高杉晋作は身分不問の奇兵隊を組織した尊王派志士だが、どんな人物だったのか?

フォローする



高杉晋作

高杉晋作と言えば、「家柄や身分を問わず、力量を重視する」方針の身分制度を超えた「奇兵隊」を組織したことで有名ですが、27歳の時に肺結核で亡くなったため、明治維新以後の活躍はありません。

しかし彼は長州藩を「倒幕」へと向かわせた中心人物と言われています。いったいどのような人物だったのでしょうか?

1.高杉晋作とは

高杉晋作(たかすぎしんさく)(1839年~1867年)は、幕末長州藩の「尊王攘夷派志士」として活躍し、「奇兵隊」など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた人物です。

「尊王攘夷派志士」は伊藤俊輔(伊藤博文)のような「下級武士」が中心で、井上聞多(井上馨)のような「中級武士」も一部にいましたが、高杉氏は戦国時代以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家柄で、「尊王攘夷派志士」の中では珍しい存在です。

晋作は通称で、諱は春風(はるかぜ)。他に東一、和助。字は暢夫(ちょうふ)。号は楠樹、東行(とうぎょう)で、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗りました。

変名に谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助などがあります。

彼は松下村塾で吉田松陰の教えを受け、「洗脳」と言ってもよいほど思想的に大きな影響を受けました。

吉田松陰の思想とは具体的には、一君万民論・飛耳長目・草莽崛起・対外思想・陽明学です。

(1)一君万民論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張し、「日本は天皇が支配するもので、天皇の下に万民は平等になる」という考え方です。民主主義の観念はありません。

(2)飛耳長目(ひじちょうもく)

塾生にいつも、「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説きました。自身も東北から九州まで足を延ばし、各地の動静を探っています。萩の野山獄に監禁後は弟子たちから情報を収集しており、長州藩に対しても主要な藩に情報探索者を送り込むことを進言しています。

(3)草莽崛起(そうもうくっき)

「草莽」は草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指しています。「崛起」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」という意味です。

(4)対外思想

北海道の開拓、琉球の日本領化、李氏朝鮮の日本の属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張しています。

(5)陽明学の影響

松陰は王陽明が創始した「知行合一」「致良知」の陽明学に感化され、自ら行動を起こして行きました。陽明学者で「大塩平八郎の乱」を起こした大塩平八郎も、彼に影響を与えたと考えられます。

2.高杉晋作の生涯

(1)生い立ちと青少年時代

彼は長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれました。3人の妹がいますが男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられました。

10歳のころに疱瘡を患いました。祖父母ら家族の献身的な介抱で一命を取り留めましたが、「あばた」が残ったため、「あずき餅」とあだ名されました。

漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝されました。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれました

安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学びました。安政6年(1859年)には師の松陰が「安政の大獄」で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をしましたが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑されました。

(2)結婚

万延元年(1860年)11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・雅(まさ)(1845年~1922年)と結婚しました。

(3)留学

文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船して江戸へ渡り、神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をしています。8月には東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しています。

文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航し、清が欧米の植民地となりつつある実情や、「太平天国の乱」を見聞して7月に帰国しています。日記の『遊清五録』に大きな影響を受けたことが記されています。

(4)尊王攘夷運動

西洋列強の中国侵略の実情を見た彼は、帰国後藩府に対し、公武合体策を放棄し富国強兵策の採用を進言しましたが、藩府が不採用のため尊王攘夷運動に邁進することになります。

長州藩では、彼の渡航中に俗論派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、彼も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。

文久2年(1862年)、彼は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺(生麦事件)して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていました。

折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(井上馨)、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎) が相談しました。

しかし玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に至らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられました。

この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなりました。文久2年(1862年)12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の「英国公使館焼き討ち」を行いました。

「英国公使館焼き打ち事件」の襲撃者は次の通りです。

  • 隊長:高杉晋作
  • 副将:久坂玄瑞
  • 火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎
  • 護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
  • 斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三ら

これらの過激な行いが幕府を刺激することを恐れた藩では、彼を江戸から召還しました。その後彼は剃髪して、吉田松陰の生誕地である松本村に草庵を結び、東行(とうぎょう)と名乗って、十年の隠遁に入ると称しました。

(5)下関戦争と奇兵隊創設

文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて定めた攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行いましたが、逆に米仏の報復を受けて惨敗しました(下関戦争)。

このように長州藩が外国船砲撃などで欧米諸国、幕府、朝廷の全てを敵に回してしまった時、それを救ったのは高杉晋作でした。

彼は下関の防衛を任され、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分によらない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠としましたが、9月には「教法寺事件」の責任を問われ総監を罷免されました。

「教法寺事件」とは、下関の教法寺において長州藩諸隊の「奇兵隊」と長州藩正規兵の「撰鋒隊」が衝突し撰鋒隊士が斬殺された事件です。

「奇兵隊」には、「有志の者の集まりとし、藩士・陪臣・軽卒を選ばず、同様に交わり、力量を重視する」という基本方針がありました。

ただし、「奇兵隊」にも身分制度があり、身分によって身に付けるものが決められていました。彼は「平等」に重きを置いたのではなく、「武士以外でも有能な人物を兵として活用したい」というのが本心でした。そして結果的に下級武士や農民が多く集まったというわけです。

京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである「八月十八日の政変」で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、彼は脱藩して京都へ潜伏しました。桂小五郎の説得で2月には帰郷しますが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となりました。7月、長州藩は「禁門の変」で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害しました。

8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、彼は赦免されて和議交渉を任されました

交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに彦島の租借を要求してきました。彼はほぼすべての提示条件を受け入れましたが、この「領土の租借についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功しました(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われています)。

これは清国の見聞を経た彼が「領土の期限付き租借の意味するところ(植民地化を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記しています。

尖閣諸島の防衛態勢が甘いと、沖縄本島を含む南西諸島が、ロシアに不法占拠された状態が長期間続く北方領土の二の舞になりかねません。岸田文雄新総裁には領土防衛を強化してほしいものです。真偽のほどはわかりませんが「あんな石ころのような尖閣諸島で日中関係にひびが入るくらいならくれてやればよい」と発言したとされる親中派の河野太郎氏が総裁にならなくてよかったと思います。

(6)功山寺挙兵

幕府による「第一次長州征伐」が迫るなか、長州藩では幕府への恭順やむなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称しました)が台頭し、10月には福岡へ逃れました。

平尾山荘に匿われましたが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還しました。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる「力士隊」、石川小五郎率いる「遊撃隊」ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵しました。

のちに「奇兵隊」ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月にクーデターを起こし、俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握りました。この時、藩の正規兵数千人に対して、彼のもとに集まった兵は僅か80人あまりで無謀な戦いに見えましたが、続々と兵や農民が駆けつけ敵を打ち破りました。

このようにして彼は、揺れる長州藩内の意見を「倒幕」へと統一しました。

彼は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触しますが反対されました。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼りました。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷しました。

元治2年(1865年)1月11日付で彼は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名しました。

慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となります。高杉本家の家督は末妹・光の婿に迎えた春棋が継ぎました。

(7)四境戦争

再度の長州征討に備え、彼は防衛態勢の強化を進めました。慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が桂小五郎(後の木戸孝允)・井上聞多・伊藤俊輔たちとともに進めていた「薩長盟約」土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれました

5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入しています。

6月の「第二次長州征伐(四境戦争)」では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執り幕府に勝利しました。屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊などと連絡して周防大島を奪還しています。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させています。その後小倉城近くまで進撃したものの、肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞しました。

しかし、7月20日に将軍・徳川家茂が死去すると、7月30日には肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となりました。

幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還へとつながることとなりました。

その後、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去しました。享年29(満27歳8ヶ月)。臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・山県狂介(山縣有朋)・田中顕助(田中光顕)が立ち会ったとされています。

余談ですが田中光顕(1843年~1939年)は、土佐藩出身で宮内大臣も務めましたが、昭和4年に「明治天皇すり替え」という衝撃の告白をした人物です。

野村望東尼(のむらもとに/のむらぼうとうに)(1806年~1867年)は、幕末の女流歌人で病に倒れた高杉晋作を看病した勤王家です。

3.高杉晋作の辞世

① おもしろきこともなき世おもしろく

② おもしろきこともなき世おもしろく

の両説ありますが、彼の直筆になる句が残されていないため、正確なところは不明です。

なお東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっています。古川薫の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し「『を』は後年の改作であろう」としています。また「に」が正しい場合「を」が広まることはなかっただろうという批判もあります。

この句の初出は明治20年に出版された田中光顕編『東行遺稿』の「こともなき世」とする句があるのが最も古い記録です。

かつては死の床にあった晋作が詠み、晋作を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていましたが、近年の研究によればこの句は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力です。

4.高杉晋作の言葉

・人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ。しかし、死地におちいれば、それでおしまいだ。だから、おれは困ったの一言は吐かない。

・真の楽しみは苦しみの中にこそある。

・国のために家が潰れても、家などは軽いものである。世間が僕を狂っているといっても構わない。

・人間というのは困難は共にできる。しかし富貴は共にできない。

・戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ。思案はそれからでいい。

・負けて退く人を弱しと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。

・人は人 吾は吾なり 山の奥に 棲みてこそ知れ 世の浮沈

・男児が事を成すには時があるのだ。たとえ市井の侠客と呼ばれても、胸にある一片の素の心は全く変わっていない。

・後れても 後れてもまた 卿(きみ)たちに 誓ひしことを われ忘れめや

・三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝をしてみたい

・「朝に人としての道を悟ることができれば、その晩に死んでも悔いはない」という事こそが人の道である。人としての努力をすることもなく、ただ死に向かうのは人の道ではない。

・シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない。

・いまの場合、一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。尊王の臣子たるもの一日として安閑としている場合ではない。

・今さらに なにをかいわむ 遅桜 故郷の風に 散るぞうれしき 先生を 慕うてようやく 野山獄

・死だなら 釈迦と孔子に追いついて 道の奥義を 尋ねんとこそ思へ

・苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように。

・天地も人も皆気のみである。気を養えば、人間あとは行動に移すのみだ。

・天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい。

・世間の人々は名誉や利益を追って走っている。そんな時代に利益や名誉を捨てる僕のようなものが他にいるだろうか。僕はたとえ牢で死んでも恨みはない。

・生きるか死ぬかは時機に任せよう。世の人が何と言おうと、そんなことは問題ではないのだ。

・太閤も天保弘化に生まれなば、何も得せずに死ぬべかりけり。

・古くから天下のことを行う者は、大義を本分とし、決して他人に左右されることなく、断固として志を貫く。禍福や死生によって気持ちが揺れ動いたりするものではない。

・先が短いなら短いなりに僕は面白う生きたい。派手な打ち上げ花火を打ち上げて、消えていく… それが高杉晋作の生き方です。

・同志と共に国を作ろうとしている。曲がった国が真っ直ぐになるのはいつか分からない。その苦労は死んでからじっくりと味わおう。

・翼あらば 千里の外も飛めぐり よろづの国を 見んとしぞおもふ

・直言実行、傍若無人、死を恐れない気迫があるからこそ、国のために深謀深慮の忠も尽くせるのだ。

・少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする