大奥とは?大奥のおきて・しきたりや歴史もわかりやすくご紹介します

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大奥の女達

皆さんは「大奥」と言えば、どんなイメージをお持ちでしょうか?

「男子禁制の女の園」「将軍のハーレム」「女たちの戦い」「側室たちの底知れぬ嫉妬と憎悪や策謀の渦巻く恐ろしい世界」などでしょうか?

1.大奥とは

大奥配置図

千代田の大奥・お流れ

大奥とは、「江戸城に存在した将軍家の子女や正室、奥女中(御殿女中)たちの居所」のことです。大奥という表現は狭い意味では「江戸城本丸大奥」のみを指しますが、広い意味では「西ノ丸大奥、二ノ丸大奥」も含みます。江戸時代の大名家でも家によっては奥向を大奥と呼んでいました。

本丸には将軍夫妻がいて、二ノ丸は将軍生母とかつての将軍に仕えた側室たちがいて、西ノ丸には世継ぎ夫妻や大御所夫妻がいました。

本丸大奥配置図

江戸城本丸には、幕府の政庁である「表」、官邸にあたる「中奥」、さらに将軍の妻妾がいる私邸ともいうべき「大奥」がありました。

大奥には1,000~3,000人がいて面積としては全体で約6,000坪、部屋数は約600もあり、年間に使われた費用は現在の貨幣価値で表すと約160億円で、江戸城の予算の25%にも及びました。

大奥の上位の役職の給料を現在の貨幣価値で表すと上臈御年寄(じょうろうおとしより)約2700万円御年寄約1500万円御中臈(おちゅうろう)約700万円でした。

建物・構造物としての大奥が完成したのは、1657年「明暦の大火」の後のことです。

火事は2日間続きましたが、その間に江戸城や大名屋敷、市街地の大半を焼失したと言われています。この大火災のあと、幕末まで続く構造物としての大奥が完成しました。

(1)「女たちの戦い」の世界

大奥の女たち

大奥は、確かに奥女中たちが将軍の寵愛を得ようとしのぎを削り、ライバルの女たちと熾烈な争いを繰り広げる「女たちの戦い」の世界です。

将軍のお手が付いて子供を産み、その子が男子であれば将来的には「将軍生母」の座を得ることができます。

一介の旗本の子女や、庶民の女性でも、一躍幕府権力の中枢に近づくことになるのです。そのため、この女たちの戦いは熾烈を極めました。

(2)「日本最大の女性の職場」

千代田之大奥・歌合

それと同時に、大奥は少なくとも数百人、最も多い時には4,000人にも及ぶ女性たちが働く「日本最大の女性の職場」でした。

大奥の主人公とも言うべき存在は、「女中」たちでした。彼女らの大多数は、将軍の側室や愛妾となるのではなく、いわば「大奥の役人」として働き、出世を競いました。

2.大奥の「おきて」「しきたり」など

(1)大奥法度(おおおくはっと)

2代将軍秀忠は、元和4年(1618年)に「壁書」、元和9年(1623年)に「御台所法度」を定めました。ここでは、「奥方」や「奥」といった呼称が用いられています。

現在知られる大奥になったのは、3代将軍家光の乳母である春日局が組織的な整備を行ったからです。

秀忠の正室・お江が亡くなると春日局が大奥を取り仕切るようになり、なかなか子供が出来なかった家光のために作った組織が大奥なのです。

実は家光は男色好きで有名でした。明治以前の日本はどちらかというと性愛におおらかで、男性同士の色事も武士のたしなみといわれたほどでした。稚児をめぐる若侍同士の刃傷沙汰もあり、その遺児が仇討ちの旅に出ることもありました。

しかし、このままではお世継ぎが生まれないと心配した乳母の春日局が、家光の気に入りそうな女性を集めたのが美女三千人といわれた大奥の始まりです。

ちなみに家光は女嫌いというわけでもなかったようで、その後何人もの側室を持ち6人の子供を儲けました。

1618年の最初の大奥法度で取り締まられたのは、男性の立ち入りや不審者の侵入でした。

この大奥法度は時代を追って加筆され、

機密保持に留意する条項が加えられる(1623年、1670年)

風紀の乱れを取り締まり質素倹約を奨励(1721年)

と、徐々に完成されていきました。

1721年(享保6年)発布の「大奥法度」の内容は次の通りです。

一、手紙の遣り取りは、祖父母、父母、兄弟姉妹、叔父叔母、甥姪、子、孫に限ること。どうしても他の人に手紙を出さざるを得ないときは、御年寄に相談すること。 宿下がりの際は、これらの親族としか面談してはならない。その場合も、年寄衆が吟味した上で、その記録を帳面に記しておくこと。

一、宿下がりをする御目見以下の女中は、親子や縁者を長局へ呼び寄せてはならない。ただし、近い親類で特に問題がなく、部屋子にしたい者があれば、御年寄に願い出て、御留守居の指図に従うこと。

一、御目見以上の女中は、祖母、母、娘、姉妹、叔母、姪、そして九歳までの男子は、子、兄弟、甥、孫に限り、大奥へ呼び寄せてもかまわない。宿泊する必要があれば、御年寄に願い出て、御留守居に届けた上で一晩限り、泊めることができる。

一、長局に使いの女を泊めてはならない。どうしても泊める必要がある場合は、御年寄に願い出て、御留守居の指図に従うこと。

一、衣服、諸道具、贈物、振舞事は驕ってはならない。身分相応にすること。

一、各部屋で振舞事や寄合をしても、夜更かしはしてはならない。火の元のためなので、絶対にしてはならない。

一、御紋(三つ葉葵)付きの道具類はいっさい私用で貸し出してはならない

一、長局に出入りする按摩は、二人に決めておくこと。

一、御下男(御広敷の小者)をいっさい私用に使ってはならない。急用の場合、御年寄から御広敷番頭へ断った上で使うこと。

一、召使の女の内、不審な者は早々に辞めさせること。城中は大事な所なので、少しの間でも怪しげなものは抱えおいてはならない。

(2)奥女中の職制

奥奉公出世双六

大奥のトップは、言うまでもなく将軍の正室である「御台所」(みだいどころ)ですが、大奥(御殿・長局)に勤める奥女中の職制は、 大きく分類すると「お目見え以上」「お目見え以下」「部屋方」に分類されます。

お目見え以上は、将軍・御台所に謁見できる身分の女中であり、お目見え以下は、謁見できない身分です。ただし、お目見え以下であってもお目見え以上に出世することが可能であることは表役人と変わりません。

 部屋方というのは、お目見え以上の女中に私的に雇われる女中であって、正式な女官ではなく、従って、活動範囲は長局に限られていました

大奥の女中というのは、すべて将軍付女中ではなく、御台所付女中や世子付女中、将軍生母付女中などがおり、基本的には職制は同じですが、将軍付きにはある職制が御台所付きにはないという場合や逆の場合などがありました。

「お目見え以上」の奥女中は、最上位から順に、上臈御年寄(じょうろうおとしより:御上臈)、小上臈御年寄御客会釈(おきゃくあしらい)、中年寄(ちゅうどしより)、御中臈(おちゅうろう)、御小姓御錠口(おじょうぐち)、表使(おもてづかい)、御次(おつぎ)、御右筆(ごゆうひつ)、御切手(おきって)、御伽坊主(おとぎぼうず)、呉服の間(ごふくのま)、御広座敷(おひろざしき)です。
ここまでが、将軍や御台所(みだいどころ)に目通り出来る「お目見え以上」の奥女中です。

上臈御年寄と御年寄を総称して老女といい、給料の他に町屋敷が与えられました。ドラマなどで登場する「大奥総取締」という役職は実際にはなく、基本的に老女が合議によって取り仕切っていたのです。春日局のように大奥総取締に近い役職だと老中と同じくらいの権力を持っていました。

「お目見え以下」は、御三の間(おさんのま)、御仲居(おなかい)、御火の番(おひのばん)、御茶の間(おちゃのま)、御使番(おつかいばん)、御末(おすえ)、御犬子供(おいぬこども)の順になります。
ちなみに、御犬子供は無給の雑用係で、大奥の食べ残しを食べるからそう呼ばれたそうです。

また、あまり知られていませんが、大奥には男性職員もいたということです。大奥の警備や女中の任免などの事務処理を請け負う「広敷役人」です。

大奥女中の職制大奥・御目見得以下

(3)お世継ぎ作り

側室御中臈の中から選ばれ、将軍が気に入った者の名前を御年寄に告げ、その者は将軍の寝所「御小座敷」に待機することになります。

将軍とお相手の布団のすぐ隣には、背中を向けた添い寝役の女中2人が会話の内容を監視しています。

ついたてを挟んで2人の尼さんが更に聞き耳を立てて監視しています。これはお相手が将軍に約束事などを頼まないかを監視しているのです。

寝間を終えた御中臈は「お手つき」と呼ばれて、懐妊して女子を出産すると「お腹様」となり、男子を出産すると「お部屋様」となり正式な側室となります。

30歳を超えた人は「お褥(しとね)禁止」とされて除外されてしまいます。

側室の権力が上るのは自分の生んだ男子が将軍に就任した場合ですが、世子の時はそれほどの権力を有してはいませんでした。

将軍は毎日のように大奥に行っていた訳ではありません。

将軍には公務で徳川歴代将軍の月命日の墓参りがあり、その前日には身を清める意味で大奥への宿泊は禁止されていました。

つまり、江戸時代後期の将軍になると、月の半分ほどしか大奥に行くことが出来ませんでした。

(4)男子禁制の虚実

大奥は、その性格上、男子の出入りに制限があるのは当然です。しかし、一般に牡猫一匹入れないといわれますが、それは誇張しすぎです。

まず、大奥には広敷といわれる一角があり、男性職員が多数詰めています。例えば、御台所の食事などは基本的には、この広敷の台所役人(男性)によって作られるのです。もちろん、この広敷と大奥御殿は自由に出入りができるわけではなく、御広敷御錠口によってのみしか出入りができず、厳重に管理されています。
とはいえ、13代将軍家定(1824年~1858年、将軍在職:1853年~1858年)の御台所に愛猫がおり、姿を消すたびに広敷役人が探しまくったという話もありますから、御用があれば割と出入りしていたのかもしれません。

狭義の意味での大奥(御殿と長局)の男子の出入りについては、享保年間の大奥法度によれば「九歳までの子・兄弟・甥・孫」の呼び寄せが可であり事情によっては1泊のみ認められました
また、御殿内には老中などの表役人が御年寄と対談する「御広座敷」という部屋も用意されていましたし、急病人が出た場合は当然ながら医師が入ることもあったということです。

大奥では旧暦の正月節分に、広敷の御留守居役が年男役を務め、女中に胴上げされたともいい、また、正月七日には、御鏡餅曳きといって餅を舟そりに乗せて御広敷の下男が変装して囃しながら曳き歩く行事もあったということです。

(5)一生奉公の虚実

大奥に奉公に上がると、一生、外の世界に出ることができなかったと思っている方も多いかもしれませんが、大多数の奥女中にとっては、そのようなことはなかったといえます。
ただし、将軍の寵愛を受けた者は終身、江戸城から出ることはありませんでした。将軍が亡くなると桜田の御用屋敷に移り、位牌をいただき亡き将軍の冥福を祈る生活に入るのです。

この時代は、女性が独自に身を立てることは困難でしたが、大奥奉公は立身出世を叶えてくれる場でした。仮に将軍の子を産み、その子が次期将軍に立てられることにでもなれば、自身の栄華は元より親族にまで、その恩恵が及ぶのです
また、将軍の寵愛を受けることがなくても、自身の才覚で御年寄の地位まで極めれば、表への働きかけも可能なほどの権勢も手に入るのです。

もちろん、このような大きな夢を持って大奥に奉公に出るものばかりではなく、多くは、行儀見習、平たく言えば花嫁修業の一環と考えていた者が多かったのでしょう。仮に部屋子として雑用に従事していても大奥に奉公したというだけで一種のステータスが得られたのです。

「ミシュラン三ツ星レストランで修業したシェフ」のようなものでしょう。

さて、彼女たちは、日常、外に出ることが出来たのでしょうか?

まず、お目見え以下の奥女中の場合は、宿下がりといって、規定の日数の間、御年寄の許可があれば外の世界に出ることが許されていました。日数は、奉公3年目に初めて許されて6日の暇を許されました6年目に12日間9年目に16日間でそれ以上は増える事がなかったということです。

非常に厳しいようですが、商家奉公の場合は盆と正月に1日の暇しか与えられない時代にあっては、それほど度を外れた厳しさでもありません。

お目見え以上の女中については詳しくはわかりませんが、御年寄が寛永寺や増上寺に代参したり、大名家に使いに出る場合にお供をする機会があったと思われます。その際に非公式に芝居見物などに興じることがあったということです。

では、最後に将軍代変わりの際、奥女中は総入れ替えで召し放ち(解雇)にならなかったのでしょうか?

やはり、代変わりになれば召し放ちの女中もある程度いたと思われますが、多くは大奥に残り主変えを伴いつつも残留したようです。幕末の大奥の実力者・滝山などは四代の将軍に仕えていますし、大奥最高の役職である上臈御年寄でさえも二代、三代に仕えることが珍しくありませんでした。

(6)守秘義務

大奥奉公に上がる際には、内情を漏らさぬように誓詞(*)血判(今でいう「従業員の守秘義務」)しており、職制が複雑多岐であるため、一人の女中が大奥全体を知ることは不可能に近かったようです。

 事実、明治維新後に旧女中から聞き取りした結果でも細部については統一性を欠いているということです。

(*)奥女中誓詞(一部抜粋)
「一 奥方の儀、御事によらず、外様へ申すまじき事」

3.大奥の歴史

大奥は、2代将軍秀忠(1579年~1632年、在職:1605年~1623年)の時代に設けられ、3代将軍家光(1604年~1651年、在職:1623年~1651年)の乳母であった「春日局(かすがのつぼね)」(本名:斎藤福)(1579年~1643年)によって制度の礎が築かれました。

4代将軍家綱(1641年~1680年、在職:1651年~1680年)の時代に「大奥」という呼称が登場するようになり、5代将軍綱吉(1646年~1709年、在職:1680年~1709年)の時代に「大奥」が定着するようになりました。これは貞享元年(1684年)に御座之間近くで「大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に殺害された事件」(*)で、表と奥の境目が明確化したことによると考えられています。

(*)大老堀田正俊刺殺事件とは

江戸城中で若年寄稲葉正休が従甥堀田正俊を刺殺した事件です。正休自身も同席していた老中・大久保忠朝、阿部正武、戸田忠昌らに斬殺され、稲葉家は改易処分となりました。伯母の孫にあたる正俊を暗殺した理由については不明ですが、前年の淀川の治水工事の役目から外された件もあり、恨みによるものとも言われています。

正俊暗殺に当たって正休は、高名な刀鍛冶に数本の刀を特注し、試し斬りの末に一番出来のよいものを差して登城、邪魔が入りにくいよう御用部屋の入り口まで正俊を呼び出して一突きで殺しました。後の「赤穂事件」に際して「このような手本があるのに浅野長矩吉良義央を仕留め損ねたのは武士として不覚悟も甚だしい」という批評があり、当時の落首にもうたわれていたそうです。



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