安徳天皇の生母・建礼門院(平徳子)の人物と生涯とは?

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建礼門院・平徳子

平徳子(建礼門院)は平清盛の娘で、政略結婚で高倉天皇の皇后(中宮)となり安徳天皇を産んだ後、「壇ノ浦の戦い」での平家滅亡に伴い、安徳天皇らと共に入水しましたが助けられ、京に送られて寂光院で余生を過ごしました。

今回は平徳子(建礼門院)の人物像や生涯について、もう少し詳しくご紹介したいと思います。

1.平徳子(建礼門院)とは

(1)生い立ちから入内まで

平徳子(たいらのとくこ)(1155年~1213年)は、平清盛(1118年~1181年)の次女で、母は平時信(?~1149年)の娘・時子(1126年~1185年)です。異母兄に重盛・基盛、同母兄弟に宗盛・知盛・重衡がいます。

父の清盛は「保元の乱(1156年)」「平治の乱(1160年)」に勝利して「武士」として初めて「公卿」となりました。

その結果、軍事・警察権を握り、朝廷にも大きな影響力を持つようになりました。

1166年に後白河法皇(1127年~1192年)は、清盛の支援によって憲仁親王(後の高倉天皇)(1161年~1181年)の立太子を実現し、「院政」を開始しました。

このように平氏と天皇家は、平安時代の藤原氏と天皇家のような「ギブアンドテイク」の関係になっていきました。平氏は天皇の権威を背景にするとともに天皇の外戚となって権勢を振るい、天皇家は平氏の軍事・警察力によって藤原摂関家の勢力を抑え、安全を保障される関係です。

1171年に高倉天皇が元服すると、徳子入内の話が持ち上がり、後白河法皇も政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠であることから、入内を認めました。

なお、徳子入内の背景には、後白河法皇と清盛の対立を回避し、高倉天皇の治世安定を願う建春門院(けんしゅんもんいん)(1142年~1176年)(*)の意向も大きかったようです。

(*)建春門院とは

建春門院(平滋子)は、後白河天皇(後の後白河法皇)の女御で、父は平時信です。徳子の母・時子は建春門院の異母姉なので、徳子は建春門院の姪にあたります。

高倉天皇を産んで国母となりました。

(2)高倉天皇の中宮となる

1172年に徳子は高倉天皇の中宮となりましたが、子供がすぐには生まれなかった一方、高倉天皇は乳母との間に功子内親王、小督局との間に範子内親王をもうけました。

この時、清盛が激怒して小督局を追放したという話が「平家物語」にあります。

(3)安徳天皇を産み国母となる

安徳天皇

しかし1178年に徳子は言仁親王(後の安徳天皇)(1178年~1185年)を産み、国母となりました。

建春門院(平滋子)が1176年に亡くなると、やがて清盛と後白河法皇との対立が表面化し、1179年に清盛はクーデター(治承三年の政変)を断行して、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、高倉天皇は3歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位して院政を開始しました。

(4)高倉上皇の崩御と清盛の死去

しかし成立したばかりの「高倉院政」は、5月の「以仁王の挙兵」によって大きく揺さぶられました。挙兵は早期に鎮圧されましたが、園城寺・興福寺などの「反平氏勢力」の脅威は依然として残ったため、高倉上皇は清盛の強い意向によって「福原行幸」を行いました。

しかし「福原遷都計画」の挫折、上皇の体調不良、各地の反乱激化もあって11月には再び京に戻りました。

1181年に高倉上皇が20歳で崩御すると、後白河院政の復活は避けられないものとなり、平氏は国政に関与する手段を失いました。

加えて清盛も熱病に倒れて亡くなると、後白河法皇は天皇と母后を平氏から引き離し、政治の実権奪取を目指すことになり、夫を失い父も失った徳子は対立を抑える力はなく、平氏政権の崩壊は目前に迫ってきました。

(5)平氏滅亡

1183年5月に平氏の北陸追討軍が、「俱利伽羅峠の戦い」で木曽義仲(1154年~1184年)に撃破されたことで、今まで維持されてきた軍事バランスが完全に崩壊し、平氏は「都落ち」を決意し六波羅に火を放ち安徳天皇・徳子ら一族を引き連れて西国へ向かいました。

しかし1185年3月の「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡しました。

清盛亡き後、徳子や宗盛の母である時子が平家の家長たる存在となり、「一門の精神的支柱」として重きをなしていました。

「壇ノ浦の戦い」で平氏一門が源氏軍に最終的な敗北を喫すると、安徳天皇に「浪の下にも都の候ぞ」(平家物語)と言い聞かせて幼帝を抱いて海中に身を投じました。

徳子は安徳天皇らと共に入水しましたが助けられ、京に送られて「寂光院」で余生を過ごすことになりました。

なお「平家物語」の「大原御幸」の章では、時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と命じたとされています。

四十七士の寺坂吉右衛門が大石内蔵助の密命によって脱走し生き延びたという逸話とよく似ていますね。

1185年の9月に徳子は、「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(「古今集」読み人知らず)の心境で、比叡山北西麓の大原寂光院に入りました。

かつて徳子に仕えた建礼門院右京大夫(1157年?~没年不詳)が、大原を訪れてみると、

御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。
都ぞ春の錦を裁ち重ねて候ふし人々、六十余人ありしかど、見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿して、僅かに三四人ばかりぞ候はるる (都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りいたけれど、ここには見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている)。

という有様で涙を流し、次のような歌を詠んでいます。

・今や夢昔や夢とまよはれて いかに思へどうつつとぞなき

・仰ぎ見し昔の雲の上の月 かかる深山の影ぞ悲しき

2.後白河法皇の「大原御幸」

「平家物語」の「灌頂巻」では、大原の寂光院を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっています。

寂光院寂光院での建礼門院大原御幸下村観山の大原御幸

1186年4月に後白河法皇は、徳大寺実定・花山院兼雅・土御門通親や北面の武士を供に連れて、お忍びで大原の閑居を訪ねました。

後白河法皇は父の清盛とともに彼女の人生を翻弄した張本人の一人でもありますので、「会いたくもない」というのが正直な気持ちだったかもしれません。

「盛者必衰」「親の因果が子に報う」「因果応報」の結果と言えなくもありませんが、彼女の前半生の栄耀栄華に比べてその凋落ぶりは、小野小町の成れの果ての「卒塔婆小町」の話と同様に哀れを誘うのも事実です。

徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘(人間)として生まれ、国母となり、私の栄耀栄華は「天上界」も及ぶまいと思っていましたが、やがて木曽義仲に攻められて都落ちし、京を懐かしみ悲しみました。

海上を流浪し、飢えと渇きに「餓鬼道」の苦しみを受けました。そして壇ノ浦の戦いで二位尼(平時子)は「極楽浄土とてめでたき所へ具しまいらせ侍らふぞ」と言うと、先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは「地獄」の罪人のようでした。

捕えられ播磨国明石まで来た時、私は夢で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀正しく控えているのを見ました。「ここはどこでしょう」と尋ねると「竜宮城ですよ」と答えられました。「ここに苦しみはあるのでしょうか」と問いますと「竜畜経に書かれています」と答えらえました。それで、私は経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」と、これまでのことを物語ました。

法皇は「『天人五衰』(*)の悲しみは人間の世界にもあったのですね。あなたは目前に『六道』を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流したということです。

(*)天人五衰とは

仏教用語で、六道最高位の「天界」にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのことです。

「大般涅槃経」においては、以下のものが「天人五衰」とされています。

①衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服が垢で油染みる

②頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘(けまん)が萎(な)える

③身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す

④腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る

⑤不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がる

なお、三島由紀夫の長編小説「豊饒の海」四巻(春の雪・奔馬・暁の寺・天人五衰)の題名にもなっています。



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