前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。
第10回は「歌川広重」です。
1.歌川広重とは
歌川広重(うたがわひろしげ)(1797年~1858年)は、江戸時代後期の浮世絵師です。江戸八代洲河岸の火消同心の子として生まれました。姓は安藤氏。画号は一遊斎、一立斎など。
ちなみに彼が生まれた年に、葛飾北斎は37歳で絵師として独立しています。
歌川豊広に学んだほか、狩野派、南画、円山四条派(円山派・四条派)などにも学び、西洋画風をも取り入れた幅広い画風を形成しました。
24歳のとき、彼は同じ火消同心の岡部家の娘と結婚しました。その後、仲次郎を養子として迎え家督を譲ります。1832年に仲次郎が元服したのを機に火消同心の職も仲次郎に譲りました。これで、彼は絵師専業となります。
初め美人画を描きましたが、葛飾北斎に刺激されて風景画に転向します。1831年『東都名所』シリーズを版行、続いて名作『東海道五十三次』(保永堂版)を出し、風景画家としての名声を決定的なものとしました。
彼の代表作といえば『東海道五十三次』ですが、この大作を書いたのは広重が絵師に専念するようになった1832年でした。その後も広重は日本各地の名所を描く名所絵の浮世絵を数多く制作しています。
雪月花に装われた四季の景がしみじみとした旅情とともに描かれる広重の風景版画は、幕末のすさんだ世相の中で安らぎを求める庶民の共感を得ました。『近江(おうみ)八景』『江戸近郊八景』『木曾街道六十九次』『名所江戸百景』などのほか、花鳥画にも名作を残しています。ゴッホやモネなどヨーロッパの画家にも影響を与えました。
1858年、流行の疫病コレラに罹って61年の生涯を閉じました。
歌川広重とその作品『東海道五十三次』については、「東海道五十三次で有名な歌川広重(安藤広重)とはどんな人物だったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ご一読ください。
2.歌川広重の老後の過ごし方
40歳を過ぎてからも、彼は精力的に風景画を描きました。
40歳以降の彼の作品を列挙すると次の通り(カッコ内は発売年)です。
・『本朝名所』(1837年)横大判で15枚揃物
・『曽我物語図絵』(1837年~1848年頃)竪大判で30枚揃物の物語絵、上部を雲形で仕切り絵詞入り
・『江戸近郊八景』(1838年)横大判で8枚揃物
・『東都名所』藤彦版(1838年)
・『江都勝景』(1838年)
・『東都司馬八景』(1839年)横大判で8枚揃物
・『即興かげぼしづくし』(1839年~ 1842年)竪中判の2丁掛で玩具絵
・『和漢朗詠集』(1839年~ 1842年頃)
・『諸芸稽古図絵』(1839年~ 1844年頃)横大判の4丁掛で4枚揃物の玩具絵、子供の稽古事16種を戯画風に描いたもの
・『東海道五拾三次』佐野喜版(1840年)俗に「狂歌東海道」
・『新撰江戸名所』(1840年)
・『東都名所坂づくし』(1840年~1842年頃)
・『東都名所之内隅田川八景』(1840年~1842年頃)
・『日本湊尽』(1840年~1842年頃)
・『参宮道』(1840年~1844年頃)八つ切判で24枚揃物、四日市から二見浦までを描く
・『東海道五十三次』江崎版(1842年)俗に「行書東海道」
・『甲陽猿橋之図』『雪中富士川之図』(1842年)竪大判の竪2枚続、版元は「甲陽」が蔦屋吉蔵、「雪中」が佐野屋喜兵衛、縦長の構図にそそり立つ渓谷の絶壁と猿橋の姿を見上げる構図で描き、遠景の集落と満月が描かれている
・『東海道五十三対』(1843年)三代豊国・国芳との合作
・『諸国嶋づくし』(1843年~1846年頃)団扇絵
・『教訓人間一生貧福両道中の図』(1843年~1847年頃)横3枚続の玩具絵
・『娘諸芸出世双六』(1844年~1848年頃)間判4枚貼りの双六で、ふりだしは学芸の基礎である手習いで上りは御殿の奥方になる
・『小倉擬百人一首』(1846年)100枚揃物で三代豊国・国芳との合作
・『春興手習出精雙六』(1846年)大判2枚貼りの双六で、寺子屋の学習内容と生活風習がテーマ
・『東海道』(1847年)俗に「隷書東海道」
・『東海道五十三図絵』(1847年)俗に「美人東海道」の美人画
・『狂戯芸づくし』(1847年~1848年頃)竪大判の戯画
・『相州江ノ島弁財天開帳参詣群衆之図』(1847年~1852年頃)竪大判の横3枚続
・『江戸名所五性』(1847年~1852年頃)竪大判で5枚揃物の美人画
・『本朝年歴図絵』(1848年~1854年頃)物語絵で、日本書紀に材をとり、古代天皇の時代ごとに、説明文を上部に記し下部に絵を描く
・『東海道張交図会』(1848年~1854年頃)張交絵
・『東都雪見八景』(1850年頃)横大判で8枚揃物
・『伊勢名所二見ヶ浦の図』(1850年頃)竪大判の横3枚続
・『五十三次張交』(1852年)張交絵
・『箱根七湯図会』(1852年)
・『源氏物語五十四帖』(1852年)物語絵
・『五十三次』(1852年)俗に「人物東海道」
・『不二三十六景』(1852年)広重が初めて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれている
・『国尽張交図絵』(1852年)張交絵
・『浄る理町繁花の図』(1852年)竪大判で7枚揃物の戯画、人形浄瑠璃の登場人物を商売人に置き換えている
・『六十余州名所図会』(1853年~1856年)竪大判で70枚揃物
・『双筆七湯廻』(1854年)団扇絵で7枚揃物、三代豊国との合作
・『童戯武者尽』(1854年)戯画
・『東都名所年中行事』(1854年)竪大判で12枚揃物、1年の12か月を扱った
・『双筆五十三次』(1854年~1855年)三代豊国との合作
・『当盛六花撰』(1854年~1858年)竪大判で10枚揃物の役者絵、背景に花が描かれている、三代豊国との合作
・『五十三次名所図絵』(1855年)俗に「竪の東海道」
・『名所江戸百景』(1856年~1859年)竪大判で120枚揃物
・『諸国六玉川』丸久版(1857年)、竪大判で6枚揃物
・『武陽金澤八勝夜景』『阿波鳴門之風景』『木曽路之山川』(1857年)竪大判の横3枚続
・『大山道中張交図会』(1857年~1858年)張交絵
・『山海見立相撲』(1858年)横大判で20枚揃物
・『冨二三十六景』(1859年)、竪大判で37枚揃物、版下絵は1858年4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏で、結果的に最後の作品。版元は蔦屋吉蔵、富士を描いた連作で『名所江戸百景』と同様に風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図の印像
60歳になった彼が挑んだ作品で有名なのが『名所江戸百景』です。タイトル通り100枚以上(実際は119枚)の浮世絵で江戸の四季を描きました。この連作浮世絵は広重の集大成といってもよいでしょう。その翌年、彼は61歳でこの世を去りました。
友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。冒頭の画像)に辞世の歌が遺っています。
東路(あづまじ)へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん
これは「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」という意味です。
3.歌川広重の最晩年の作品『名所江戸百景』
<表紙目録>
<春の部>
(1) 日本橋雪晴
(2)霞がせき(霞が関)
(3)山下町日比谷外さくら田(現在の中央区立泰明小学校付近から北西を望む)
(4)永代橋佃しま(佃島)
(5)両ごく回向院元柳橋(両国回向院)
(6)馬喰町初音の馬場(日本橋馬喰町)
(7)大てんま町木綿店(日本橋大伝馬町)
(8)する賀てふ(左右の商家は現在の三越本店にあたる越後屋)
(9) 筋違内八ツ小路(旧万世橋駅付近)
(10)神田明神曙之景
(11)上野清水堂不忍ノ池
(12)上野山志た
(13)下谷廣小路(手前の商家「いとう松坂屋」は、現在の松坂屋)
(14)日暮里寺院の林泉
(15)日暮里諏訪の台
(16) 千駄木團子坂花屋敷
(17)飛鳥山北の眺望
(18)王子稲荷乃社
(19)王子音無川堰棣 世俗大瀧ト唱
(20)川口のわたし 善光寺
(21)芝愛宕山
(22)廣尾ふる川
(23)目黒千代か池(現在の目黒区目黒1丁目、目黒合同庁舎付近)
(24)目黒新冨士(現在の目黒区中目黒2丁目 別所坂付近)
(25)目黒元不二(現在の目黒区上目黒1丁目 目切坂付近)
(26)八景坂鎧掛松(現在のJR大森駅西口「大森ララ」近傍)
(27)蒲田の梅園
(28)品川御殿やま(御殿山)
(29)砂むら元八まん(砂町)
(30)亀戸梅屋舗
(31) 吾嬬の森連理の梓(現在の墨田区立花1丁目付近)
(32)柳しま(現在の墨田区業平5丁目付近)
(33)四ツ木通用水引ふね
(34)真乳山山谷堀夜景
(35)隅田川水神の森真崎
(36)真崎邊より水神の森内川関屋の里を見る圖
(37)墨田河橋場の渡かわら竈
(38)廓中東雲(吉原遊郭)
(39)吾妻橋金龍山遠望
(40)せき口上水端はせを庵椿やま(椿山荘)
(41)市ヶ谷八幡
(42) 玉川堤の花(現在の新宿御苑新宿門または正門あたりの完成予想図と言われる)
<夏の部>
(43)日本橋江戸ばし
(44)日本橋通一丁目略圖(右に描かれているのは白木屋。現在この地にはコレド日本橋がある)
(45)鎧の渡し 小網町
(46)昌平橋聖堂神田川
(47)王子不動之瀧
(48)赤坂桐畑
(49)赤坂桐畑雨中夕けい(二代目広重作)
(50)増上寺塔赤羽根
(51)佃しま 住吉乃祭
(52)深川萬年橋
(53)大はしあたけの夕立
(54)両国橋大川ばた
(55)浅草川首尾の松御厩河岸
(56)駒形堂吾嬬橋
(57)堀切の花菖蒲
(58)亀戸天神境内
(59)逆井のわたし(現在の亀戸7丁目付近にあった、旧中川の渡し)
(60) 深川八まん山ひらき
(61)中川口
(62)利根川ばらばらまつ(現在の妙見島にあったとされる)
(63) 八ツ見のはし(現在の呉服橋交差点付近)
(64)水道橋駿河台
(65)角筈熊野十二社 俗称十二そう
(66)糀町一丁目山王祭ねり込(麹町)
(67)外桜田弁慶堀糀町(現在の桜田門駅付近から最高裁方面を望む。ここでいう弁慶堀は、現在の桜田濠のこと)
(68)みつまたわかれの渕(現在の中央区日本橋中洲付近の隅田川)
(69)浅草川大川端宮戸川
(70)綾瀬川鐘か渕
(71) 五百羅漢さゞゐ堂(現在の江東区大島3丁目にあった)
(72) 深川三十三間堂(現在の江東区富岡2丁目付近にあった)
(73)はねたのわたし 辨天の社(羽田)
<秋の部>
(74)市中繁栄七夕祭
(75) 大伝馬町こふく店(商家「大文字屋」は現在の大丸)
(76)神田紺屋町
(77)京橋竹がし
(78)鉄砲洲稲荷橋湊神社(現在の中央区女性センター付近)
(79)鉄砲洲築地門跡
(80)芝神明増上寺
(81)金杉橋芝浦(現在の第一京浜と古川の交差地点)
(82)高輪うしまち(現在の泉岳寺駅付近)
(83)月の岬
(84)品川すさき(現在の東品川1丁目 利田神社)
(85) 目黒爺々が茶屋(現在の目黒区三田2丁目 茶屋坂付近)
(86)紀乃国坂赤坂溜池遠景
(87)四ッ谷内藤新宿
(88) 井の頭の池 弁天の社
(89)王子瀧乃川
(90)上野山内月のまつ
(91) 猿わか町よるの景(現在の台東区浅草6丁目付近)
(92)請地秋葉の境内(現在の墨田区向島の秋葉神社)
(93)木母寺内川御前栽畑
(94)にい宿のわたし(現在の葛飾区新宿付近にあった中川の渡し)
(95)真間の紅葉 手古那の社継はし
(96) 鴻の台とね川風景
(97)堀江ねこざね(現在の浦安市猫実、現在の境川河口付近)
(98)小奈木川五本まつ
(99)両国花火
<冬の部>
(100) 浅草金龍山
(101)よし原日本堤
(102)浅草田甫酉の町詣(吉原妓楼より見た風景:背後の森は正燈寺)
(103)蓑輪金杉三河しま
(104) 千住の大はし
(105)小梅堤(現在の押上から曳舟川を見た風景)
(106)御厩河岸(蔵前)
(107)深川木場
(108)深川州崎十万坪
(109)芝うらの風景
(110)南品川鮫洲海岸(現在の東大井一丁目付近。かつては海だった)
(111)千束の池 袈裟懸松(洗足池)
(112) 目黒太鼓橋夕日の岡(現在の下目黒1丁目 行人坂下)
(113) 愛宕下薮小路(現在の西新橋一丁目と虎ノ門一丁目の間の通り)
(114)虎の門外あふひ坂
(115)びくにはし雪中(二代目広重作。現在の銀座一丁目 西銀座ランプ付近)
(116)高田の馬場
(117)高田姿見のはし 俤の橋砂利場
(118)湯しま天神坂上眺望
(119)王子装束ゑの木 大晦日の狐火