季語「高きに登る」、杜甫の「登高」と島崎藤村の「高楼」(「惜別の歌」の原詩)

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杜甫・登高

1.俳句の季語「高きに登る」

「高きに登る」という珍しい「秋」の季語があります。

これは中国から伝わった重陽の行事の一つです。旧暦九月九日の重陽の節句の日に茱萸(ぐみ)を入れた袋を持ったり、茱萸のなった枝を髪に挿して

今では単に秋に高い所に登ることを詠むようになりました。

<子季語>登高(とうこう)、茱萸の袋、茱萸の酒

<例句>

・菊の酒 醒めて高きに 登りけり(高桑闌更)

・登高や 秋虹たちて 草木濡れ(飯田蛇笏)

・高きに登る 日月星晨 皆西へ(高浜虚子

・行く道の ままに高きに 登りけり(富安風生)

2.杜甫の詩「登高」

「登高」は766年、杜甫(712年~770年)が55歳の時に、夔州きしゅう(現在の重慶)で詠まれた詩で、古来、七言律詩の傑作として名高い詩です。

「登高」は「高いところに登る」という意味ですが、ここでは旧暦の9月9日「重陽の節句」の日の行事を意味していると思われます。この日杜甫は一人で高台に登り、長江の雄大な景色を眺めるとともにおのれの人生を振り返ったのでしょう。

<原文>

風急天高猿嘯哀

渚清沙白鳥飛廻

無辺落木蕭蕭下

不盡長江滾滾来

万里悲秋常作客

百年多病独登台

艱難苦恨繁霜鬢

潦倒新停濁酒杯

<書き下し文>

風急に天高くして猿嘯えんしょう哀し

渚清くすな白くして鳥飛びめぐ

無辺むへん落木らくぼく蕭蕭しょうしょうとしてくだ

不盡ふじん長江滾滾こんこんとしてきた

万里悲秋常にかく

百年多病独り台に登る

艱難かんなんはなはだ恨むはんそうびん

潦倒ろうとう新たにとどだくしゅはい

<現代語訳>

風は強く天は抜けるように青く、猿の鳴き声が哀しげに聞こえてくる

川辺の水は清らかで砂は白く水鳥が飛び交っている

どこまでも続く木々は蕭々と葉を落とし

尽きることのない長江はこんこんと流れてくる

故郷から万里のかなた秋を悲しむ私は常に旅人だった

生涯多病であった私はひとり高台に登る

苦労が多くてすっかり白髪頭になったのが恨めしい

老いぼれて濁り酒も飲めなくなってしまった

3.島崎藤村の詩「高楼(たかどの)」に基づく「惜別の歌」

「遠き別れに たえかねて」が歌い出しの『惜別の歌』(せきべつのうた)は、戦時中(1944年)に作曲された中央大学の学生歌・送別歌・卒業ソングです。

惜別の歌 中央大学学生歌 (Sekibetsu-no-uta Chuo Univ. College Song)

作曲は、当時中央大学の学生であった藤江英輔氏(1925年~2015年)です。歌詞は、島崎藤村の詩集「若菜集」に収録された「高楼(たかどの)」に基づいています。

中央大学と「惜別の歌」の関係については、次のように紹介されています。

「惜別の歌」は私たち中央大学の学生にとっては「蛍の光」に代る
歌とされ 親しい友と別れる時離れがたい心情にかられた時この歌
を唄って別れる慣わしとされている
時・昭和19年の春・自由なる学園中央大学の庭にも戦雲は容赦な
く吹き寄せついに学徒動員の斬が下った 私たちの先輩である中央
大学の学生は長野県は遠く諏訪湖の付近に配属きれ それと時を同
じくして東京のとある女子大生が勤労奉仕をしていた 初めのうち
はただ目を見かわしていたが二人の間に淡い恋心が湧き 清く美し
くそして激しく燃えた
春が過ぎ 夏が過ぎやがて枯葉の吹きずさぶ秋となった頃 上の一
見習士官が二人の間をねたみ 中央大学の学生を千葉県は遠く習志
野の地へ転属を命じた この悲しい知らせを聞いた二人は深い悲し
みにうちひしがれ とある高殿に登って島崎藤村作「若菜集」の一
節より口ずきんだのがこの歌の始まりとされている

島崎藤村の原詩は、嫁に行く姉に妹が別れを告げる内容ですが、「姉」を「友」に差し替えて作曲されました。三番の歌詞にある「くれないの くちびる」や「黒髪」といった表現にその名残が垣間見えます。

その後『惜別の歌』は戦後に「歌声喫茶」を通じて全国へ広まり、昭和36年(1961年)に小林旭の歌でレコード化されました。

この『惜別の歌』の成立の経緯と歌詞の差し替えについて、次のようなエピソードも残されています。

藤江英輔がこの詩に作曲したのは、昭和19年暮れ、太平洋戦争の末期である。当時 中央大学予科生だった藤江は、敗戦間近の暗澹たる時代を、東京板橋にあった陸軍造兵廠に学徒動員され、兵器生産に従事していた。

同じ工場で働く学友達に日々召集令状が届く。再会のかなわぬ遠き別れが次から次へと続く。

この軍需工場に勤労動員されていた中大予科の学生グループに、同じく動員された東京女高師(現・お茶の水女子大)生徒が『若菜集』所収の長詩「高楼」の一節を贈った。ギターの得意な中大生の藤江英輔が、その言葉に盡きせぬ思いを、この詩に託して曲を付した。

それはいつしか出陣学徒を送る歌とな。造兵廠に送られてきた他の大学生・女子学生・旧制中学生もみなこの歌で出陣学徒を送った。

そして、戦後この歌が別れを惜しむ抒情歌として一般化した時、問題があった「高楼」を「惜別の歌」とし、「かなしむなかれ わがあねよ」(原詩)を「わが友よ」に歌い替えていたことである。幸いなことに、藤村の著作権継承者の一人である島崎蓊助と藤江は藤村全集(新潮社)の編集を通して面識があった。蓊助はこの変更を許諾した。以後この歌は中央大学の学生歌として歌い継がれ、また多くの人々に愛唱されるようになった。

惜別の歌 小林旭

<『惜別の歌』の歌詞>

遠き別れに たえかねて
この高殿(たかどの)に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣(ころも)を ととのえよ

別れといえば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目のいろも
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君が優しき なぐさめも
君が楽しき うた声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

<島崎藤村の「高楼(たかどの)」>

わかれゆくひとををしむとこよひより
とほきゆめちにわれやまとはん(別れ行く人を惜しむと今宵より遠き夢路に我や惑はん)

とほきわかれに
たへかねて
このたかどのに
のぼるかな

かなしむなかれ
わがあねよ
たびのころもを
とゝのへよ

わかれといへば
むかしより
このひとのよの
つねなるを

ながるゝみづを
ながむれば
ゆめはづかしき
なみだかな

したへるひとの
もとにゆく
きみのうへこそ
たのしけれ

ふゆやまこえて
きみゆかば
なにをひかりの
わがみぞや

あゝはなとりの
いろにつけ
ねにつけわれを
おもへかし

けふわかれては
いつかまた
あひみるまでの
いのちかも

きみがさやけき
めのいろも
きみくれなゐの
くちびるも

きみがみどりの
くろかみも
またいつかみん
このわかれ

なれがやさしき
なぐさめも
なれがたのしき
うたごゑも

なれがこゝろの
ことのねも
またいつきかん
このわかれ

きみのゆくべき
やまかはは
おつるなみだに
みえわかず

そでのしぐれの
ふゆのひに
きみにおくらん
はなもがな

そでにおほへる
うるはしき
ながかほばせを
あげよかし

ながくれなゐの
かほばせに
ながるゝなみだ
われはぬぐはん



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