与謝野晶子とは?反戦詩で有名だが、晩年は戦争賛美の詩を書いていた!

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与謝野晶子・吉高由里子と似ている

与謝野晶子と言えば、明星派を代表する浪漫主義の情熱的歌人としてあまりにも有名ですが、彼女の全人生の中には、あまり知られていない出来事もあります。

そこで今回は、与謝野晶子の生涯を辿ってみたいと思います。

1.与謝野晶子とは

与謝野晶子

与謝野晶子(1878年~1942年)は、大阪府堺市出身の歌人・作家・思想家です、旧姓は鳳(ほう)で、本名は「志やう」で、「しょう」と読みます。ペンネームの「晶子」の「晶」は本名の「しょう」から取ったものです。

(1)生い立ち

実家は老舗和菓子屋の「駿河屋」で、その三女として生まれましたが、家業は没落しかけていました。兄弟には兄・秀太郎(後に電気工学者、東京帝大工学部教授となる)と弟・籌三郎(後に「君死にたまふこと勿れ」で有名になる)がいました。

(2)少女時代

9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習っています。

堺市立堺女学校に入学すると、「源氏物語」などのを読み始め古典に親しんでいます。また兄の影響で、「柵(しがらみ)草紙」「文学界」や、尾崎紅葉・幸田露伴・樋口一葉などの小説を読むのが一番の楽しみだったそうです。

(3)和歌の投稿と与謝野鉄幹との出会い

20歳ごろから、店番をしながら和歌を投稿するようになり、浪華青年文学会に参加しました。

1900年に大阪府堺市の浜寺公園にある旅館で行われた歌会で歌人・与謝野鉄幹(1873年~1935年)と出会って不倫関係になり、彼が創立した新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表するようになります。

1901年には家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳い上げた処女歌集「みだれ髪」を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立しました。同年、与謝野鉄幹と結婚しています。

(4)「みだれ髪」の有名な短歌と「やは肌晶子」

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

この歌は伝統的な歌壇からは反発を受けましたが、世間の圧倒的支持を受け、歌壇に大きな影響を及ぼしました。彼女はこの歌にちなんで「やは肌の晶子」とも呼ばれました。

私は高校の現代国語の授業で、彼女の歌集「みだれ髪」にあるこの有名な短歌について、「とてもコケティッシュ(coquettish)な歌だ」と説明されたのを今でも鮮明に覚えています。

その時はコケティッシュという英単語を知りませんでしたが、意味はすぐわかりました。「媚態、艶美、なまめかしい、あだっぽい」という意味の形容詞です。そのおかげで、名詞の「coquette」「coquetry」もあわせて覚えられました。まさに一石二鳥でです。

(5)君死にたまふことなかれ

彼女には1904年9月に「明星」に発表した「君死にたまふことなかれ」という有名な反戦詩があります。これは日露戦争に出征して旅順口包囲軍にある弟・籌三郎の安否を気遣うとともに、明治天皇を非難する内容です。

あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも、親は刃(やいば)をにぎらせて人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの舊家(きうか)をほこるあるじにて親の名を繼ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、すめらみことは戰ひにおほみづからは出でまさねかたみに人の血を流し獸(けもの)の道に死ねよとは死ぬるを人のほまれとは大みこゝろの深ければもとよりいかで思(おぼ)されむ

あゝをとうとよ、戦ひに、君死にたまふことなかれ、過ぎにし秋を父君に、おくれたまへる母君は、嘆きのなかにいたましく、我子を召され家を守(も)り、安しと聞ける大御代も、母の白髪は増さりゆく。

暖簾のかげに伏して泣く、あえかに若き新妻を、君忘るるや思へるや、十月(とつき)も添はで別れたる、少女(をとめ)ごころを思いひみよ、この世ひとりの君ならで、ああまた誰を頼むべき、君死にたまふことなかれ。

①大町桂月との論争

この詩を巡っては、彼女と親交の深かった詩人・歌人の大町桂月(1869年~1925年)との間に論争が起こりました。

桂月は「太陽」誌上で「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と非難しました。

これに対して彼女は、「明星」11月号で「ひらきぶみ」を発表し、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」と反論し、「歌はまことの心を歌うもの」と弁明しました。

桂月の主張は当時としては常識的な多数派の意見でしたが、現代の我々から見ると、極端な天皇絶対崇拝の国粋主義者のように思えます。

ところで、日露戦争当時は満州事変後の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しくなく、彼女も何ら罪に問われていません。彼女のほかに、白鳥省吾・木下尚江・中里介山・大塚楠緒子なども戦争を嘆く詩を書いています。

②姉の詩を迷惑に思った出征中の弟

出征中の弟・籌三郎は、姉の晶子が世間で非難囂々の反戦詩を発表したため、軍の中で肩身の狭い思いをしていたという話を聞いたことがあります。

なお彼は、旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していましたが、この詩の発表当時は遼陽会戦を戦っており、旅順攻囲戦には参戦していなかった可能性が高いそうです。

彼に罪はありませんが、日本国内の「世間の目」よりも、軍の中での方が冷たい目で見られたことは想像に難くありません。

ちなみに彼は、日露戦争から無事に生還して実家を継ぎ、1944年に63歳で亡くなったそうです。

(6)女性解放運動への支援

1911年には、史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿しています。

1912年に彼女は夫・鉄幹の後を追ってパリに行くことになりましたが、「青鞜」を創刊した女性解放運動家の平塚らいてう(1886年~1971年)など500余名が見送ったそうです。

同年5月に読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、6月の「中央公論」では彼女の特集が組まれました。

1921年には、建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、夫の鉄幹とともに、お茶の水駿河台に文化学院を創設して男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を実現しました。

(7)夫の収入が少なく子だくさんの家計を助けるため、エネルギッシュに活動

12人の子だくさんでしたが、夫・鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方のため、彼女は作歌・詩作・評論・源氏物語の現代語訳とエネルギッシュに活動しました。

夫が1918年に慶應義塾大学文学部教授に就任するまでは、夫の収入が当てにならないため、彼女は孤軍奮闘で来る仕事は全て引き受けなければ家計が成り立たない状態だったそうです。

歌集の原稿料の前払いをしてもらったりと多忙なやりくりの中でも、即興短歌の会を女性たちと開いたりして、残した歌は5万首にも及ぶそうです。

余談ですが、財務大臣などを歴任した与謝野馨(1938年~2017年)は彼女の孫です。

(8)晩年は戦争賛美の詩歌を発表

「君死にたまふことなかれ」の詩があるため、「嫌戦の歌人」という印象が強いですが、1910年に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」という歌を詠んでいます。

第一次世界大戦中は、「戦争」という詩で「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」という極めて励戦的な戦争賛美の詩を作っています。

1931年の満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたとはいえ、1942年に発表した「白櫻集」では次のような戦争を美化し、鼓舞する歌を作っています。

・強きかな 天を恐れず 地に恥じぬ 戦をすなる ますらたけをは

・水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ

学問上の真理を曲げて時勢や権力者に媚びへつらい、世間の人々に気に入られるような言動をすることを「曲学阿世」と言いますが、彼女も時流に流されたというよりも、時流に積極的に乗ろうとした節があります。そういう意味で「反戦歌人」としては一貫性がありませんでした。

そして、かつての「明星」の輝きは失われていました。彼女にとって救いだったのは、徐々に戦局が悪化し、本土空襲が始まる前の1942年に亡くなったことです。

戦後まで生きながらえていれば、軍国歌謡を多数作曲して人気を博した古関裕而と同様の苦悩を味わったことでしょう。

2.与謝野晶子の代表的短歌

与謝野晶子

・くろ髪の 千すぢの髪の みだれ髪 かつおもひみだれ おもひみだるる

・清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵逢ふ人 みな美しき

・その子二十 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな

・髪五尺 ときなば水に やはらかき 少女ごころは 秘めて放たじ

・何となく 君に待たるる ここちして 出でし花野に 夕月夜かな

・金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に

・ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟

・誰見ても 親はらからの ここちすれ 地震をさまりて 朝に至れば

・明けくれに 昔こひしき こころもて 生くる世もはた ゆめのうきはし

3.与謝野晶子の「全訳源氏物語」

彼女は古典に造詣が深く、源氏物語の独自の研究結果を「与謝野源氏」とも呼ばれる「全訳源氏物語」に結実させました。

余談ですが、国文学者や研究者による評釈・現代語訳以外で、源氏物語の現代語訳に挑んだ小説家は、ほかに谷崎潤一郎(谷崎源氏)、円地文子、田辺聖子、橋本治、瀬戸内寂聴などがいます。

堺が生んだ歌人 与謝野晶子からのメッセージ

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