529年~1532年)

1527年に第11代皇帝ワイナ=カパックが亡くなると、1529年に皇位継承をめぐって争いが起こりました。皇妃との間に生まれたワスカル皇子と、側室の子のアタウワルパが皇位をめぐって戦い、帝国を二分する内戦となりました。1532年、アタウワルパが勝利を収め皇帝となりました。

(3)スペインの征服者ピサロの再上陸

インカ帝国の滅亡

1532年、アタウワルパの皇帝即位と時を同じくしてスペインの征服者ピサロが北端のツンベスに再上陸しました。ピサロはわずかな部下を率いて進撃しました。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭でした。

このピサロ再上陸の時、インカ帝国はかなり弱体化していました。その原因は、インカ帝国内に皇位継承をめぐる内戦が勃発していたこと、新たに征服された領土内に不安が広がっていたこと、そして何よりも天然痘の伝染に対する恐怖でした。

インカ軍の兵士は士気の低い徴用兵が多かったのに対し、征服者側は鉄砲などの近代兵器を持っており完全武装した騎兵の士気や軍事技術も高いものでした。

ピサロはインカ帝国による自領の統治を断ち切りたい何万もの同盟者を現地で獲得しました。

結局ピサロは皇帝アタウワルパを騙して捕らえ、処刑しました。これによって1533年にインカ帝国は滅亡しました。

4.「マチュピチュ」の都市遺跡について

ペルー南部のアンデス山中、標高2500mの高地にある「マチュピチュ」の都市遺跡が何の目的で作られたのかについては、いろいろな説があります。

(1)インカ最後の砦

(2)インカ王族や貴族の避暑地や別荘地

(3)巡礼地

(4)太陽神を祀り太陽を観測するための建物群

(5)神聖な女子修道院

(6)農業試験場



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