悪魔主義者の谷崎潤一郎。三度の結婚と美人妻が織りなすスキャンダラスな世界!

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谷崎潤一郎・椅子に座る

昭和の文豪・谷崎潤一郎といえば、妻やその姉妹をはじめとする美女に囲まれて過ごし、彼女たちをモデルに小説を執筆したことでも有名な人物です。

生涯で三度結婚しており、『痴人の愛』のモデルになった最初の妻・千代の妹のせい子と、『春琴抄』『細雪』のモデルになった三番目の妻・松子とその姉妹は特に注目を浴びました。また、最初の妻の千代は、谷崎が、親友であった佐藤春夫に妻を譲った「細君譲渡事件」でも世間を騒がせています。

文学で言う「悪魔主義」とは、「社会的規範から外れた行動や嗜好を示す倒錯的な考え方」のことです。醜いことや、汚いこと、異常なことを描き、その中に美と感動を見いだそうとする特徴があります。

確かに、谷崎作品には、この傾向が色濃く出ているので、彼はしばしば悪魔主義者だと評されました。

79年の生涯で40回も引っ越しをしたり、奥さんを友達に譲ったり、度が過ぎる美食家だったりと、やることが規格外なのが谷崎潤一郎でした。

1.谷崎潤一郎とは

27歳の谷崎潤一郎

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)(1886年~1965年)は、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た小説家です。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続けました

東京日本橋蠣殻町(現・人形町)の生まれで、弟に作家谷崎精二がいます。母は「美人絵双紙の大関にされてゐた」(『幼少時代』)という評判の美人でした。祖父は、一代で資産をなした優秀な商人で、幼い頃は比較的裕福な暮らしをしていました。

ところが、商売下手な彼の父が事業で失敗したことをきっかけに、家計は苦しくなります。15歳で小学校を卒業後、学費が用意できなかったため、一時は中学校進学が危ぶまれました。しかし、周囲の援助のお陰でなんとか進学し、上野精養軒主人の北村家で住み込みの家庭教師をしながら19歳で府立一中(現在の日比谷高校)を卒業しました。

散文や漢詩をよくし、中学一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせました。成績優秀な彼は「神童」と言われるほどだったそうです。

このように府立一中時代から文才が知られ、「創作家にならうと云(い)ふ悲壮な覚悟をきめ」(『青春物語』)て、一高から1908年に東京帝大国文科へと進みました。しかし1909年頃、文壇に出られない焦りから神経衰弱となり、転地療養先の偕楽園で、永井荷風の『あめりか物語』を愛読しました。

しばらく模索の時期が続き、第2次『新思潮』(1910年~11年)を出し、『刺青』(1910年)、『少年』(1911年)を発表し、同年『中央公論』に『秘密』が掲載されるに及んで、永井荷風の絶賛を受け新進作家として華やかにデビューしました。

永井荷風は1911年11月号の『三田文学』に『谷崎潤一郎氏の作品』を書き、その文学の特質を激賞しました。荷風は谷崎文学の顕著な特質として、第一に、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄(ゆうげん)」、第二に「全く都会的なる事」、第三に「文章の完全なる事」をあげました。

1911年、学費未納により東大を中退しています。

1912年に初恋の相手の穂積フク(住み込みで家庭教師をしていた北村家の小間使い)が肺炎で死去し、京都旅行をはじめ各地を放浪、神経衰弱が再発しています。徴兵検査を受けましたが脂肪過多症で不合格。同年『悪魔』を発表しています。この作品には、極端なマゾヒズムと女性の悪魔性への賛美があります。

初期は官能的な耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムや独特な美意識などその文学世界は、こうした初期作品にすでに顕著です。

大正時代は「悪魔主義」と呼ばれる時代ですが、作品世界を作り過ぎるきらいもあります。また映画に興味を示したのもこのころでした。

1923年、谷崎は37歳のときに関東大震災を経験します。母に似て地震が嫌いな谷崎は、ほとぼりが冷めるまで東京を離れようと、関西に移住します。

当初は一時的な移住でしたが、関西を気に入った谷崎は晩年まで関西で過ごし、とうとう東京に戻ることはありませんでした。

関西へ移住後、『痴人の愛』(1924年~25年)、『卍』(1928年~30年)が生まれました。その間、千代夫人と離婚、夫人を友人佐藤春夫(1892年~1964年)に譲る出来事(千代の譲渡の約束を翻し佐藤春夫と絶交した「小田原事件」と、最終的に千代を譲渡した「細君譲渡事件」)もありました。『蓼喰ふ虫』(1928年~29年)の背景がそれです。

現代のようにLGBTQなどの「多様性を認める時代」であれば別ですが、当時としては背徳的でセンセーショナルな作品だったと思います。

その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷しました。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴です。

次第に創作方法や語りの文体がより磨かれ、『吉野葛』『盲目物語』(ともに1931年)、『蘆刈』(1932年)、『春琴抄』(1933年)などの名作があります。1935年(昭和10年)に根津松子と結婚、終世の伴侶を得て作風も安定しました。『陰翳礼讃』(1933年)などの美学がまとまったのもこのころです。

戦中は『源氏物語』の現代語訳を完成、現代版源氏物語とも言われる大作『細雪』(1943年~48年)を書きます。戦後も、『少将滋幹の母』(1949年~50年)、『鍵』(1956年)、『瘋癲老人日記』(1961年~62年)など着実な歩みをみせ、海外でも評価は高まりました。

1949年(昭和24年)には文化勲章を受章しています。また川端康成が1968年にノーベル文学賞を受賞した時の事前選考で、候補者(あとは、三島由紀夫と西脇順三郎)の一人に挙げられていましたが、1965年に亡くなったため、ノーベル文学賞の受賞はなりませんでした。

2.最初の妻・石川千代と、その妹せい子

(1)最初の妻・石川千代

谷崎潤一郎最初の妻・千代谷崎潤一郎の最初の妻千代と娘

1915年(大正4年)29歳の時に、20歳の石川千代と結婚しています。千代との間には谷崎唯一の実子である鮎子が生まれました。

芸術のために平凡な生活を好まなかった谷崎は、気性の激しい初という芸者に惹かれていたものの、結婚は叶いませんでした。

そこで妹の千代と結婚することになったのですが、妖艶な初と異なり、千代はごく平凡な女性で谷崎は不満だったようです。

そして千代の妹であるせい子に惹かれ始め、その思いはのちに小説『痴人の愛』へと昇華されました。

結婚生活は1930年(昭和5年)まで15年間続きました。離婚後、千代は佐藤春夫と再婚しています。谷崎にとって千代は面白くない女だったらしく「痴人の愛」のモデルになる千代の妹、せい子と関係持つようになります。この時せい子はまだ15~16歳でした。

(2)千代の妹・せい子(芸名:葉山三千子)

葉山三千子谷崎潤一郎の最初の妻千代の妹・せい子

和嶋せい子(1902年~1996年)(旧姓:石川)は、谷崎の最初の妻・千代の妹で、芸名が葉山三千子(はやまみちこ)という映画女優です。谷崎の傑作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミのモデルであるとされます。

1916年、姉の千代が谷崎潤一郎と結婚したのを機に、谷崎に引き取られて音楽学校へ通いました。1920年、横浜の大正活映に入社し、同年『アマチュア倶楽部』(原作・脚本:谷崎潤一郎、監督:トーマス・栗原)で主演デビューしましたが、撮影後に俳優の江川宇礼雄と駆け落ちしています。

谷崎は初め、千代の姉に恋したのですが、うまくいかなかったのでその妹の千代と結婚しました。身代わりというか面影を見るためでしょうか?

ところが今度は千代の妹のせい子を好きになってしまいました。昭和期のミューズが森田家の女性たちなら、大正期のミューズは石川家の女性たちだったのです。

3.二番目の妻・古川丁未子とは

谷崎潤一郎2番目の妻丁未子

1931年(昭和6年)45歳の時に、24歳の古川丁未子(ふるかわとみこ)と結婚しました。しかしまもなく、丁未子と結婚する3年前には知り合っていた人妻の根津松子と不倫をはじめ、1933年には別居し、1934年に正式に離婚しています。

二番目の妻である丁未子は、ある意味三人の妻の中で最も「影が薄い」人物ですが、大阪の女子専門学校で英文学を学んだ才女で、文藝春秋社の女性記者でした。谷崎のミューズとして作品に登場したという逸話もあまり聞かず、人妻であった松子(後に三番目の妻となる)に熱烈に恋をした夫に捨てられます。

今で言うところの「ゲス不倫」の被害者でもあります。しかし、実はその丁未子こそ現代の感覚で見ると一番の美女です。

谷崎より21歳も若く美しく知的な丁未子が、実質2年に満たない結婚生活でなぜ捨てられたか? のヒントは、『谷崎家の思い出』(高木治江著・構想社)の中に描かれています。

パンをかじりながら原稿をチェックするようなキャリアウーマン丁未子はあまり家庭的ではなく、料理が苦手だったとのことです。

下のカリカチュアにあるように、彼女は谷崎の「秘書的存在」だったようです。

「女性とは神であり玩具」といった名言でも有名な谷崎。二番目の妻・丁未子は、まさに「玩具」のように一方的に別れを告げられたと伝えられています。

彼女は当時既に文壇で地位を確立していた谷崎に憧れていたようです。谷崎も21歳年下の彼女の美貌に惹かれ、千代とまだ夫婦関係にあった時期から交際していました。

しかしお互いに憧れの存在ではあったものの、実際に暮らしてみると、パートナーとしては理想から程遠かったようです。

わずか3年で離婚、この間に谷崎は松子と出会っているので、三角関係だったことがうかがえます。その様子は小説『猫と庄造と二人のおんな』に描かれました。

3人の妻とのスキャンダルを、平然と小説に書いてしまう谷崎の図太さと、その芸術家気質は並外れていたのでしょう。

次から次へと女性と関係を持ち、関わった女性をモデルになんでもかんでも小説に書いてしまう谷崎。関わった人たちはたまったものではありませんが、そんなことはお構いなしにと言わんばかりに谷崎は、「恋愛は芸術である。血と肉を以って作られる最高の芸術である」との言葉を残しています。

身内にいれば迷惑な存在ですが、あらゆる不祥事を名作に昇華してしまう才能は、やはり文豪の名にふさわしいと言えるでしょう。

離婚を言い渡されてから、古巣の文藝春秋へ戻って、菊池寛の世話で同社社員の鷲尾洋三(1歳下)と再婚しています。鷲尾はその後「文学界」編集長、文藝春秋副社長にまでなりますが、子供はできず、鷲尾の姪を養女にしています。1969年、谷崎没後僅か4年で、子宮ガンで亡くなっています。

4.三番目の妻・森田松子とは

谷崎潤一郎3番目の妻松子

1935年(昭和10年)49歳の時に、根津清太郎と離婚した32歳の森田松子(1903年~1991年)と結婚します。彼女は『細雪』の幸子のモデルとなった女性で、後に随筆家となっています。

松子は、日本最古の造船所である藤永田造船所の大株主である森田安松の次女として大阪に生まれています。裕福な一族の四人姉妹だったことからわかる通り、谷崎の『細雪』に登場する四人姉妹の次女・幸子のモデルです。

20歳の時に、根津清太郎という裕福な綿布問屋の御曹司と結婚しますが、夫は愛人(末の妹)と駆け落ちするなど素行が悪かったそうです。

1927年、関西移住中の谷崎潤一郎と知り合いました。芥川龍之介のファンであった松子は、夫・清太郎の行きつけであるお茶屋の女将に引き合わせを頼んでいたことから来阪中の芥川と、それに同行した谷崎と面会したのをきっかけに、谷崎に根津家の寮や別荘を提供するなど交流を深めて行きました。

1930年谷崎は最初の妻を佐藤春夫に譲り古川丁未子と再婚しましたが、松子との関係が深くなり、丁未子と別居します。1932年に根津商店が倒産し、神戸市魚崎町横屋字川井に転居すると、谷崎もその隣に転居。1934年に松子と清太郎が離婚すると、松子と谷崎は芦屋で同居するようになります。当時、松子は谷崎の崇拝の対象であり、『盲目物語』『春琴抄』その他の女人崇拝の作品は松子を念頭に置いて書かれ、谷崎は「松に倚(よ)る」という意味で住居を「倚松庵(いしょうあん)」(下の画像)と名付けました。

倚松庵

松子は裕福な家庭に育ったものの、没落し貧しい生活を余儀なくされていた時期に、17歳年上の谷崎と出会ったのです。

これまではスキャンダラスな女性関係を展開してきた谷崎も、ようやく松子という理想の妻を得て落ち着きました。

愛する女性と近しい女性たちに芋づる式に(?)心惹かれてしまうのが谷崎だったようです。光源氏が藤壺の面影を求めてゆかりのある女性たちを無理をして手に入れていくのと似ていますね。しかし光源氏は結局母親の桐壺更衣を恋しがっていましたので、谷崎も創作のためだけでなく、母親(谷崎関さん)を恋しがって色々と無理を重ねたのでしょうか?

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