「愛」という兜の前立てで有名な直江兼続とはどのような人物だったのか?

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直江兼続愛の兜

直江兼続と言えば、妻夫木聡が主演した2009年のNHKの大河ドラマ「天地人」で有名になった武将で、兜の前立ての「愛」が話題になりましたが、実際はどのような人物だったのでしょうか?

そこで今回は、直江兼続についてもう少し詳しくわかりやすくご紹介したいと思います。

1.直江兼続が理不尽な訴えを果断に裁いたエピソード

直江兼続は、主君の上杉景勝や豊臣秀吉に信頼された忠義に篤い武将と言われ、当時の書物では「背が高く、容姿は美しく、言葉は明朗」「学問詩歌に優れ、才知武勇を兼ね備えた武将」「利を捨てて義を取った人物」などと評価されています。

しかし彼は、食うか食われるかの戦国時代を生き抜いた武将ですから、怒らせると怖い一面を見せることもありました。

ある時、上杉の某家臣が部下を「無礼討ち」にする事件が発生しました。殺された者の親族が「ひどすぎる」と兼続に直訴しました。

調べてみると、確かに親族側の言い分にも一理あることがわかりました。そこで兼続は「気持ちはわかるが、死者はもう戻らぬ。これで勘弁して供養せよ」とカネを渡そうとしましたが、親族は納得せず、どう説得しても「死者を返せ」の一点張りでした。

そこで兼続は、「ではお前たちが冥土に行き、死者を受け取って来い」と遺族の首を刎(は)ねました。堪忍袋の緒が切れて、馬鹿に付ける薬はないとばかりに引導を渡したのでしょう。

2.直江兼続の兜の前立ての「愛」の意味

直江兼続龍の前立て百足の前立てムカデの前立て蜻蛉の前立て

兜の前立てには、勇ましい「龍」「百足」や前にしか進まない「勝ち虫」と呼ばれる「蜻蛉」などがありますが、「愛の一字」というのは珍しく、「愛の武将」と言われていることから、「愛民」や「仁愛」のイメージが強くあります。

しかし、戦国時代における「愛」の意味は、現代の恋愛や人類愛、慈愛のような「愛」の意味ではなく、「愛欲」「愛撫」「愛着」のような人間の欲情を意味する言葉でした。本能的な欲望で、貪り執着する根本的な煩悩です。

愛染明王愛宕権現

兼続が「愛」の文字に込めた思いの由来は、彼が信仰していた「愛染明王(あいぜんみょうおう)」か、あるいは「愛宕権現(あたごごんげん)」と言われています。

「愛染明王」とは「人間の愛欲をそのままに悟りに導く、一面三目六臂の赤色忿怒の像で表される密教の明王」です。

「愛宕権現」とは「愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号」です。愛宕山白雲寺が勝軍地蔵(将軍地蔵)を本尊としたため、戦国時代にかけて愛宕権現は勝軍地蔵が垂迹した「軍神」として武士から信仰を集めました。明智光秀も「本能寺の変」を起こす直前に京の愛宕山に参詣しています。

ちなみに、兼続が若い頃に仕えた上杉家当主の上杉謙信は、「毘沙門天」を信仰していました。そのため謙信は、「毘」の一字を染め抜いた旗印を用いていました。

「毘沙門天」とは「仏教の守護神の四天王の一神で、北方の世界を守護。一般に右手に宝棒、左手に宝塔を持つ姿で表され、七福神の一つ」です。

上杉謙信の旗印毘沙門天

3.直江兼続とは

直江兼続

直江兼続(1560年~1619年)とは、安土桃山時代の武将で、父は越後与板の城主樋口兼豊です。

上杉謙信に美貌と才気をもって寵愛されました。謙信の死後は上杉景勝に仕え、その家老として辣腕を振るいました。

1582年に直江実綱の家を継ぎ、1588年には山城守に任じられました。徳川家康による「景勝討伐」に際しては徳川家康・伊達政宗と戦いました。

「関ヶ原の戦い」のきっかけになったとされる家康弾劾の兼続の手紙は「直江状」として有名です。これは、上杉家への上洛勧告に対する返書で、家康が上杉家謀反の疑いを持っていることを一蹴する挑発的な内容であったことから家康の怒りを買い、上杉の領地である会津征伐につながったとされています。

「関ヶ原の戦い」の後、会津120万石から出羽米沢30万石に大減封されましたが、主家の立て直しに尽力しました。

なお兼続の死後、兼続の息子の早世や本多正重(後の加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶しました。

これについては、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説もあります。



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