伊能忠敬が55歳の老齢で日本地図を作ろうとしたのはなぜか?

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伊能忠敬

現代は「人生100年時代」と言われているように、55歳は働き盛りでまだまだ元気な年齢ですが、江戸時代は「楽隠居」をする年齢だったと思います。

しかし、その年齢から徒歩で日本各地を歩いて測量し、初めて精密な日本地図を完成させた伊能忠敬とは一体どのような人物だったのでしょうか?

私は70歳を過ぎた今、改めて伊能忠敬に興味が湧いてきました。

1.伊能忠敬とは

伊能忠敬(1745年~1818年)は江戸時代の測量家・天文学者です。彼は上総国(現在の千葉県)の名主小関五郎左衛門の家に生まれました。父親の神保貞恒は酒造家の次男で小関家に婿入りしていました。

1762年に下総国(現在の茨城県)の酒造家伊能三郎右衛門家の婿養子となります。伊能家は、酒造り、米、薪、燃料などの取引を行っていましたが、その商売はうまく行っておらず、彼の才覚で盛り返したと言われています。

彼は飢饉の時には、困難に直面した人々に手を差し伸べるなど、この地域では有名な名主として知られていました。

45歳ごろから、彼は「隠居して新たな人生を歩みたい」と思うようになりますが、彼の名主や商人としての力が必要なためなかなか「隠居」の許しが下りません。そのころ彼が興味を持っていたのが「暦学」で、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、商売は実質的に長男に任せていました。現代風に言えば「アマチュアの天文マニア」だったのですね。

48歳の時、久保木清淵らとともに、3カ月にわたって関西方面へ旅行しています。その時の旅行記には、各地で測った方位角や天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心を窺わせます。

彼は49歳で家督を長男に譲って「隠居」となり、50歳の時、単身江戸へ出て天文・暦学の勉強を始めます。この時、彼が弟子入りした師匠は、19歳も年下の高橋至時(よしとき)(1764年~1804年)でした。

ところで彼が隠居後に「測量による日本地図作成」のような難事業に挑む決心をさせるのに影響を与えた人物が二人います。

一人は祖先の伊能景利で、隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組んでいます。もう一人は彼の近所に住んでいた揖取魚彦で、隠居後に江戸へ出て国学者・歌人として活動しています。

「定年後には自分の好きなことをして暮らしたい」というのは、私も含めて現代の中高年も同じだと思いますが、そのスケールが大きく学術的価値が桁外れに高いのは雲泥の差です。

2.日本地図作成事業

彼は1800年から1816年まで、17年間をかけて日本全国を徒歩で測量して回り、「大日本沿海輿地全図」を完成させ、日本の国土の正確な姿を明らかにしました。

彼は「地球の大きさを求める」プロセスの中で、「日本の正確な地図を作ることが必要」という結論にたどり着いたのです。

1800年に幕府は彼に対して「蝦夷測量」の許可を出しますが、「正式の測量」命令ではなく、「測量試み」としてでした。つまり幕府は彼をあまり信用しておらず、結果もさほど期待していなかったようです。彼は「元百姓・浪人」という身分で、一日当たり銀7匁5分が手当として出されました。

「第一次測量(1800年)」は「蝦夷地」で滞在117日間に及びました。この時同行したのは、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭でした。

この時の測量は、一定の歩幅(70㎝)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。そうやって毎日40㎞を移動したそうです。

彼は幕府の許可を得て「第一次測量」の蝦夷地に出発する直前に、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に宛てて次のような申請書を出しています。

(前略)私は若い時から数術が好きで、自然と暦算をも心掛け、ついには天文も心掛けるようになりましたが、自分の村に居たのでは研究も思うようには進まないので、高橋作佐衛門様の御門弟になって六年間昼夜精を出して勉めたおかげで、現在は観測などもまちがいないようになりました。この観測についてはいろいろな道具をも取りそろえ、身分不相応の金もつかいました。隠居のなぐさみとはいいながら、私のようなものがこんな勝手なことをするのはまことに相済まないことでございます。したがって、せめては将来の御参考になるような地図でも作りたいと思いましたが、御大名様や御旗本様方の御領内や御知行所などの土地に間棹や間縄を入れて距離を測りましたり、大道具を持ち運ぶなどいたしますとき、必ず御役人衆の御咎にもあうことでありましょうし、とても私どもの身分ではできないことでございます。(中略)ありがたいことにこのたび公儀の御声掛りで蝦夷地に出発できるようになりました。ついては、蝦夷地の図と奥州から江戸までの海岸沿いの諸国の地図を作って差し上げたいと存じますので、この地図が万一にも公儀の御参考になればかさねがさねありがたいことでございます。(中略)地図はとても今年中に完成できるわけではなくおよそ三年ほど手間取ることでございましょう。(後略)

以後「第二次測量(1801年)」(230日間、伊豆・東日本東海岸)、「第三次測量(1802年)」(132日間、東北日本海沿岸)、「第四次測量(1803年)」(219日間、東海・北陸)、「第五次測量(1805年)」(1年9カ月間、近畿・中国)、「第六次測量(1808年)」(約1年間、四国)、「第七次測量(1809年)」(1年9カ月間、九州第一次)、「第八次測量(1811年)」(913日間、九州第二次)、「第九次測量(1815年)」(約1年間、伊豆諸島)、「第十次測量(1815年)」(約半月間、江戸)と続きます。

第二次測量までの実績が認められて、第三次測量からは手当も大幅に増え、ようやく費用の収支が合うようになったそうです。つまり、それまでは彼の「自腹」の部分が多かったということです。

1803年の「第四次測量」までの結果で、地球の大きさは約4万㎞という結論に達しました。師匠の高橋至時が持っているオランダの天文学書の数値と照合し、一致することを確認して師弟は大喜びしたそうです。しかし、師匠の高橋至時は翌年40歳で亡くなっています。

彼が測量で歩いた距離は約4万㎞で、地球一周分を歩いた計算になります。

彼がこれほど苦労して作った日本地図ですが、実際に広く活用されたかというとそうではありませんでした。理由は、幕府がこの地図の正本を秘蔵して誰にも見せなかったからです。

ただ、この「正本」を元にして、何部かの「複製」が内密に作られました。しかしそれも、ごくわずかの大名などが秘蔵していたようです。

彼の地図が世の中の人々に知れ渡るようになったのは、幕府天文方・書物奉行の高橋景保がこの地図をシーボルトに密かに渡し、シーボルトが「この日本地図を国外に持ち出すこと(国禁)」を計画した「シーボルト事件」(1828年)からです。

1855年に設けられた「長崎海軍伝習所」では、彼の地図が、「航海上、唯一の灯明台」として使用され、大いに役立ったとのことです。

1861年にイギリスが日本の海岸線を測量させるように要求した時、幕府は拒否できず役人を立ち会わせることにしましたが、幕府の役人が持っていた伊能忠敬の実測図を見て、それまでの実測結果と照合して極めて正確であることを知り、測量を中止したという話もあります。

3.伊能忠敬の名言

①人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない

②歩け、歩け。続ける事の大切さ

③後世の役に立つようしっかりした仕事がしたい

④天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ない。いずれも自然天命である

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