細野豪志氏は歴史上の「裏切者」と同様の運命をたどるのか?

フォローする



ユダ最後の晩餐

最近、「元民主党の細野豪志氏が自民党二階派に入る」という報道がありました。確かに民主党政権は、安倍首相の言葉の通り「悪夢」でした。しかしあれほど自民党を厳しく批判していた細野氏が自民党入りする「正当な理由」がどこにあるのか私にはさっぱりわかりません。

今の野党では「二大政党制」など実現不可能なので、「野党に見切りをつけた」ということかも知れません。しかし細野氏を今まで支持して来た人を裏切ることになるのはもちろん、自民党支持者も「裏切者」の細野氏を支持しないのではないかと私は思います。

「何とか政権政党に入って自分の活躍の場を作りたい」という気持ちかも知れませんが、それは手前勝手で虫が良すぎるのではないでしょうか?

主君を裏切って褒美を目当てに織田信長の元へやって来た武士を、信長は「一度裏切った者は、また裏切る」と言って、その場で成敗したという話を聞いたことがあります。

1.ユダ

イエスを裏切ったユダは、「十二使徒」の一人でイエスと使徒一行の会計係を務めていました。しかしイエスを殺そうとしていたユダヤ教の祭司長らに、銀貨30枚でイエスを裏切って引き渡しました。後に自殺しています。ユダの名前は「背教者」「裏切者」の代名詞となっています。

なぜ、ユダがイエスを裏切ったのか、詳しいことは分かりませんが、私の独断による勝手な想像は次の通りです。

もともと、ユダは「現実主義者」でイエスを「神から遣わされた者」と信じたり、「信仰上の師」として崇めてはいなかったのだと思います。

「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言われた(洗脳された)大勢の金持ちの信者から寄進のお金を集めることが出来る「単なる宗教の教祖」と考えていたのでしょう。しかし、イエスに対するユダヤ教の祭司長からの迫害が激しくなるに及んで、「敗軍の将」となるイエスに見切りを付けたのではないでしょうか?

2.ブルータス

共和政ローマ末期の政治家・軍人のマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)は、民衆派の独裁官であったガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)の暗殺に関わった人物の一人ですが、今ではその主要人物のように思われています。

紀元前49年のローマ内戦後、独裁色を強めて行くシーザーに、元老院は共和政の終焉を危惧し、シーザー暗殺の謀議をめぐらします。最初、ブルータスはこの謀議に加わっていませんでしたが、勧められて暗殺に加わり、最初の一撃を加えました。その結果、シーザーの「ブルータス、お前もか」という言葉と共に、シーザー暗殺の象徴的存在となったのです。

暗殺後、元老院はシーザー暗殺を賞賛して、ブルータスらの罪を許す恩赦を決議しますが、彼は騒乱になることを予感してローマから逃れます。

ローマでは、アントニウス、レピドゥス、およびオクタウィアヌス(シーザーの大甥)による第二回三頭政治が始まります。

そして、ブルータスは抵抗を続けますが、最後には、執政官となったオクタウィアヌスによる追討軍によって包囲され、自害しました。

3.梶原景時

梶原景時は、もともと源氏の家人でしたが、平治の乱で源義朝が敗死した後、平家に従っていました。

1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、大庭景親と共に、頼朝討伐に向かい、「石橋山の戦い」で、頼朝軍を打ち破ります。頼朝は山中に逃げ込みました。

大庭景親は山中をくまなく捜し続けましたが、梶原景時は頼朝が洞窟に潜んでいることを知りながら、今後の論功行賞というか「見返り」を期待して見逃し、頼朝を助けます。頼朝は九死に一生を得た訳です。

やがて、梶原景時は頼朝の側近・参謀となり、謀反の疑いのあった上総広常を誅殺するなどして頼朝の信頼をさらに勝ち取り、勢力を振るうようになります。そして、さらに義経についても、頼朝への讒言を行い、兄弟の不仲を助長します。

頼朝の死後、梶原景時への不満が高まり、彼から讒言を受けた結城朝光が和田義盛らと協議して、梶原景時を鎌倉から追放し、駿河の国で討ち取りました。

4.小早川秀秋

関ケ原の合戦において、小早川秀秋は、19歳で西軍として参加しましたが、東軍の徳川家康からも圧力を受けており、優柔不断な彼はとても苦しんだようです。結局、東軍に寝返り、それによって、西軍の敗北が決定的になりました。

彼は、豊臣秀吉の義理の甥(秀吉の正室ねねの甥)です。子供が無かった豊臣秀吉の養子となりますが、その後、秀吉に実子の秀頼が生まれたことにより、邪魔者扱いされ、小早川家に養子に出されます。

朝鮮出兵での働きが悪かったとして、石田三成によって30万石から13万石に減封されます。その結果、豊臣秀吉と石田三成に恨みを抱くことになるのですが、その時領地回復の口利きをしてくれたのが徳川家康だったのです。

双方の板挟みになって苦しんだ小早川秀秋は、関ケ原の合戦の後、30万石から51万石に加増されましたが、精神に異常を来たし、2年後に21歳で病没しています。

ここまで歴史上の「裏切者」をご紹介して来ましたが、最後に私が父から戦争中の話として聞いた「味方兵士の裏切り」の話をご紹介します。

太平洋戦争当時の日本の軍隊では、学校でのいじめや会社でのパワハラと同じよに、上官や古参兵による「初年兵いじめ」が行われていたそうです。今で言えば明らかな「パワーハラスメント」と言えるかもしれません。

あまりにもひどい「初年兵いじめ」をしていた上官や古参兵は、自分でも内心びくびくしていたのではないでしょうか?初年兵も当然のことながら銃を持っていますので、忠臣蔵の「松の廊下」ではありませんが、戦場において、どさくさにまぎれて「この間の遺恨、覚えたか!」とばかり「後ろから味方に銃で撃たれる」ということもあったようです。

戦場では、兵隊たちは、「いつ砲弾に当たって死ぬかもしれない・生きるか死ぬか」という「精神的な極限状態」に追い込まれている訳ですから、「単なる味方による誤射・誤爆」ばかりでなく、「意図的な誤射」もあったということでしょう。

度を越した「指導」はパワハラになりますし、告発されることもありますので、くれぐれも上司の皆さんは、行き過ぎないように十分気を付けていただきたいと思います。