「人間の運命」の著者・芹沢光治良とは?また彼の「義兄弟」の百武源吾とは?

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芹沢光治良

皆さんは芹沢光治良という作家をご存知でしょうか?

私は高校生の時に姉の本棚にあった芹沢光治良の『人間の運命』を読んで感銘を受けた記憶があります。

ほかにも有名な作品があるのでしょうが、私は『人間の運命』以外の小説は読んでいません。

彼が「義兄弟」の契りを結んだ百武源吾にも興味があって調べてみましたのでご紹介します。

1.芹沢光治良とは

芹沢光治良(せりざわこうじろう)(1896年~1993年)は、静岡県出身の小説家です。

川端康成の後を受けて「日本ペンクラブ会長」(1965年~1974年)の要職に就いています。ちなみに川端康成は1948年から1965年まで「日本ペンクラブ会長」を務めました。

彼は1896年、静岡県楊原(やなぎはら)村(沼津市)に生まれました。父が天理教に入信し、全財産を神に捧(ささ)げたため、叔父夫婦と祖父母に育てられました。世話になった叔父の家も後に天理教会となりました。

1915年沼津中学校(現・静岡県立沼津東高等学校)卒業後、沼津町立男子小学校の代用教員となっています。

他人の援助を受けて、1919年第一高等学校を卒業しました。一高在学中、肋膜と胃弱に悩み、天理教信者に連れられ、兵庫県三木市の井出国子(「天理教二代目教祖」、「播州のおやさま」と呼ばれた霊能者)を訪ねています。

1922年東京帝国大学経済学部を卒業し、農商務省の官吏となり、弁護士で実業家・政治家の藍川清成(*)(1872年~1948年)の二女・金江と結婚しました。

(*)藍川清成(あいかわきよなり)は、岐阜県出身で、東京帝国大学法学部を卒業し、まず弁護士として開業し、政界や実業界に進出しました。政治家としては愛知県議会議員、名古屋市会議員、衆議院議員(当選1回)を歴任しています。実業界では愛知電気鉄道(愛電)社長、名古屋鉄道(名鉄)社長などを務めました。

1925年農商務省を退職し、岳父の援助でフランスに留学し、ソルボンヌ大学経済学部に入学しました。

しかし滞仏中結核にかかってスイスで療養し、1928年に帰国しました。その療養中の体験に基づいた作品『ブルジョア』(1930年)が『改造』の懸賞小説に一等当選し、文壇にデビューしました。

知性と抒情の調和したフランス的な作風で知られ、新興芸術派の有力メンバーとして『明日を逐うて』(1931年)、『椅子(いす)を探す』(1932年)、『橋の手前』(1933年)などを発表しました。

昭和10年代は、戦争の時代を背景にした『愛と死の書』(1939年)、パリを背景に女性の生き方を描いた『巴里(パリ)に死す』(1942年)などの長編小説で注目されました。

この『巴里に死す』というタイトルは、トーマス・マン(1875年~1955年)の『ヴェニスに死す』(1912年)と似ていますね。そう言えば、『人間の運命』もトーマス・マンの『魔の山』(1924年)と同じように結核療養所(サナトリウム)の話が出てきますね。

戦意高揚文学一色の時代に、敢えて異郷での愛と死をメインテーマとする『巴里に死す』を「婦人公論」に1年間連載し、翌1943年中央公論社より刊行しました。読者の評判は高かったのですが、裏で「婦人公論」編集長は軍の検閲係から「戦力増強に資しない」と毎月連載中止を勧告されていました。しかし、編集長は、12月号までそのことを芹沢には告げず、最終回まで連載を続けさせたそうです。

余談ですが、連載中止勧告の矢面に立って尽力した編集長は『巴里に死す』の連載終了後、まもなく召集され、沖縄で戦死しました。芹沢はそのことを自身の責任と感じていたそうです。

第二次世界大戦後は、「日本ペンクラブ」の代表として活躍のかたわら、長編の自伝的大河小説(教養小説)『人間の運命』(1962年~1968年)を完成。代表作が相次いで仏訳され、国際的に知名度の高い作家となりました。

作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家です。

日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受け、後年しばしばノーベル文学賞候補と噂されました。

晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだとの信念により、「神シリーズ」と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描きました。「神シリーズ」(全8巻)は、90歳の1986年から死去の年まで書き続けました。

晩年に「神シリーズ」のようなスピリチュアルな作品を書いたのをどう解釈したらよいのでしょうか?

私の個人的な推測ですが、彼が幼い頃から父母や叔父、兄がのめり込んだ「天理教」という宗教が身近にあったことが、ずっと彼の心の底流にあり、若い頃から中高年までは意識的に距離を置いて冷静さを保って来たものの、死期が近い90代の老年になって「天理教」が再び彼の心に蘇って来たのではないでしょうか?

1993年3月23日、普段通りの原稿執筆の後、午後7時老衰のため東京都中野区の自宅で死去しました。享年96。

2.芹沢光治良の『人間の運命』とは

『人間の運命』は、明治・大正・昭和という 壮大な時間の流れの中に、歴史的事実を背景にして、主人公森次郎をはじめ、様々な人物が登場し、貧困、教育、友情、愛、出会いと別れ、信仰、戦争、再生、 といった人生における根本的な問題が興味深く描かれた、大河小説としての要素、魅力を十二分に備えた作品です。

優しい心根を失わない次郎の姿は、よく耐え忍び、希望をもって生きることの大切さを、私達に教えてくれます。

『人間の運命』は、天理教徒の立場で書かれたのではありません。 むしろ、次郎はその生い立ちゆえ、強い意志をもって、宗教に対して常に批判的であり、懐疑的であり、一定の距離を保って生きるという姿勢を最後まで貫いています。そして、このことが、作品に厚みを持たせ、面白く、魅力的にしています。

この小説は、多少の脚色はあるでしょうが、彼の経歴とほとんど同じ自伝小説です。

生家は裕福な網元でしたが、父親が天理教に入信し、無所有の伝道生活に入ったため、叔父夫婦と祖父母に育てられ、旧制中学卒業後、小学校の代用教員をするなど苦労を重ねますが、一高・東大を経て官僚となります。その後、官僚を辞して財界人の娘と結婚し、岳父の援助でパリのソルボンヌ大学に留学しますが、結核にかかりサナトリウムで療養生活を余儀なくされます。

父親が天理教に入信して全財産をなくし、祖父母にも惨めな生活を余儀なくさせたことや、兄も宗教に凝ったことを見ながら、大塚誠(大塚兵吾がモデル)・菊田勇夫(菊池勇夫がモデル)のような無二の親友や、作家の有島武郎や農商務省の上司の黒石課長(石黒忠篤がモデル)のような恩人などいろいろな人にも助けられて彼は充実した人生を歩みました。

特に印象的なのは、彼と義兄弟の約束を交わした百武源吾(ひゃくたけげんご)海軍大将との交友関係です。「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、普通では考えられない固い信頼関係で結ばれた「義兄弟」です。パリで出会った百武氏はよほど彼に惚れ込んだものとみえます。

私は最初、『人間の運命』というタイトルから、「運命論」のようなものか、「天理教という宗教」に関係するようなものかと思い、とっつきにくく感じました。しかしそれは間違いだとすぐにわかり、引き込まれるように読み進みました。

この本は、ロマン・ロランのジャン・クリストフに匹敵するような、あるいはそれを凌駕するような「教養小説(大河小説)」だと思います。

3.百武源吾とは

百武源吾

百武源吾(ひゃくたけげんご)(1882年~1976年)は、佐賀県出身の海軍大将で、第7代九州帝国大学総長も務めました。兄・三郎と源吾海軍兵学校を首席で卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟です。

作家の芹沢光治良とは特別な交友関係にあり、義兄弟の約束をしています。

明治35年(1903年)海兵卒の第30期。海軍少尉で三笠に乗組み日露戦争(1904年~1905年)に参加しました。

大正4年(1915年)アメリカ駐在となりました。二年間にわたり、アメリカの研究を行った結果、アメリカを仮想敵国とした日本帝国海軍の戦略が無謀であるとの結論に達しました。

大正6年(1917年)帰国し海軍大学校教官となりました。百武中佐の海軍大学校における講義内容は「アメリカ海軍史」でしたが、百武中佐の講義の根本方針は「日本とアメリカは戦うべきではない」でしたので、学生の評判は良くありませんでした。「米国に対して弱腰」と評価され反発されたのです。

大正9年(1920年)12月海軍大学校教官・百武中佐は大佐に進級し、大正10年(1921年)12月第一艦隊配下、第三戦隊所属の二等巡洋艦「多摩」艦長に就任しました。

ちなみに、大正10年12月、源吾の兄、教育本部第二部長・百武三郎海軍少将は、中将に進級し、第三戦隊司令官に就任し、兄が直接の上司となりました。

大正14年(1925年)2月、百武大佐はフランスに出張し、6月国際連盟海軍代表に任命され、12月に海軍少将に進級しました。

このフランスでの国連海軍代表時代の百武大佐が、小説のモデルになっています。百武大佐は、芹沢光治良の小説『人間の運命』に、「黒井閣下」という名前で登場します。黒井は文学や音楽を愛する感性豊かな軍人として描かれています。

芹沢光治良は、百武源吾大将との出会いを、「義兄弟の契り」という随筆でも書いています。芹沢は結婚したばかりの妻を連れて大正14年にパリのソルボンヌ大学に留学していました。

この武人と義兄弟の契りを結んだのは、全く夢のようなことだった。日本大使館から近いホテルに滞在したが、昼と夜の食事を付属の庭園のマロニエの樹陰ですることが、珍しくて楽しかった。ホテルには日本人の泊り客はなかったが、きまって一人の日本人の客がいた。私よりずっと年上の恰幅のいい紳士で、いつも独り食卓で退屈そうに見えた。

と回想しています。

芹沢光治良は朝日新聞の夕刊で、戦後静岡県に隠棲して帰農していた百武の死を知ります。

義兄として充分すぎるほどの誠を尽くしてくれたが、自分は何も孝養できないままに彼岸に送ってしまった悲しみが溢れ、義兄の望んだ仕事をして、天で胸を張って再会したい。

と結んでいます。

大正15年(1926年)2月に帰朝命令を受け、4月に海軍大学校教頭に就任しています。

その後、春日艦長、軍令部参謀、国際連盟海軍代表、第五戦隊司令官などを歴任したのち、昭和6年(1931年)、軍令部次長に就任しました。

翌年(1932年)海軍大学校長に転じ、以後練習艦隊司令官、佐世保鎮守府司令長官、艦政本部長、横須賀鎮守府司令長官を歴任し、昭和12年(1937年)大将に昇進しました。

昭和13年(1938年)軍事参議官を経て昭和17年(1942年)予備役となりました。

昭和20年(1945年)、招かれて九州帝大総長に就任しました。終始日米開戦に反対した良識派の代表ともいえる海軍軍人でした。

太平洋戦争の際、開戦に反対した理性派としても知られています。駐米大使館附武官を務めたことから、米国の国力を知り抜いていました。このために予備役に回され、終戦直前は九大総長を務めるほど、当時の軍人としては非主流の道を歩いたと言われています。

戦後の昭和21年(1946年)浜松市に近い都田村に引きこもり、一介の百姓のおやじとして生きたいと語っていたとおり、それを実行しました。しかし、土地は狭く、住屋も神社の社務所を借りました。当時は恩給もなく、裸一貫の出直しでした。

荒れた土地は、自分ですきやくわを持って耕し、金になるからと豚、蜂の世話をしました。海軍時代の礼服、勲章は明治村に寄付して、思い出話もめったに語りませんでした。近くの人々は『生まれ故郷のわらべ歌を歌って農作業するなど、好々爺でした』と話していたそうです。

昭和51年(1976年)、93歳で死去しました。海軍兵学校30期生187名の最後を飾る大往生でした。

4.「義兄弟」とは

「親の血を引く兄弟よりも 堅い契りの義兄弟・・・♪」という北島三郎の「兄弟仁義」という歌がありますね。

北島三郎 名曲 兄弟仁義

義兄弟(ぎきょうだい、ぎけいてい)」とは、堅い契りにより、血縁のない男性が、兄弟に等しい盟友関係となることである。

任侠や講談の世界でよく登場しますね。洋の東西を問わず類似の概念は見られます。中国では「結誼」や「契兄弟」などと呼ばれ、英語にもblood brotherやsworn brotherなどの言葉があります。

「blood brother(血の兄弟)」とは、「血液の誓いで、お互いに忠誠を誓った(出生による)血縁関係のない2人以上の男性のこと」です。

「sworn brother」も、「義兄弟」「兄弟分」という意味(sworn:宣誓)です。



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