「アッツ島の戦い」とは?「アッツ島玉砕」と奇跡の「キスカ島撤退作戦」も紹介

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アッツ島

皆さんは「アッツ島の戦い」をご存知でしょうか?

「アッツ島玉砕」を、「ミッドウェー海戦」や「ガダルカナル島の戦い」と同じように南方戦線の戦いと勘違いしている方もおられるのではないでしょうか?

そこで今回は、「アッツ島の戦い」と「アッツ島玉砕」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.アッツ島の戦いとは

アッツ島の戦い

「アッツ島の戦い」とは、「第二次世界大戦中の1943年5月12日にアメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島で、米軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍と米軍との戦闘」です。

1942年6月、「ミッドウェー作戦」の陽動作戦として敵の目をアリューシャン列島に向けさせるとともに、哨戒線の前進、米ソの連絡遮断、敵の航空基地の利用阻止などを目的として、陸軍北海支隊と海軍北方部隊との協同による「アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の占領」が敢行されました。

しかし、「ミッドウェー作戦」は正規空母4隻を失う惨敗となったため、アリューシャン列島の戦略的価値は無くなり、しかも米軍が反攻の兆しを見せ始めたにもかかわらず大本営は何ら対策を講じようとはしませんでした

1943年5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡洋艦3、軽巡洋艦3、駆逐艦19という艦隊支援のもとに、第7師団1万1千人がアッツ島に上陸を開始しました。

孤立した離島で敵の大軍を迎え撃つ日本軍は、山崎保代陸軍大佐以下約2,660名全員が決死の覚悟で凄まじい戦闘を繰り広げました。

激闘は2週間余り続きましたが、大本営は悪化する南方戦線の戦局打開を優先すべくアッツ島を見捨てました

2.アッツ島玉砕とは

藤田嗣治のアッツ島玉砕

上の絵は、戦後フランスに帰化した画家の藤田嗣治が描いた「アッツ島玉砕」(1943年制作)です。

(1)山崎保代陸軍大佐の最後の電文

アッツ島守備隊の指揮官である山崎保代陸軍大佐(1891年~1943年)(下の写真)の壮絶な「最後の電文」は次の通りです。

山崎保代陸軍大佐

(5月29日 14:35)

敵陸海空の猛攻を受け、第一線両大隊は殆ど壊滅。辛うじて本一日を支ふるに至れり。野戦病院に収容中の傷病者はその場に於て、軽傷者は自ら処理せしめ、重傷者は軍医をして処理せしむ。

非戦闘員たる軍属は各自兵器をとり、陸海軍とともに一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。ともに生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり。

他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを恐る。英魂とともに突撃せん。

(5月29日 19:35)

機密書類全部焼却。これにて無線機破壊処分す。

(2)アッツ島玉砕

1943年5月30日、大本営は「アリューシャン列島アッツ島守備隊の全滅」を発表しました。

アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。

我が守備部隊は二千数百名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特殊優秀装備の約二万にして、5月28日まで与えたる損害六千をくだらず。

実際は、日本軍の戦死者2,638名捕虜になって生還した人29名でした。

一方の米軍は上陸約11,000名のうち、戦死者は約600名、戦傷者は約1,200名でした。

アメリカの戦史は、「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、「バンザイ・アタック」と呼んでいます。

【アッツ島の戦い】映像と解説 / アリューシャン列島をめぐる攻防 – 太平洋戦争 – 第二次世界大戦

3.「アッツ島玉砕」は本当に必要だったのか?

「歴史にIFはない」ので、今更「大本営がもっと早く撤退命令を出しておけば、2,638名の『玉砕』という犬死にが防げた」と言っても始まりません。

しかし、「アッツ島玉砕」を検証することは、今の政府(内閣)の「コロナ対策」などの政策判断が妥当かどうかや、民間企業の社長の経営判断の妥当性を見極める上では参考になると思います。

私は今の政府のコロナ対策は、政府分科会の「専門家」と称される人々や、日本医師会・東京都医師会などの対策(人流抑制、時短営業、酒類提供禁止、観客制限など)に振り回されて、「大局を見失っている」と思います。「コロナに異常に偏った動き」で、飲食業・観光業・旅行業を含む日本の全産業に重大な悪影響を及ぼしており、非正規雇用などの労働者を含む国民全体に経済的ダメージや閉塞感を与えています。「PCR検査陽性者数」を「感染者数」として過度に不安を煽るこのような「愚策」を漫然と続けるのは、日本経済や日本国民をあたら「玉砕」に追いやるようなものです。

閑話休題、そろそろ本論に戻りましょう。アッツ島は陰鬱な気候で、夏は雨、冬は雪が多く、作物などが育たない痩せた不毛の土地です。

1943年に入ると、米軍の反攻が激化し、アダック島に建設された飛行場からのアッツ島とキスカ島への空襲も頻繁になりました。

さらに潜水艦や輸送船による補給も滞りがちとなり、アッツ島の2600余名の将兵は孤立感を深めます。アッツ島守備隊は北方軍の麾下にあり、その司令官は樋口季一郎(1888年~1970年)中将(下の写真)でした。

樋口季一郎中将

樋口中将は、満州で立ち往生したユダヤ人難民を独断で救った「オトポール事件」(*)で知られる人道を重んじる軍人です。

(*)「オトポール事件」とは、次のような出来事です。

1938年3月8日、満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールに、ドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せました。ソ連はユダヤ難民の受け入れを拒否していましたので、難民は満州国への入国を希望します。

しかし、満州国は日本とドイツとの関係を忖度して入国ビザの発給を拒否します。この時のハルビン特務機関長が樋口季一郎少将でした。

樋口はユダヤ協会と交流があり、極東ユダヤ人協会会長のアブラハム・カウフマンと親交がありました。カウフマンは樋口に難民の救済を訴えました。樋口は「人道上の問題」としてユダヤ難民受け入れを独断で決め、満州鉄道総裁の松岡洋右(後の外相)に特別列車を要請しました。

3月12日、ハルビン駅に約5千人のユダヤ難民が到着し、地元の商工クラブや学校に収容されて、炊き出しを受けました。カウフマンの息子はこの光景を現場で見て、著書で「樋口は世界で最も公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考える」と書いています。

なお、約6千人のユダヤ人を救い「東洋のシンドラー」として有名な杉原千畝の「命のビザ」の話(1940年7月~8月)は、このオトポール事件の2年以上後のことです。

樋口中将大本営にアッツ・キスカ両島の守備隊を撤退させることを進言しますが、大本営耳を貸さず、両島の保持増強を命じました

そして4月18日には、アッツ島の新たな守備隊長として山崎保代大佐が赴任しました。樋口は山崎がアッツへ赴く前に会い、「万一敵が上陸戦を挑んでくるようであれば、万策を尽くして兵員兵備の増強を行うので、自分を信じて戦ってほしい」と激励しています。

樋口の言葉に偽りはなく、北千島には増援部隊を用意していました。

山崎が赴任してから約1ヵ月後の5月12日、ブラウン陸軍少将が指揮する米第7師団1万1千人が、米海軍第51任務部隊(戦艦3、空母1、重巡洋艦3、軽巡洋艦3、駆逐艦19)の支援を受けて上陸戦を開始しました。

これに対して、山崎指揮する守備隊は敵の4分の1以下の兵力ながら、高地に築いた陣地に拠って果敢に敵を迎撃し、一時は米軍を海岸にまで後退させる打撃を与えました。

しかし数と火力で圧倒する敵に、次第に戦線を縮小していかざるを得なくなりました。

こうした状況下で16日、樋口は山崎に「必ず増援するので、東浦要地は確保しておけ」と緊急電を送り、すぐさま増援部隊を向かわせる準備を整えました

ところが大本営からの命令は、「アッツ島への増援計画は、都合により放棄す。その他の作戦準備は全て中止せよ」という信じがたいものでした。

大本営からの命令は「アッツ島を見捨てろ」というもので、樋口は激怒し、奮戦している山崎ら将兵との約束を守れないことに男泣きしたそうです。

5月21日、樋口は断腸の思いで電報を打ちました。「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力の及ばざること、誠に遺憾に堪えず、深く陳謝す」

翌日、山崎から返信が届きました。「戦する身、生死はもとより問題にあらず。守地よりの撤退、将兵の望むところにあらず。戦局全般のため、重要拠点たるこの島を力及ばずして敵手に委ねるに至るとすれば、罪は万死に値すべし。(中略)将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」

1941年1月に陸軍大臣東條英機が示達した訓令「戦陣訓」に、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という有名な一節があります。

この考え方は、日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が、清国軍の捕虜の扱いの残忍さを問題にし、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令を出したことに遡ります

さらに、日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を簡単に話したため、これが問題となって以降、「捕虜になっても、敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底されたそうです。

「ノモンハン事件」の悲劇は、戦いに敗れただけでなく、「捕虜になるな」という太平洋戦争中の日本軍の対応を先取りしていたことです。

「アッツ島玉砕」がその代表的な例です。

ほかにも「総員壮烈なる戦死」と発表された次のような戦いがありますが、実質的には「玉砕」と同じ意味です。

・サイパン島守備隊総員壮烈なる戦死

・テニアン島守備隊総員壮烈なる戦死

・グアム島守備隊総員壮烈なる戦死

・アンガウル島守備隊総員壮烈なる戦死

・ペリリュー島守備隊総員壮烈なる戦死

・ニューブリテン島バイエン守備隊総員壮烈なる戦死

・硫黄島守備隊総員壮烈なる戦死

・牡丹江守備隊総員壮烈なる戦死

・占守島守備隊総員壮烈なる戦死

4.奇跡の「キスカ島撤退作戦」とは?

キスカ島

アッツ島守備隊は上記のように「玉砕」という悲劇的な結末を迎えましたが、同時期に日本軍が占領したもう一つの島「キスカ島」の守備隊約5,600名は、連合軍に包囲される中、1943年5月27日から7月29日にかけて「キスカ島撤退作戦」を行い、全員無傷で撤退を完了しました。

キスカ島守備隊に属したか、アッツ島守備隊に属したかで、兵士たちの運命はまさに天国と地獄に分かれました。

キスカ島撤退作戦」は、北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮を執りました。5月下旬から実施された潜水艦による第一期撤収作戦成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬に打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられました。

第一水雷戦隊司令官木村昌福(1891年~1960年)少将(下の写真)が収容部隊を指揮した第二期撤収作戦において、同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気付かれずに、濃霧の中を日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」「キスカの奇跡」と呼ばれています。

木村昌福

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