最澄(伝教大師)は仏教界から嫌われて夢を果たせなかったというのは本当か?

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最澄

最澄と言えば「天台宗の開祖」で「真言宗の開祖」空海と並び称される仏教界の巨人ですが、当時の仏教界では必ずしも好意的に迎えられなかったようです。

今回は最澄についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1、最澄(伝教大師)とは

最澄(767年~822年)は近江国の豪族三津首百枝(みつのおびとももえ)の子で、幼名は広野です。日本天台宗の開祖です。

12歳で近江国分寺に入り、国師の行表(ぎょうひょう)の弟子となり、14歳で国分寺僧の補欠として得度し、名を最澄と改めています。

この時代、寺社は農民に開墾させた土地を「荘園」として所有し、有力な貴族と組んで権力と財産を拡大させていました。

最澄はそんな世俗利益にまみれた仏教界を嫌い、理想の仏教を求めて比叡山での厳しい修行生活に入る決意をします。

19歳の時、比叡山に登り、後に延暦寺根本中堂となる草庵「一乗止観院」を構えて思索の生活に入り、そこで自省の書である「願文(がんもん)」を著します。そこには、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」に至らなければ山を下りないという決意が書かれていました。

比叡山での修行は12年も続きました。

2.遣唐使に選ばれる

797年に桓武天皇の「内供奉(ないぐぶ)」に選ばれ、法華経の講義も行うなどエリート僧として華々しい活躍を始めます。

802年に桓武天皇より「入唐求法(にっとうぐほう)」の「還学生(げんがくしょう)」(短期留学生)に選ばれ、804年に入唐しています。

そこで天台の教義とともに、禅や密教の教えを受けています。1年間の短期留学でしたが、帰国後の806年に桓武天皇より天台宗が公認され、彼は日本の天台宗の開祖となります。

3.既成仏教や当時の仏教界との対立

彼は天台宗の教えを広めようとしましたが、問題が発生します。正式な僧侶となるための儀式を行う「戒壇」が比叡山にはありませんでした。

真面目過ぎる最澄が既得権を持つ既成仏教や当時の仏教界から嫌われたのは当然と言えば当然です。応援者の桓武天皇が亡くなった後はさまざまな圧力を受け、教団経営は困難を極めました。

戒壇設立を天皇に求めても、最澄を嫌う奈良の大寺院の僧侶による激しい反対にあい、彼の生前、比叡山に戒壇設立の許可は下りませんでした。

4.最澄の思想

彼の思想は、「円・戒・禅・密」を総合することでした。「円」とは円満な教えのことで、中国を発祥とする本来の天台の教理です。「戒」は戒律のことで最澄独自の思想です。「禅」は禅の行法で、「密」は密教の教えです。

5.最澄と空海

空海(774年~835年)も船は違いますが最澄と同様、遣唐使(留学生)として唐に渡っています。

最澄は「エリート僧」でしたが、空海は「無名の僧」でした。しかし、空海は2年という短期間に密教を完璧にマスターして帰国します。一方最澄は天台の教えを中心に学んだため、密教は十分に学べませんでした。

最澄が帰国後、新しい仏教として注目されたのは呪術的要素のある「密教」でした。最澄は年下のライバルであった空海に辞を低くして教えを乞うことになりました。

しかし、最澄が派遣した弟子が空海の弟子になってしまったり、経典の貸し借りに関する意見の相違などによって二人の関係は途切れてしまいます。

二人の関係が切れてから、最澄は晩年まで論争に明け暮れることとなり、論争の決着がつかないまま、満身創痍の状態で生涯を閉じました。

一方空海は、高野山や東大寺に道場を開き、東寺も与えられるなど精力的に真言密教の「真言宗」を広めていきました。



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