残念な天皇の話(その6)。謀略家で剛腕だったが敵にビビりまくった天智天皇

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天智天皇

天智天皇と言えば、百人一首の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」という和歌で有名です。

また646年から「大化の改新」を行ったことや、660年に「漏刻(ろうこく)」という日本初の水時計を製作したことでも有名です。

漏刻図漏刻

1.謀略家で剛腕の政治家だった天智天皇

しかし一方で、天智(てんじ/てんち)天皇(626年~672年、在位:668年~672年)は中大兄皇子時代の645年6月に、「乙巳の変(いっしのへん)」というクーデターを起こして皇極天皇の御前で蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺して蘇我氏を滅ぼしています。

また、「乙巳の変」後は、孝徳天皇・斉明天皇の時代を通じてずっと政治の実権を握り、斉明天皇の崩御後も6年以上、天皇不在のまま皇太子として政務を執りました。

彼は、蘇我入鹿を暗殺したほか、皇極天皇退位後の645年9月に「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が謀反を企てている」との密告を受けて古人大兄皇子を攻め殺しています。

658年には蘇我赤兄(623年?~没年不詳)の密告により「謀反計画」の廉(かど)で有間皇子(ありまのみこ)(640年~658年)を処刑しました。

また「乙巳の変」で中臣鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺したり、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)(?~649年)を異母弟の蘇我日向の密告によって謀殺するなど、多くの政敵を闇に葬っています。

余談ですが、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我赤兄とも兄弟です。

天智天皇は大変有能な政治家でしたが、謀略家で大変恐ろしい人物でもありました。

2.敵にビビりまくった天智天皇

そのため、人に恨まれる要素も多くあり、当人もそれを相当気にしていたようです。

(1)大海人皇子から額田王を略奪した引き換えに自分の娘を相手に与えたこと

弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)の妻である額田王(ぬかたのおおきみ)(生没年不詳)を略奪して妻に迎えたことは有名ですが、脅威を感じたのか娘2人を大海人皇子に与えるなど、臆病な一面もあります。

額田王

(2)白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗し遣唐使派遣や近江遷都を行ったこと

斉明天皇の時、百済からの救援依頼を受けて、親密国であった百済の再興を支援するために大軍を朝鮮半島に派遣しましたが、663年に「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に大敗しました。

最悪の場合、唐が日本に攻めてくる恐れもあったため、665年、667年、669年と立て続けに「遣唐使」を派遣しています。

唐軍の上陸に備えて国土防衛政策の一環として、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城を築くとともに、最前線の太宰府には水城や烽火・防人を設置して防備を固めました。

また、外敵の危険を少しでも軽減するために、667年に飛鳥宮よりも内陸部の近江大津宮へ遷都しています。

(3)息子の大友皇子を皇位に就けるため大海人皇子に後事を託そうとしたこと

671年10月に病に倒れましたが、なかなか快方に向かわないため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしました。

しかし陰謀のあることを察知した大海人皇子は「天皇の病気全快を祈るため出家する」との名目で辞退して剃髪し、吉野へ去りました。

天智天皇は672年1月に崩御しましたが、大海人皇子の動向を憂慮していたようです。天智天皇としては、息子の大友皇子を皇位に就けたかったようですが、大海人皇子は額田王略奪の件での恨みもあり、承知しなかったのでしょう。

672年7月に大海人皇子は「壬申の乱」という反乱を起こして大友皇子を破って自害させ、天武天皇(?~686年、在位:673年~686年)として即位しました。

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