顔に似合わず喧嘩っ早い有名芸能人の近江敏郎氏と大島渚氏のエピソードをご紹介

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大島渚

世の中には、普段はおとなしいけれど、間違ったことや自分の考えと違う人には反発し、本気で喧嘩をしてしまう芸能人や映画監督がおられます。

今回は、私がエピソードを知っている二人の方をご紹介します。

1.近江俊郎氏(1918年~1992年)

近江俊郎氏と言えば、「山小舎(やまごや)の灯」や「湯の町エレジー」で知られる往年の大歌手です。彼は武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)在学中に、教授と進級試験の方法を巡って対立し、1936年に退学しています。

1940年に、自ら作曲した「想い出の並木路」を「ポリドール」に持ち込んで、歌手兼作曲家として「専属」になり、やがて「ポリドール」の代表的歌手となります。しかし、1941年暮れの宴席でワンマンで有名だった鈴木幾三郎社長と対立し、そのまま退社してしまいました。

1942年に「コロンビア」に移籍し、古賀政男の門下生となります。その後「オールスター家族対抗歌合戦」などの多くの番組で審査員や審査委員長を務め、温厚な人柄を感じさせました。

1979年に、古賀政男の追悼音楽会が開催された時、美空ひばりが出演しなかったことについて、「一番世話になった人の会に美空ひばりが出ないのは、人の道に外れている」と批判しました。

2.大島 渚氏(1932年~2013年)

大島 渚氏は、1950年に京都大学法学部に進学しますが、京都学連委員長として「学生運動」に携わり、1951年の「京大天皇事件」や1953年の「荒神橋事件」に関わりました。

法学部助手試験は不合格となり、1954年に「松竹」に入社し「助監督」「監督」の道を歩み始めます。

1960年に「日米安全保障条約に反対する安保闘争」を描いた「日本の夜と霧」を発表しますが、公開4日後に「松竹」は彼に無断で上映を打ち切りました。彼はこれに猛抗議して、1961年に「松竹」を退社してしまいます。

その後、有名な問題作「愛のコリーダ」を発表し、「法廷闘争」にまで発展しましたが、「刑法175条は憲法違反である」との主張は認められませんでしたが、彼は結局無罪となりました。

1983年には、ビートたけしや坂本龍一、デヴィッド・ボウイなどを起用した国際的合作の「戦場のメリークリスマス」を発表し、話題となりました。

彼は「朝まで生テレビ」で竹村健一に「ばかやろう」と怒鳴って話題になりました。

自身の「結婚30周年記念パーティー」では、祝辞を述べる予定だった野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、何時間も待たされた野坂は祝辞を述べた後、大島の頬を殴り、メガネが吹っ飛んだそうです。これに対して大島は持っていたマイクで野坂の頭を殴り返したとのことです。

私が思うに、お二人に共通しているのは、「世渡り上手」というタイプではなく、筋を通す「正義漢」であり、今では少なくなった「硬骨漢」だったように思います。



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