改ざんの経緯を詳細に記録した「赤木ファイル」を連想させる古代中国の故事

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森友学園・赤木ファイル

「森友学園事件」で、財務省の佐川理財局長に「決裁文書の改ざん」を強要されてうつ病になり2017年に自殺に追い込まれた近畿財務局職員の赤木俊夫さんという方がおられました。上司からの命令とはいえ「公式文書の改ざん」という重大な犯罪行為をしたことを苦にしたもののようです。

しかし彼は改ざんの経緯を詳細に記録した「赤木ファイル」を残していました。2021年5月6日に国もようやくこの「赤木ファイル」の存在を認めました。

歴史は勝者によって作り変えられたり、恣意的に書き換えられたりする」ことは古来よくあることですが、古代中国で「記録を司る者、筆を取る者が己の良心の命ずるままに、真実を直筆して何ら憚ることのなかった故事」があります。

それが、「太史の簡」「董狐の筆」です。

1.「太史の簡(たいしのかん)」とは

これは、斉・荘公6年(B.C.548年)、斉の史官であった太史の歴史記録についての話です。

古代中国の春秋時代、斉の実力者「崔杼(さいちょ)」(?~B.C.546年)が主君の斉侯を弑(しい)しました。主君を殺害したわけですから、記録係の史官である太史はありのままに「崔杼、その君を弑す」と書いて公表しました。

これは国の正式記録なので、そのまま後世まで残り、崔杼は逆臣の汚名を史上に留めることになるので、怒ってその執筆者の太史を殺し、公式記録を破棄しました。

すると、その弟が跡を継いで太史となり、これまた同様のことを記録しました。崔杼はこれまた殺して記録を再び破棄しました。

しかしもう一人の弟が、やはり太史の職を継いでさらに同じことを書きました。これにはさすがの崔杼も感じ入って、もはや殺すことをあきらめ、記録が公表されるままにしました。

斉の南部にいた一人の史官が、「太史の家の者がみんな殺された」と伝え聞いて、自分がその代わりに真実を書き残そうと、死を覚悟で記録用の竹札である「簡」を手に斉の都へと旅立ちましたが、途中で「三人目の太史によって正式記録が残された」と聞き、安心して帰ったということです。

2.「董狐の筆(とうこのふで)」とは

これは、晋・霊公14年(B.C.607年)、晋の史官であった董狐の歴史記録についての話です。

晋の大臣の「趙穿(ちょうせん)」(生没年不詳)が、無道の主君の霊公を弑しました。その頃、同じ大臣の一人で、しかも正卿(総理格)の「趙盾(ちょうとん)」(生没年不詳)は、霊公に疎まれ他国へ亡命しようとしていましたが、まだ国境を越えずにいたため、霊公の弑逆を聞いて都へ引き返しました。

すると史官の董狐が公式記録に「趙盾、その君を弑す」と書きました。趙盾はそれを見て、「弑したのは私ではない」と抗議したところ、史官の董狐は次のように答えました。

「確かに、あなたが下手人ではありません。しかし、あなたは正卿であり、しかも国の内におり、引き返して来ても犯人を誅しようとはされませんでした。ですからあなたは、公式には弑逆者ということになるのです。」

趙盾はこれを聞いて、それを道理とし、甘んじて弑逆者の汚名を着たのです。

3.後世の評価

(1)孔子

のちに孔子(BC552年~BC479年)は、「董狐は立派な史官だ。法を守り、直筆してのけた。一方、趙盾もなかなかの人物で、法のために汚名を忍んだ。もし国境を一歩でも出ていたら、汚名を着ずに済んだであろうに・・・」と述べています。

(2)文天祥

宋の文天祥(1236年~1283年)は、「正気(せいき)の歌」の中で、「斉にありては太史が簡、晋にありては董狐の筆」と詠じて賞揚しています。

4.マスコミや政治家への苦言

最近のテレビ・新聞・雑誌などのマスコミは、物事の本質や真実を正しく捉えていない皮相的な報道や不正確な報道、偏向した記事が目に付きます。

また内閣の閣僚や与党政治家の皆さんの責任逃れの言動や、行き当たりばったりの政策や愚策が目に付きます。野党の政治家の皆さんも「党利党略」や「倒閣」の政争に狂奔しているだけで、「国益」や「国民」を第一に考えているようには思えません。



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