「東海道」は「五十三次」で終わりではなく、「五十七次」まであった!?

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東海道五十七次

「東海道」と言えば、江戸時代に整備された「五街道」の一つで、歌川広重(かつては「安藤広重」とも呼ばれました)(1797年~1858年)の浮世絵「東海道五十三次」でもよく知られています。

歌川広重

東海道にある53の宿場を含め、道中には風光明媚な場所や名所旧跡も多いため、古来浮世絵や和歌・俳諧(俳句)の題材にもしばしば取り上げられてきました。

また多くの西国の大名やその家来たちが、「参勤交代」で大名行列を作って江戸との往復に利用した街道です。

ちなみに「五街道」とは、「東海道」「中山道」「日光街道」「奥州街道」「甲州街道」のことです。

五街道

ところで皆さんは、東海道は京都・三条大橋までの五十三次で終わりではなく、五十七次まであったことをご存知でしょうか?

1.東海道五十七次

東海道は1619年(元和5年)に、伏見・淀・枚方・守口の四宿を経て大坂・京橋まで延伸されました。1635年には「参勤交代制」が始まり、街道筋はさらに賑わいを見せるようになります。

(1)五十四次:伏見(ふしみ)宿

伏見は宿場町であると同時に、伏見城の城下町でもあり、さらに淀川の水運の中継地(伏見港)でもありました。

伏見の船宿「寺田屋」は、1866年に坂本龍馬(1836年~1867年)が伏見奉行に襲撃されて難を逃れた「寺田屋事件」の舞台としても有名です。

伏見寺田屋

(2)五十五次:淀(よど)宿

淀宿は淀藩の城下町であり、伏見宿からわずか一里十四町という近い距離にあった宿場です。豊臣秀吉は1589年に淀古城を改修して淀殿を住まわせましたが、1592年伏見城造営の際に取り壊しています。

徳川家康伏見城を廃城にして、1623年に桂川・宇治川・木津川が合流する三角州に新たな淀城を造営しました。

淀城跡淀城石碑

(3)五十六次:枚方(ひらかた)宿

東西全長約1.5kmで、豊臣秀吉が築造した「文禄堤」を利用して、「京街道」として整備されました。

江戸時代には参勤交代の際に、紀州徳川家が定期的に宿泊したほか、淀川において京と大坂を結ぶ「三十石船(さんじっこくぶね)」の中継港としても賑わいました。

また、枚方宿付近で淀川を往来する大型船に近寄り、乗船客に飲食物を売った「くらわんか舟」も有名で、歌川広重の浮世絵にもなっています。

枚方宿枚方宿

くらわんか船歌川広重

(4)五十七次:守口(もりぐち)宿

下の写真は古い建物が街道の面影を残す「文禄堤(ぶんろくつつみ)」の守口宿跡です。「文禄堤」とは、豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道で、1594年に着手し1596年に完成しました。河内平野に淀川が氾濫するのを防止するのに役立ちました。

守口宿

(5)起終点:大阪・高麗橋(こうらいばし)

そして東海道五十七次の終点(起点)は大阪・高麗橋(上の写真)です。現在高麗橋の上には阪神高速道路が走っており、首都高速道路が真上を走る東京・日本橋(下の写真)の風景とよく似ています。

高麗橋写真日本橋

高麗橋の袂には「里程元標跡(りていげんぴょうあと)」の石碑が建っています。「里程元標」とは、「道路の路線の起点や終点を表示するための標識」で、明治時代初期に里程調査のために設けられた道路元標(どうろげんぴょう)です。

里程元標跡

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