童謡『肩たたき』の歌詞に込めた西條八十の切ない思い。父の死後に長兄が遺産を持ち逃げし、苦労した母と4歳で急逝した次女。

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肩たたき

私たちが子供の頃に慣れ親しんだ童謡の中には、作詞者の悲しい思い出が込められているものがいくつもあります。

これについては、前に次のような記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

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ところで、『肩たたき』の歌詞にある「母さん白髪がありますね」には、子供心に違和感を持っていました。

というのも、私がこの歌をよく聞いていた子供の頃の母親は、30歳前後で髪の毛が黒々していて白髪など一本もなかったからです。白髪といえば祖母くらいです。

西條八十がこの歌を作詞した当時、母親が63歳で、息子の彼が31歳とは全く知りませんでした。

そこで今回は、この『肩たたき』の歌詞に込めた西條八十の切ない思いと、作詞者の西條八十について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.『肩たたき』の歌詞に込めた西條八十の切ない思い

『肩たたき』(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)は、1923年(大正12年)に発表された童謡で、西條八十が31歳の時の詩です。

詞は1923年(大正12年)5月、子ども雑誌『幼年の友』に掲載され、曲は同じころ、中山晋平の曲集『童謡小曲第五集』に発表されました。

この歌を聞くと、縁側のある古き良き日本の原風景と、上の絵にあるような優しい女の子が、針仕事に疲れた母の肩を叩いてあげるという情景がまず思い浮かびます。

リズミカルな繰り返しで楽しい楽曲ですが、実は作詞者の西條八十の悲しくも切ない思いが込められているのです。

(1)苦労をかけた母への切ない思い

西條八十は7人兄弟の三男として生まれました。彼の父は石鹸の製造販売業で財を成し、幼少期は何不自由ない暮らし(ただし、両親は極端な質素倹約家だったため、贅沢な暮らしではなかったようです)でしたが、父親が亡くなった後、実家は没落しました。

長男(八十の長兄)が放蕩者で、父の遺産を持ち逃げしたため、生活は困窮し、母は大変苦労しました。そのような苦労があったためか、母は白髪になり、54歳の頃には失明しています。

なお、失明の原因については、西條八束(西條八十の長男)が書いた『父・西條八十の横顔』によると、「祖母が盲目になったのは、白髪染めが原因という話を聞いていた」そうです。また「祖母は庭に面した南側の居室で、何時も長火鉢の横にじっと座っていた」そうです。

母は1934年(昭和9年)、彼が42歳の時に74歳で亡くなっています。

なお、白髪染めの液が目に入って失明したというのは正確ではなく、「緑内障」が原因でした。「緑内障」はさまざまな原因から眼圧が上昇する病気です。

しかし「母に苦労をかけなければ白髪は生えなかったし、失明することもなかった」と親孝行な八十が悲しく思ったとしても不思議ではありません。

西條八十の家族

<左前列より次女慧子、母徳子、長女嫩子、後列左から女中琴、妻晴子、八十>

(大正11年頃・柏木の自宅にて)

(2)4歳で急逝した次女慧子への切ない思い

八十の次女・慧子(けいこ)は、1923年(大正12年)10月に疫痢(えきり)(幼児の急性伝染病)のためにわずか4歳で急逝し、八十夫妻は大変嘆き悲しみました。

八十は、『西條八十童謡全集』のあとがきで、亡きわが子とこの童謡とのかかわりについて、次のように書いています。

亡児慧子はこの謡を殊のほか愛誦していた。そうしてつねに「母さんお肩をたたきましょう。タントン、タントン、タントントン」と廻らぬ口で歌っていた。

この謡を聞くと、私の前には彼女のひびの切れた赤い頬ぺたと、その眼とが浮かぶのである。

2.西條八十とは

西條八十

西條 八十(西条 八十)(さいじょう やそ)(1892年~1970年)は、東京都出身の詩人・作詞家・仏文学者で、早稲田大学文学部文学科元教授です。

象徴詩の詩人としてだけではなく、『まりと殿さま』、『かなりあ』などの童謡から、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき『東京行進曲』、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした『青い山脈』、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー『蘇州夜曲』、古賀政男の故郷風景ともいえる『誰か故郷を想わざる』『ゲイシャ・ワルツ』、村田英雄の男の演歌にして船村メロディーの傑作『王将』など多くのヒットを放ちました。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称されました。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもあります。

長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。

西條八十と子供たち

<左から長女嫩子・西條八十・長男八束>

なお、『肩たたき』を作曲した中山 晋平(なかやま しんぺい)(1887年~1952年)は、『シャボン玉』、『証城寺の狸囃子』、『背くらべ』など多くの童謡を残しています。

3.西條八十の生涯

彼は1892年(明治25年)1月15日に、東京府東京市牛込区牛込払方町(現在の東京都新宿区払方町)に、父重兵衛(1840年~1906年)、母トク(徳子)(1860年~1934年)の三男(7人兄弟)として生まれました。父は石鹸の製造と輸入販売で莫大な財を築きましたが、父親の死後、実家は没落しました。

1898年(明治31年)、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受けました。

旧制早稲田中学校(現・早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぎます。吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受けます。

1906年(明治39年)、彼が14歳の時に父が脳溢血のため66歳で死去しました。彼は三男ですが、7歳上の長兄英治が放蕩者のために「廃嫡」(家督相続権を剥奪)されていたため、喪主として葬列の先頭を歩きました。英治は15~16歳の頃から、家の金を持ち出しては家出を繰り返すなど素行が悪かったためです。

八十がまだ14歳の少年だったことに目を付けた英治は、数人の親戚を味方につけて法律に暗い母をだまして、形式的に父の遺産を自分が買い取ったことにしました。

こうして合法的に西條家の財産を横取りすると、山口某というタチの悪い番頭と結託して放蕩の限りを尽くしました。

中学時代に英国人女性から英語を学びました。明治末には、奈良英和学校の後進校で学んだほか、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科を卒業しました。

1914年(大正3年)、彼が22歳で早大近くに下宿していた時、英治が番頭の山口にそそのかされて、西條家の金庫から有価証券や不動産の権利書など全財産を持ち出し、馴染みの芸者と駆け落ちしました。

そのため、八十はほとんど全ての財産を失ったばかりでなく、家長として西條家の家族の生活を一人で背負わなければならなくなりました。

そこで八十は「かねなか」という株屋になかば勤めながら、株の取引を覚え、大正バブル経済のおかげもあって学資や一家の生活費を兜町で稼ぎました。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919年(大正8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立しました。

後にフランスへ留学ソルボンヌ大学ポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早稲田大学文学部文学科教授となりました。

日中戦争が始まると他の従軍文士らとともに大陸に渡り、南京や漢口などの戦地に赴きました。

また、日本文学報国会詩部会幹事長として戦争協力を行い、軍人援護強化運動として「起て一億」の作詞を担当しました。

1943年(昭和18年)には早稲田大学時代の同級生・外池格次郎が当時町長を務めていた茨城県真壁郡下館町(後に下館市を経て、現・筑西市)に疎開。以後戦後まで下館を拠点としていました。

戦後日本音楽著作権協会会長を務めました。

1970年(昭和45年)8月12日、急性心不全のため世田谷区成城の自宅にて78歳で死去しました。戒名は詩泉院釈西條八十。墓所は千葉県松戸市にある東京都立八柱霊園です。

4.西條八十にまつわるエピソード

・八十( やそ)という名前はペンネームではなく、本名です。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名したようです。

長兄が放蕩者だったため、三男でしたが家督相続人となりました。長兄は家財を持ち出して芸者と駆け落ちし、さらに店の経営を任せていた支配人の横領まで発覚しました。西條家の財産や土地は全て借金の抵当に入れられていたのです。

大学生のときには、家族を養うために兜町の証券取引所に通い、株式投資で生活をしていました。結婚後は、天麩羅屋経営で糊口をしのいでいました。

・早稲田大学の同じクラスには、後に文壇で活躍する植村宗一(直木三十五)、宮島新三郎、田中純、木村毅、青野季吉、細田源吉、細田民樹らがいました。

・森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用されました。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となりました。

・1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となりましたが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになりました。

八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息しています。

・担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれています。著者は友人の詩人大木惇夫の次女です。

・西條が『砂金』に収録した『トミノの地獄』という詩について、”この詩を声に出して朗読すると呪いに罹って死ぬ”という、いわゆる都市伝説が存在します。

内容は「トミノ」という少年が地獄を旅するという内容で、これは西條が亡くなった父もしくは妹に奉げる為に書いたとされますが詳しいことは不明です。

・政治家の佐藤栄作・寛子夫妻とは懇意の仲であり、両家の別荘があった軽井沢では、毎夏ともに過ごすほどでした。なかでも寛子夫人とは、借家住まいの頃の大家が寛子の叔父であった縁から長い付き合いでした。