邪馬台国の「卑弥呼」とはどんな人物だったのか?天皇家との関係は?

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卑弥呼

邪馬台国」の所在地を巡る「邪馬台国論争」は日本古代史の最大のミステリーですが、その女王である「卑弥呼」も謎に包まれています。

そこで今回は卑弥呼についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.卑弥呼(ひみこ)とは

卑弥呼は生年不明で、死去は242年~248年と考えられています。

「魏志倭人伝」などの古代中国の史書に記されている倭国の女王で、邪馬台国に都を置いていたとされています。

邪馬台国はもともと男王が治めていましたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70~80年後(2世紀後半)に長期間にわたる大乱(倭国大乱)が起こりました。

卑弥呼はこの大乱で、分裂していた30ほどの小国家が共立した女王で「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わしていた」とあり、「シャーマン」(巫女(みこ)、呪術者)だったようです。

卑弥呼は儀式を行う役割を担って人前に姿を見せず、政治的なことは全て弟が行っていました。また生涯独身で、彼女のもとには食事を運ぶ一人の男だけが出入りしていたようです。

卑弥呼は238年と243年の2回、魏(220年~265年)に使節を派遣しています。238年の使節派遣の時に「親魏倭王」の金印を与えられていますが、これは発見されていません。

卑弥呼は248年頃、狗奴国(くぬのくに)との戦乱の際に亡くなり、その後男王が就きましたが国中が服さなかったため、卑弥呼の一族の13歳の少女・「壹與(壱与)(いよ)」(または「臺與(台与)(たいよ)」を巫女女王として擁立し、安定を取り戻したと言われています。

2.卑弥呼の人物の比定

「三国志」「後漢書」「晋書」「梁書」「隋書」など中国の史書には現れているのに、不思議なことに日本の「古事記「日本書紀」などの正史には全く見当たりません。

わずかに「日本書紀」の神功皇后紀において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼の記事を引用しているだけです。

卑弥呼が日本神話上の人物、あるいは歴史上実在の人物だとすると、誰に当たるのかという問題です。

私は個人的には次に述べる(1)と(2)とを合わせた「卑弥呼=天照大(御)神=倭迹迹日百襲媛命」説が最も説得力があるように思います。

(1)天照大(御)神(アマテラスオオカミ/アマテラスオオミカミ)説

中国の正史に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記録に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神しかないとする説です。白鳥庫吉、和辻哲郎らが最初に唱えました。

アマテラスの別名は、「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)で、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で「日の女」となります。これは「太陽に仕える巫女」のことであり、卑弥呼に符合するとしています。

また、卑弥呼が亡くなった頃とされる247年と248年に北部九州で「皆既日食」が起きた可能性があり、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もあります。

なお、「卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大(御)神」という説もあります。

(2)倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)説

第7代孝霊天皇の皇女とされる人物ですが、孝霊天皇は「欠史八代」の一人で実在性については諸説あります。

ちなみに「欠史八代」とは、「古事記・日本書紀において、系譜(帝紀)は存在するが、事蹟(旧辞)が記されていない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇、あるいはその時代」のことです。

日本書紀で彼女の墓として築造したと伝えられる「箸墓(はしはか)古墳」(下の画像)は、邪馬台国の都の有力候補地である「纏向(まきむく)遺跡」の中にあります。

箸墓古墳

同時代の他の古墳に比べて規模が隔絶しており、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器があるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる古墳です。

箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mで、魏志倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死大作冢 徑百余歩」という記述に一致します。

(3)神功皇后(じんぐうこうごう)説

日本書紀の「神功皇后記」において、魏志倭人伝の卑弥呼の記事を引用し、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述していることから、神功皇后が卑弥呼であるとする説です。

しかし「三韓征伐」した神功皇后は、「三国史記」や「好太王碑文」などから考えて4世紀に活躍した人物ですから、卑弥呼の後継者・壹與(壱与)に当たるのではないかと私は思います。

(4)能登比咩(のとひめ)説

能登比咩神社の主祭神・能登比咩が卑弥呼であるとする説です。

(5)宇那比姫(うなびひめ)説

「海部氏勘注系図」「先代旧事本紀」尾張氏系譜に記される彦火明六世孫の宇那比姫が卑弥呼であるとする説です。

(6)熊襲の女酋長説

本居宣長らが唱えた説です。

本居宣長は、「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも、「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、「九州の熊襲による偽僭説」を提唱しました。

ちなみに「九州の熊襲による偽僭説」とは、「大和朝廷(邪馬台国)とは全く別でつながることはない王国を想定し、筑紫にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長がいた」とするものです。

(7)倭姫命(やまとひめのみこと)説

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南が唱えた説で、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命が卑弥呼であるとする説です。

(8)田油津媛(たぶらつひめ)の先々代

筑後山門を本拠とする土着の豪族の女王・田油津媛の先々代が卑弥呼であるとする説です。

(9)甕依姫(みかよりひめ)説(筑紫国造説)

「筑後風土記逸文」に記されている筑紫君(筑紫国造)の祖・甕依姫が卑弥呼であるとする説です。

(10)熊襲梟帥の先代説

前記の「熊襲の女酋長説」のバリエーションです。

(11)応神天皇と物部氏の一族説

これは応神天皇の皇女あるいは物部氏の娘が卑弥呼であるとする説です。

3.卑弥呼の墓の比定

これについても、次のような多くの古墳が候補として挙げられています。

(1)箸墓古墳(奈良県桜井市)

これが一番有力なようです。

(2)ホケノ山古墳(奈良県桜井市)

(3)石塚山古墳(福岡県京都郡苅田町)

(4)平原遺跡(福岡県糸島市)

(5)祇園山古墳(福岡県久留米市)

(6)御所市玉手山(奈良県御所市)

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