徳川綱吉には、「正室」の鷹司信子、「側室」のお伝の方・大典侍の局・新典侍以外にも愛妾がいました。
1.大戸阿久里とは
大戸阿久里(おおとあぐり)(1648年~没年不詳)は、牧野家の譜代の家臣である大戸玄蕃吉勝の娘として生まれました。その後、徳川綱吉の母・桂昌院の侍女となり、桂昌院の指示で牧野成貞と結婚しています。
成貞との間には、寛文7年(1667年)に長女・松子(永井貞清正室)、寛文9年(1669年)に次女・安(牧野成時正室)、寛文11年(1671年)に三女・亀を出産しました。
その後、寛文12年(1672年)ごろ綱吉に見初められ、江戸城・大奥へ入ったようです。阿久里を奪った埋め合わせとして、延宝8年(1680年)に綱吉は2,000石だった成貞を下総国関宿藩主に任命し、成貞は15,000石の大名に出世しました。さらに、成貞は老中と並ぶ扱いを受けるようになり、元禄元年(1688年)には7万3000石に加増されています。
しかし牧野成貞は、「妻を献上して出世した」と陰口を叩かれたそうです。
2.牧野成貞とは
牧野成貞(まきの なりさだ)(1635年~1712年)は、上野館林藩家老、のち五代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主となった人物です。通称は蔵人、兵部、大夢。
越後長岡藩主、三河牧野氏の支族で、成貞系牧野家初代です。
堀田正俊が殿中で殺害されてから、綱吉は老中や若年寄を将軍の居間から遠ざけ、老中との連絡には「側用人(そばようにん)」を置きました。
従来は中奥にあった「御用部屋」で老中たちと将軍が直接顔を合わせながら政務をこなしていましたが、綱吉は「御用部屋」を表に移して老中をここに詰めさせ、老中や若年寄らが将軍に直接口出しする機会を奪いました。それは将軍を諫める者をなくしてしまうことになりました。
最初の「側用人」は館林時代の家老牧野成貞でした。延宝8年(1680)から元禄15年(1702年)までの見聞を歌学者の戸田茂睡(とだもすい)が記録した『御当代記(ごとうだいき)』には、綱吉は寵臣の牧野成貞の屋敷を訪れることがあり、成貞は下総関宿(せきやど)で1万5000石を領する大名に取り立てられて、当初は将軍の御成を身の栄誉と喜んだということです。
成貞と妻阿久里(あぐり)の間には松子、安子、亀子という3人の娘があり、館林時代に家老を務めた黒田直相(くろだなおすけ)の四男直達(なおさと)を次女の安子の婿に迎え、牧野成時(なるとき)を名乗らせて美濃守として叙任もされて、成貞は我が世の春を実感したと思われます。
成貞の妻阿久里は館林家の奥に勤めた評判の美人で、綱吉は若い頃から見知っていたとされます。綱吉は成貞の屋敷へ足繁く通い、阿久里に手を付けたとされ、なおも綱吉の毒牙は娘の安子にまで及び、夫の成時は屈辱に耐えかねて命を絶ったとされています。
成貞は、元禄元年(1688年)には、7万3000石にまで加増されていますが、一切の抗議もせずに耐えました。そんな成貞に桂昌院は「養子を取りなさい」と勧めましたが、成貞は「牧野家は自分一代にしたい」と断り隠居しました。隠居後の成貞に7000石が加増されたので、綱吉も少しは成貞を憐れむ気持ちがあったのでしょう。
結果的に成貞は家臣の大戸吉房(おおどよしふさ)の子を養子とし、成春(なりはる)を名乗らせて関宿藩は継続されていきました。
3. 飯塚染子とは
飯塚染子(いいづかそめこ)(1665年~1705年)は、柳沢家家臣・飯塚正次の娘とされていますが、大納言・正親町三条実久の娘とされる場合もあります。
柳沢吉保生母である了本院の侍女で、吉保が天和元年(1681年)に了本院を江戸へ呼び寄せた際に、侍女として従ってきました。
染子は貞享2年(1685年)頃に吉保の側室となり、貞享4年(1687年)には吉保との間に柳沢吉里が生まれています。
吉保が「自分の愛妾染子を綱吉に差し出した」ともされています。染子は男子吉里(よしさと)を産みますが、染子が大奥に入っていないことで、吉里は吉保の子とされて家を継ぎます。
柳沢家では吉里を「御屋形様」と呼ばせ、将軍の子を強調するように育てました。さらに吉保から献上した側女が、閨房で綱吉に100万石を吉里に与えてくれとねだったとされ、将軍と側室の閨房には女性を添い寝させ、両人の話を聞くという異常な習慣が生まれたともされています。
これとは別の説もあります。 徳川綱豊(後の家宣)との婚儀のため近衛煕子(このえひろこ)が江戸に下向した際、13歳の飯塚染子が従ってきたとの説です。 そこで、綱吉のお手が付き懐妊したため、家臣の柳沢吉保に賜ったということです。
その後、綱吉は58回も柳沢邸に「お成り」(訪問)をしていますが、その目的は染子に逢うためだったとも言われています。
また別の説では、近衛基熙の娘・熙子が京から入輿の際、侍女であった染子を柳沢吉保が秘密裏に仕留め、その後、柳沢邸を訪れた5代将軍・徳川綱吉の目に留まり、愛妾になったという説や、吉保との間に生まれた吉里は綱吉の隠し子である等、諸説あります。
なお染子は吉保と同様に学芸の素養深い人物として知られ、著作に自らの参禅修行を記録した『故紙録』があり、多くの和歌を残しています。 吉保は染子の没後の宝永2年に染子の和歌38首を収めた『染子歌集』を編纂しています。
4. 柳沢吉保とは
牧野成貞の次に側用人となったのが柳沢吉保です。
吉保は館林家では小姓組番衆でしたが、綱吉が将軍になると小納戸役という低い身分に就きました。しかし人の気持ちを素早く察する術に長け、学問好きの綱吉の学問上の弟子になったように抜け目がありませんでした。綱吉に能力を買われて側用人になると1万2000石の大名に昇り、上総国佐貫(さぬき)に封じられました。
柳沢吉保(やなぎさわよしやす)(1659年~1714年)は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣で、老中、甲府藩主です。 刑部 (おさかべ) 左衛門安忠の五男。 初め房安、のち保明、吉保と改名。 通称は主税、弥太郎。
父が当時上野国館林藩主であった綱吉に仕え勘定頭を務めていたので、吉保も年少から小姓組に入りました。 延宝8年(1680年)綱吉が将軍として江戸城西の丸に入ると供奉して小納戸役となり、元禄元年 (1688年)には「側用人」として万石の列に入りました。 綱吉の意をよく解し側近としての能力もあったので、威権は老中を凌ぐほどでした。 同7年老中格、同 11年老中上座を与えられました。
元禄8年(1695)には駒込染井村の前田綱紀(つなのり)の旧邸を拝領し、後にこれが名園の六義園(りくぎえん)になります。吉保はたびたび加増され、宝永元年 (1704年)甲府宰相綱豊(つなとよ)が綱吉の後継に決まると、空いた甲府で15万石にまで駆け上りました。
学問を好み、禅にも明るく、世にいわれるような陰謀家・野心家ではなく、謹直誠実な性格であったとも言われます。幕閣においては政治上の卓越した経綸や施策を残してはいませんが,荻生徂徠を 500石で召しかかえるなど儒者を好遇しました。
元禄15年(1702)12月に、播州赤穂藩の旧臣が高家の吉良(きら)邸に討ち入り、主君のなせなかった吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討った「元禄赤穂事件」では、世論は浪士たちを誉め称え、綱吉も彼らを忠臣と評していました。
しかし吉保は荻生徂徠の理論による「公儀の許しもなく騒動を起こし、法をまぬがれることはできない」ことを主張して、浪士たちに切腹を命ずる裁定を進言しました。これが吉保が唯一、綱吉に対して反対意見を述べたものとされています。
側室の霊樹院染子、正親町町子はともに才媛で、町子の『松陰日記』は名作として知られています。綱吉の死後は致仕して安泰をはかり、江戸駒込の六義園 (りくぎえん) に隠棲しました。子の吉里はのちに大和郡山 15万1千石を領しました。