中国三大悪女とは?呂后・則天武后・西太后・妲己についてご紹介します!

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西太后

前に「日本三大悪女」の記事を書きましたが、中国にも同じように「中国三大悪女」と呼ばれる女性たちがいます。

中国の場合は候補者が多いようで、一般には呂后・則天武后・西太后・妲己の4人のうちの3人を指すようです。「猛女」「女傑」「毒婦」と言ってもよいかもしれません。なお、これに毛沢東の妻の江青を加えて「中国四大悪女」と呼ぶ向きもあるようです。

今回は呂后・則天武后・西太后・妲己の4人についてご紹介したいと思います。

1.呂后

呂后

「呂后(りょこう)」、正式名「呂雉(りょち)」(B.C.241年~B.C.180年)は、山陽単父(山東省単県)の出身で、前漢の高祖「劉邦(りゅうほう)」(B.C.256年~B.C.195年、在位:B.C.202年~B.C.195年)の皇后で、恵帝の母です。

沛の亭長(宿場の管理と治安維持を任務とする地方役人)であった劉邦に嫁ぎ、彼と苦難をともにし高祖の覇業(前漢王朝の創始)に内助の功がありました。人となりは剛毅で、韓信・彭越・黥布など異姓の諸侯王の誅殺に辣腕を振るいました。

劉邦は帝位に就くと、妾の戚夫人を寵愛し、その子如意を皇太子にしようとしたため、彼女はこれを恨み、高祖が死ぬと戚夫人と如意を虐殺しました。

我が子の恵帝が即位すると、彼女は「太后」となって政権を握りました。恵帝が子供を残さずに死ぬと後宮の女官が生んだ幼い少帝恭を即位させて自らは「摂政」となり、呂氏一族4人を王にし、6人を列侯に封じました。

その後、少帝恭を幽閉して殺害し、別の後宮の女官の子である恒山王義を帝位に就けました(少帝弘)。

紀元前180年、彼女が死ぬと呂氏は乱を企てました(呂氏の乱)が、劉氏一族や高祖の功臣たちによって滅ぼされました。

2.則天武后

則天武后像

「則天武后(そくてんぶこう)」、正式名「武則天(ぶそくてん)」(624年~705年、在位:690年~705年)は、唐の第3代皇帝高宗(628年~683年、在位:649年~683年)の皇后です。

彼女は武氏の出身で、父は山西省の商人で、隋の煬帝と唐の高祖(初代皇帝)に仕え下級役人となりました。彼女は美貌の誉れ高く14歳で第2代皇帝太宗の後宮に入り寵愛を受けましたが、子供は生まれず、まもなく太宗は亡くなったため、先例に従い尼になります。

太宗の子の第3代皇帝高宗は、皇后王氏を差し置いて側室を寵愛したため、皇后はこれを妨害しようとして尼になっていた彼女を還俗させ、後宮に入れます。ただし彼女は、皇太子時代の高宗と密通していたとの噂もありました。

皇后の目論見通り、彼女に寵愛は移りましたが、彼女が子供を生んだため今度は皇后の地位が危うくなりました。その子が病気になった時、皇后が見舞った後に急死したことから、彼女は皇后が殺したと高宗に訴えました。高宗は彼女の言葉を信じ、彼女を皇后にすると言いだしました。最初は身分の低い彼女を皇后にすることに反対する家臣が多かったのですが、結局皇帝の意思が通り、彼女は皇后となったのです。

655年に皇后となりましたが、皇帝が病弱であったため、664年から政治の実権を握り、「垂簾の政(すいれんのまつりごと)」を行いました。「垂簾の政」とは、背後の簾の中から皇后が皇帝を操って行う政治のことです。

彼女は唐王室の李一族など北朝以来の貴族勢力を一掃しました。

高宗の死後、実子の中宗・睿宗を相次いで廃帝として、690年自ら皇帝として即位、聖神皇帝と称して国号を周(武周)と改め、都を洛陽として神都と改称しました。中国史上唯一の女帝です。705年、老齢となったため子の中宗に譲位し、国号も唐に戻しましたが、その年のうちに亡くなりました。

彼女は「科挙」制を強化して門閥によらない人材登用を図りました。その結果、新興地主・商人・文人が官界に大量に進出しました。

なお、彼女は太宗の「貞観の治」と玄宗の「開元の治」に挟まれた時代の女帝です。

3.西太后

西太后盛装

「西太后(せいたいごう)」(1835年~1908年)は、清朝の咸豊帝(1831年~1861年、在位:1850年~1861年)の側妃です。同治帝(1856年~1875年、在位:1861年~1875年)の母で清朝末期に権勢を振るった女性です。

「西太后」(第二夫人)とは、もともと「東太后」(皇后)と対になる名称です。皇帝との間に男子(世継ぎ)を生んだ西太后に対して、東太后は正室でしたが男子を生めませんでした。

しかし儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりで、「東太后は次期皇帝の嫡母となる」と定められていたため、西太后は生涯「皇后」になることは出来ませんでした。

咸豊帝の死後、我が子同治帝と甥の光緒帝の二代にわたって皇太后として政治の実権を握り、「垂簾聴政」を行いました。1861年から亡くなる1908年までの約50年間にわたり清朝末期の宮廷で、紫禁城の主として隠然たる権勢を誇りました。

父は清朝の中堅官僚でしたが、赴任先の安徽省で1851年に起こった「太平天国の乱」に巻き込まれ、1853年心労によって病死しています。

彼女は1852年、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」に合格し、1853年に咸豊帝の後宮に入り、男子(後の同治帝)を生みました。

咸豊帝の死後、5歳の同治帝の後見となった8人の「顧命大臣」と生母である彼女は激しく権力争いをした結果、1861年「辛酉政変」というクーデターを起こし、「顧命大臣」を処刑して権力を掌握しました。

1875年に「親政」を始めたばかりの同治帝が19歳で亡くなると、彼女は4歳の甥の光緒帝(1871年~1908年、在位:1875年~1908年)を立てて再び「垂簾聴政」を行いました。

1884年にはベトナムの宗主権をめぐる「清仏戦争」が起きて敗北しましたが、その事後処理に際し、開戦反対派を失脚させました。また「洋務派」(西洋近代文明の科学技術を導入し、国力増強を目指した一派)も退けました。

1889年、光緒帝の「親政」開始にともない、彼女は離宮の頤和園に引退しました。しかし光緒帝が次第に改革を進めようとして「帝派」を形成すると、「后派」と言われる勢力を率いて皇帝を牽制するようになりました。彼女は、「日清戦争」(1894年に起きた朝鮮半島の支配権をめぐる戦争)の開戦には反対しました。

日清戦争の敗北後、ロシア・フランス・ドイツ・イギリスによる中国分割が進む中で、康有為・梁啓超ら革新派の若手官僚が光緒帝のもとに結集して、1898年に日本の明治維新に倣って近代化を目指す「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」を断行しました。

これに対して同年彼女は、宮中保守派を動員してクーデター「戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)」を起こし光緒帝を幽閉し、革新派を弾圧しました。

1900年に起きた「義和団事件」(反キリスト教・排外主義の民衆蜂起)では、初め排外主義の義和団を支持して諸外国に宣戦布告しましたが、8カ国連合軍に北京を攻撃されると宮廷ごと西安に逃れました。

講和成立後、北京に戻った彼女は一転して西洋文明の導入に努め、立憲制度の導入による清朝の延命を画策しました。

彼女は自らも西洋趣味を楽しみましたが、宮廷の贅沢な生活をよそに清朝は急速に衰退しました。

4.妲己

妲己北斎漫画

「妲己(だっき)」(生没年不詳)は、有蘇氏の出身で、中国最古の王朝である殷(いん)の「紂王(ちゅうおう)」(紀元前11世紀頃に三十数年在位)の「寵妃(ちょうひ)」です。

「史記」によれば、紂王は彼女を寵愛するあまり、彼女の言うことは全て聞き入れ、賦課を重くして圧政を敷き、宮殿内の庭園に野獣を放ち、長夜の宴を催して酒池肉林に耽り、反対者には炮烙の刑などの酷刑を科したそうです。「亡国の悪女」として名高い彼女も淫楽・残忍を極め、王とともに周の武王に殺害されました。

彼女の毒婦ぶりは後世「物語」として発展しますが、その代表が明の「封神演義(ほうしんえんぎ)」です。それによれば、「有蘇氏の娘に乗り移った『九尾狐(きゅうびこ)』が紂人の妃に入れられて寵愛を集め、彼女の言葉によって紂王は炮烙の刑などで善良な多くの臣下を殺した」とされています。



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