神沢杜口(かんざわとこう) 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その9)

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神沢杜口

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第9回は「神沢杜口」です。

1.神沢杜口とは

神沢杜口(かんざわとこう)(1710年~1795年)は、江戸時代中期の随筆家・歴史家・俳人です。通称は与兵衛、諱は貞幹。別号に可々斎、其蜩庵、静坐百六十翁など。

京都町奉行所の与力を務めた後、晩年『翁草』200巻を書き上げました。

彼は宝永7年(1710年)、京都入江家に生まれました。享保4年(1719年)、兄卜志の下で爪木晩山主催の誹諧会を傍聴していたところ、晩山に句を促され、以降琴思や晩山に添削を受けました。

享保5年(1720年)、京都町奉行所与力の神沢弥十郎貞宜の養子となると、俳諧からは離れましたが、享保10年(1725年)春、俳諧仲間柳谷が出来たため、俳諧を再開しています。

後に貞宜の娘と結婚し、与力を継ぎました。元文年間には内裏造営の時向井伊賀守組「与力」として本殿係を務めています。

延享3年(1746年)12月、有名な盗賊・日本左衛門(にっぽんざえもん)(1719年~1747年)(*)の手下・中村左膳を江戸に護送する任務に関わりました。後に「目付」に昇進しています。

(*)日本左衛門は、江戸時代中期の浪人の異名です 。本名は濱島 庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊(強盗団)の一味で、後に自首して獄門となりました。歌舞伎の「白波五人男」の一人である「日本駄右衛門」のモデルです。尾張藩の七里役の子として生まれましたが、若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされています。

現役時代から文筆を好み、北野天満宮松梅院から源氏物語の注釈書の『岷江入楚(みんごうにっそ)』写本を借り、約6年間をかけて書き写しています。

40歳過ぎで病弱を理由に辞職し、婿養子に跡を継がせ、自身は文筆活動に専念しました。

宝暦3年(1753年)に妻を失ってからも、娘一家に迷惑をかけまいとして同居せず、京都各地の借家を転々としました。

天明8年(1788年)1月の天明の大火の時、住所は烏丸通六角にありましたが、岡崎まで避難しました。男手は火役で出払っていて家には女子供しか残っておらず、100巻まで完成していた『翁草』草稿や先祖伝来の家宝をなすすべもなく眼前で焼失しました。

後に実地調査を行い、詳細な被災地図を完成させています。しばらく大坂の知人を頼り、12月京に戻りました。

寛政元年(1789年)夏、大病を患い、1ヵ月後マラリアに罹患し、食事もできない状態になったため、死を覚悟して親族を呼び寄せましたが、幸いにも快復しました。

晩年は聴覚を失いました。寛政5年(1793年)2月には西八条の自宅で、医師で随筆家の橘南谿(たちばななんけい)(1753年~1805年)と面会していますが、寛政7年(1795年)2月11日死去しました。85歳の天寿を全うしました。

前々から「辞世」を残さないことを決め、「辞世とは即ちまよひたゞ死なん」の句を用意していました。墓所は出水通七本松東入ル七番町慈眼寺。法号は可可斎実道無参居士。

2.神沢杜口の老後の過ごし方

貝原益軒の晩年期に生まれた彼は、益軒とは面識がなかったでしょうが、その影響は強く感じられます。

彼は40歳頃に、それまで務めていた京都町奉行所の与力を退職し、娘婿に跡を譲りました。

44歳で妻に先立たれ、末娘の一家との同居を勧められましたが、別々に住んで、時々会うほうが嬉しい心地がすると言って、京都の下町に住み、市井の人となりました。

彼は、この市井の一人暮らしの見聞をもとに、『翁草(おきなぐさ)』200巻を書き上げました。これは江戸時代を知る第一級の史料です。

彼は、家禄の一部を年金のようにして生活費に充てていました。借家での質素な暮らしですが、一人で生きていくのには十分です。

健康については、とにかく、よく歩いたようです。好奇心旺盛に歩き回って、見聞を広めていたのですから、足腰が丈夫でした。

老いても健脚で、80歳になっても一日に5~7里(約20~28キロ)歩けたということです。暇があると、いつ行き倒れてもいいように「迷子札」を付けて旅に出たそうです。現代で言えば「迷子防止用のGPSの位置情報付きスマホを携行」といったところでしょう。

生きがいは、『翁草』の執筆です。ライフワークと定めた著作を世間や家族に煩わされることなく続けることができたのですから、幸せだったでしょう。

彼は健康法として「気を養うべし」と述べています。

・気を養う方法(その1):心の向くまま、紙に書きつけること
自分の思いを文字にすると、気分がすっきりする、といことです。彼は、こう書き残しています。

「暑い日など、寝転びながらいらなくなった紙の裏に心のままに筆を走らせる。
すると気分が晴れやかになり、さわやかになる」

・気を養う方法(その2):ひたすら歩くこと
彼はこう言っています。

「体調がすぐれない人は、気分を安らかにして雑念を払って歩けばよい。これを続ければ、薬を使うよりもはるかに効果がある」

3.『翁草(おきなぐさ)』

(1)『翁草(おきなぐさ)』とは

『翁草(おきなぐさ)』は、神沢杜口の代表的な随筆で、前編・後編をあわせて全200巻もあります。

京都町奉行所の与力を勤めた彼が、曾祖父以来の蔵書や、先行文献、風聞や自身の見聞・体験を元にした、厖大な諸資料からの抜粋・抄写を含む編著です。諸資料からの抄写に彼自身の批評や解説が加えられているものも多くあります。

室町時代末期から寛政3年(1791年)までの約200年間の、歴史的事実・人物、法制・裁判、文学・伝説、宗教・道徳、風俗・地理・経済などが書かれています。

人物の中でも、織田信長や豊臣秀吉、歴代徳川将軍といった天下人・将軍のほか、領主・大名・旗本から戦国武将・兵卒まで、武家が多く描かれています。

ほかにも、皇室や公卿、僧侶や神職、学者・儒者・医者、芸能家・芸術家、茶人、碁打ちに棋士、農民・職人・商人まで、老若男女を問わず、あらゆる階層・地方の人々が登場します。

当時の人物や事件、世相を描いたものとして、多くの人がこの随筆の記載を引用しています。

その内容は、現代のSNSの日記、またはブログに近いものがあり、さしずめ「江戸時代のブロガー (blogger)」とも言えるかもしれません。

(2)『翁草(おきなぐさ)』成立の経緯

明和9年(1772年)4月の序文をもって、前編100巻が成立。彼が74歳の時に抄出本(天明4年(1784年)版)が作られ、後に100巻が作成されましたが、天明8年(1788年)正月の京都の大火(天明の大火)で焼失しました。

その後も編述は続き、寛政3年6月(1791年)、彼が81歳の時に後編100巻が完成しました

『翁草』は写本として成立した後、いくつかの版本も作成されましたが、各本には収録されている話に差異があります。

(3)『翁草(おきなぐさ)』を元にした文学作品

森鴎外は名作『高瀬舟』や、『興津彌五右衛門(おきつやごえもん)の遺書』の素材を本書から得ています。

また菊池寛の『入れ札』も、本書から着想を得たと推定されています。

4.神沢杜口の言葉

・知足(たるをしる)は不足の中に在り

・心常に富貴なり

・生涯皆芝居なり

・若き時より養生が専なり

・胸はるけく、神爽なり

・医者の上手は薬のほかの配剤あり

・のこる世を 其日ぐらしの 舎(やど)り哉

・辞世とは 則迷ひ 唯死なん

・水が流れる、山が動かぬ、あなたのし

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