なぜ背広の時はネクタイを締めるのか?元々は「生きて帰るためのもの」!?

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並べられたネクタイ

私が現役サラリーマンの頃は、「背広(スーツ)にネクタイ」が当然でした。その後、当時の環境大臣だった小池百合子さん主導で「クール・ビズ」(*)の機運が高まり、7~8月の夏場は「背広もネクタイも不要」になり、その期間も5月中旬~10月中旬にまで広げる企業も出てきました。

(*)第一次小泉内閣で環境大臣に就任した小池百合子さんが、2005年に小泉首相から「夏場の軽装による冷房節約」をキャッチフレーズにしてはどうかとアドバイスされ、環境省主導でネクタイや上着を着用せず(いわゆる「ノーネクタイ・ノージャケット」キャンペーン)、夏季に28度以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するよう呼びかけたものです。

「クール・ビズ」(COOL BIZ)という表現は、2005年に環境省の一般公募で選ばれました。「涼しい」や「格好いい」という意味の「クール」と「仕事」や「職業」を意味する「ビジネス」の短縮形である「ビズ」を組み合わせた造語です。

この「クール・ビズ」は、年々夏の暑さが酷くなる日本においては、極めて合理的な対処法だと思います。

ただ、私には「何となくだらしない感じ」が否めません。また「ネクタイ屋さん」は、夏場は「青息吐息(あおいきといき)」ではないかと、他人事ながら心配です。

ネクタイはシルクが基本ですが、私の父はニットタイ(編み地素材のネクタイ)をしたり、夏場はコットン素材のネクタイや涼しげな柄のネクタイを締めていたのが印象に残っています。

ところで、背広を着る時はなぜネクタイを締めるのでしょうか?

今回はネクタイの歴史を遡ってその起源を考えてみたいと思います。

1.ネクタイの歴史ー前史

「ネクタイの起源」については諸説ありますが、「現在のネクタイの原型」ができたのは17世紀頃とされています。

しかし、「ネックウェア」の歴史は古く、着用例としては秦の始皇帝陵の兵士(「兵馬俑(へいばよう)」(下の画像)にはスカーフ状の布を首に付けているものがあります。

これは、その兵士がある軍の指揮下にある者の証であったと考えられます。

秦の兵馬俑兵馬俑

また、古代ローマでは、兵士が「ファカール」という細い布を首に結んでいました。ローマ帝国のトラヤヌス帝の時代にネクタイの起源と思われるものがあります。

兵士たちが故郷を遠く離れて北方国境守備に派遣される際に、妻や恋人たちが布を織り、それを首に巻いたとされています。つまり「生きて帰るためのもの」だったのです。

太平洋戦争当時の「大本営」による作戦ミスの「ミッドウェー海戦」、無謀な作戦だった「インパール作戦」「神風特攻隊」、「ガダルカナル島の戦い」や「アッツ島の戦い」などにおける「玉砕」という美名の犬死の悲劇を、兵士やその家族は誰も望んでいません。

なお、「ファカール」は喉(のど)を保護するためでもあったようです。

現代でも、男性へのプレゼントにネクタイを選ぶ女性が多くいます。それはつまり、「貴女に首ったけ」という意味です。そして、男性は女性に対しての忠節を一枚の布によって表現するわけです。

兵士たちが布を首に巻いていた様子は、トラヤヌス記念柱(下の画像)に見ることができます。

古代ローマ兵士のファカール

しかし、古代のものと現代のものには大きな隔たりがあり、古代末期になるとこれらはあまり見られなくなり、16世紀初めまで男性は首回りを見せる服装が主流だったと言われています。

2.ネクタイの歴史

(1)16世紀~17世紀まで

現代のネクタイの先駆け・原型は、16世紀後半のイングランドやフランスに「ラフ」(下の画像)という「巨大なレースのひだ襟」で登場しました。「ラフ」はあくまでも襟であり、ネクタイとは異なりますが、首元の装飾という意味で重要なアイテムでした。

巨大なひだ襟・ラフ

17世紀にネクタイ史における重要な転換点が訪れました。「ローマ・カトリック勢力」の国々と「新教徒勢力」の国々とがヨーロッパで激突した「三十年戦争」(1618年~1648年)の際に、「ローマ・カトリック勢力」のクロアチアの兵士たちもこの戦争に巻き込まれました。

クロアチアの軍装は、美しいスカーフを首に巻く伝統的なスタイル(下の画像)でした。

クロアチア人のネクタイ現代のクロアチア兵

このクロアチア・スタイルが、後に「新教徒勢力」であるフランス国民を虜にすることになります。

「三十年戦争」の最中の1635年、クロアチアの兵士が傭兵としてフランスを訪れました。そしてファッションに敏感なルイ14世(1638年~1715年)(下の画像)の目に留まりました。

蝶ネクタイ姿のルイ14世

ルイ14世が、クロアチアの兵士が首に色鮮やかな布を巻いているのに気付き、側近に(スカーフを見ながら)「あれは何だ?」と尋ねました。

すると側近はクロアチアの兵士のことを尋ねられたと勘違いして「クロアチア人(croate)です」と答えようとして、誤って「クロアチア兵(cravatです」と答えました。

ルイ14世は側近の二重の間違いに気付かず、「ああそうか。あの布はクラバットというのか」と納得してしまったのです。そして「クラバット」はフランスで新しいファッションとなりました。これがフランス語の「Cravate(ネクタイ)」の語源です。

クロアチアの兵士は、、古代ローマの兵士の「ファカール」と同じように、無事な帰還を祈って妻や恋人から贈られたスカーフを首にまいていたのです。つまり「生きて帰るためのもの」だったのです。

クラバットは、洗練・優美を表すものとして徐々に市民ファッションに採り入れられ、やがてヨーロッパ全域に伝わっていきました。

激動の時代に生まれたイングランド国王のチャールズ2世(1630年~1685年)(下の画像)は、亡命を余儀なくされ、ヨーロッパを転々としました。当時すでにクラバットが流行していたフランスで9年間過ごした後、「王政復古」を実現するため1660年にロンドンに戻りました。

クラバットを付けたチャールズ2世

そしてこのチャールズ2世が1666年に行った「衣服改革宣言」(当時、派手さを極めていた衣服を改める宣言)をきっかけにして、17世紀から18世紀にヨーロッパ中でクラバットという装飾品がさらに広まることになりました。

この「衣服改革宣言」は、「シンプリシティこそが洗練さを生む」という宣言であり、チャールズ2世は衣服を簡潔にすることを推奨しました。

「衣服改革宣言」の後、男性は上着とウエストコート、フリルの付いた白シャツ、ブリーチーズ、そして首の回りにはスカーフのようなネッククロス、もしくはクラバットを巻くというスタイルが定着しました。

(2)18世紀~ヴィクトリア朝(時代)まで

さらに18世紀は男性服の歴史の集大成と言える時代とされていますが、ネクタイは現代に比べると色も形も結び方もほぼ変化がなく、個性的なものは見られませんでした。

若き日の「音楽の父」ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685年~1750年)(下の画像)もクラバットを巻いています。

ヨハン・セバスティアン・バッハ

画家のジャック・ルイ・ダヴィッド(1748年~1825年)にも、クラバットを巻いた自画像(下の画像)があります。

ジャック・ルイ・ダヴィッド

ヴィクトリア朝時代(1837年~1901年)には、ファッション性の高かった摂政時代からの反動で、一転して「着心地の良いスーツ」に変化していきました。

紳士の身だしなみはシンプルになり、ネクタイ、ステッキ、手袋などの小物で個性を表現するようになりました。
「アスコットタイ」が流行したのは1870年代です。イギリスのロイヤル競馬場「アスコットヒース」に集まった紳士たちがグレーのモーニングコートとアスコットタイを好んで着用しました。そのため、今でもグレーのモーニングコートを「アスコット・モーニング」と呼びます。
アスコットタイ・アスコットモーニング
ダグラス兄弟

なお、ネクタイではありませんが、私が子供の頃テレビ映画でよく見ていた「西部劇」に登場するカウボーイは「ネッカチーフ」を付けていました。

西部劇のカウボーイ

(3)20世紀初頭~1960年代まで

20世紀初頭は「ネックウェアの過渡期」と言えます。

クラバットやアスコット・タイ、ストック・タイ、フォア・イン・ハンド、ボウタイなど様々な種類のものがあり、素材もシルク、コットン、リネン、ウールなどがあります。
しかし、「ノーネクタイの装い」はあり得ませんでした。そして、首元に立体感を持たせることが装いのポイントでした。いわばスカーフのような柔らかさと風を身に纏うのです。
それは古代ローマ時代からの変わらないスタイルであり、ネクタイの存在意義でもあります。布地を結んだ際のシワや、くぼみが作る表情が紳士服の堅さを和らげ、気持ちに余裕をもたらすのです。



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