雨森芳洲 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その11)

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雨森芳洲

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第11回は「雨森芳洲」です。

1.雨森芳洲とは

雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう(1668年~1755年)は、江戸時代中期の儒学者です。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲・尚絅堂(しょうけいどう)、橘窓(きっそう)、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗りました。

中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通商外交実務にも携わりました。新井白石・室鳩巣ともに朱子学者・木下順庵(1621年~1699年)門下の「木門の十哲」(*)の1人に数えられています。

(*)「木門の十哲(もくもんのじってつ)」は次の10人のことです。

  • 新井白石(あらいはくせき):将軍徳川家宣に仕え、幕政に参与した
  • 室鳩巣(むろきゅうそう):加賀前田家に仕え、のち将軍徳川吉宗の侍講となる
  • 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう):対馬藩に仕えて文教・外交に活躍した
  • 祇園南海(ぎおんなんかい):紀伊藩の儒者
  • 榊原篁洲(さかきばらこうしゅう):紀伊藩の儒者
  • 南部南山(なんぶなんざん):富山藩に仕えた
  • 松浦霞沼(まつうらかしょう):雨森芳洲とともに対馬藩に仕えた
  • 三宅観瀾(みやけかんらん):徳川光圀に招かれて、「大日本史」の編纂に協力した
  • 服部寛斎(はっとりかんさい):甲斐府中藩主徳川綱豊(のちの将軍家宣)の侍講となる
  • 向井滄洲(むかいそうしゅう、向井三省とも):摂津高槻(大阪府)の人。師に従って江戸に行き、室鳩巣(むろ-きゅうそう),新井白石らと交わる

彼は寛文8年(1668年)、近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれました。

延宝7年(1679年)、11歳の頃から京都で医学を学び、貞享2年(1685年)頃、江戸へ出て朱子学者・木下順庵門下に入りました。

同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才で知られ、元禄2年(1689年)、木下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官し、江戸藩邸勤めを経て元禄5年(1692年)に対馬国へ赴任しました。

この間、長崎で中国語を学んだこともあります。

元禄11年(1698年)、「朝鮮方佐役(ちょうせんかたさやく)」(朝鮮担当部補佐役)を拝命し、藩にとって最も重要な朝鮮外交の実務に当たる「家老の補佐役」を務めることとなりました。元禄15年(1702年)、初めて朝鮮の釜山へ渡り、元禄16年(1703年)から同18年(1705年)にかけて釜山の「倭館(わかん)」(通訳、外交官、貿易実務者など、多くの藩士が住んでいた日本人居留地)に滞在して、朝鮮語を学びました。倭館への訪問回数は合わせて七回にのぼっています。

この間に、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集にも協力しています。

彼の言葉によると「命を5年縮める覚悟で昼夜油断なく勤めた」ものでした。また、言葉だけでなく、朝鮮の社会の実情、その習慣、地理、歴史、人情、風俗にも通じなくてはならず、彼の学習は留まるところがありませんでした。

そして「交隣須知(こうりんすち)」という朝鮮語入門書を著わしました。この書は明治初期まで広く活用されたということです。

また、江戸幕府将軍の就任祝いとして派遣される「朝鮮通信使」(朝鮮からの使節団)に、6代・徳川家宣の正徳元年(1711年)と8代・徳川吉宗の享保4年(1719年)の2回、通信使の江戸行に随行しました。

彼は「朝鮮通信使」一行500余名を、2度にわたって対馬から江戸まで案内したのです。その応接にも彼は、「誠信のふれあいが必要であると説き続けました

なお、吉宗の時の使節団の製述官であった申維翰が帰国後に著した『海遊録』に、雨森芳洲活躍の姿が描かれています。

対馬藩の文教や朝鮮外交文書の専門職の「真文役」となりました。

篤実な人格で人々の信頼を獲得し、、熱心に子弟の教育にあたりました。

また、異国を知るためには、まず相手の国の言葉を理解しなければならないという信念があったようで、外交における通訳の重要性を指摘し、その待遇改善と育成にも尽力しました。

2.雨森芳洲の老後の過ごし方

幕府との折衝にも尽力し,徳川家宣の政治顧問となった新井白石と、通信使の待遇や国王号の改変を巡って議論を戦わせ(1711年)、貿易立藩対馬の立場から銀輸出にかかわる経済論争を展開しています(1714年)。

享保5年(1720年)には朝鮮王・景宗の即位を祝賀する対馬藩の使節団に参加して釜山に渡っています

享保6(1721)年、藩内に朝鮮訳官による密貿易事件が起こり、穏便に処理して癒着を図る藩当局に対し、同門の儒者松浦霞沼と共に、以後の密貿易根絶のため厳罰主義を内容とする「潜商議論」で反論しました。

このとき自説を容認されなかったため、「朝鮮方佐役」を辞任し、家督も長男・顕之允に譲って隠居するなどして当局に抵抗、藩政に対しても厳しい態度をもって臨みました。 こうした体験を通じて、真の交流とは何かを問い続けました。

享保12(1727)年、後進の教育のために藩を説得して朝鮮語通詞養成所を対馬府中に創設しました。明治期まで多くの名通詞を輩出させるこの学校では、才智・篤実・学問を備えた通詞育成を理想に、自らの教科書『交隣須知』や当時軽視されていたハングルで書かれた小説を教材に用いるなど、彼独自の教育理念・方法が貫かれています。

また、藩政に関する上申書『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』(1728年)を書いています。『交隣提醒』では「互いに不欺、不争、真実を以て交り候を誠信とは申し候」とする誠信外交の道を説いています。

隠居後は自宅に私塾を設けて著作と教育の日々を過ごしましたが、享保14年(1729年)、対馬藩の裁判(全権特使)として釜山の倭館に赴き、公作米(朝鮮から輸入されていた米穀)の年限更新や各種輸入品の品質問題といった課題について、一年以上にわたる交渉に携わりました。

享保19年(1734年)には対馬藩主の側用人に就任しています。

80歳を過ぎてもなお向学心の衰えることがなく、『古今和歌集』1千遍を誦じ、自らも1万首を目標に詠歌すること余念がありませんでした。

著書に,『天竜院公実録』『朝鮮風俗考』『全一道人』『隣交始末物語』『治要管見』『橘窓茶話』『多波礼具佐』『芳洲詠草』などがあります。

宝暦5年(1755年)、87歳の天寿を全うしました。諡は一得斎芳洲誠清府君。墓は日吉の長寿院にあります。

3.雨森芳洲のエピソード

・彼は様々な外国語に堪能であったことから、とある中国人に「君は多彩な語学に精通しているようだが、なかんずく日本語が最も流暢だ」と冗談交じりに言われたことがあるそうです。

・思想的には「大陸思想(小中華思想)」(*)を持ち、自身が日本人であることを悔やみ「中華の人間として生まれたかった」と漏らした記録が後世に伝わっています。

(*)「大陸思想(小中華思想)」とは、朝鮮で唱えられた中華思想(華夷思想)の一変種であり中華文明圏の中にあって、漢族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想です。自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想である。この「文化」とは儒教文化のことであり、中華文明をいいます。

・当時日本で流行していた男色を、芳洲も嗜んだようです。申維翰は、日本の男色趣味を「奇怪極まる」と眉をしかめ芳洲に苦言を呈した折、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」と逆に諭したということです。

4.雨森芳洲の言葉

・互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わりを、誠信と申し候。

・桜に百年の樹少なく、松に千年の緑多し。繁栄の極むるの家は数世を出でず、質朴を守るの家は百世を保つ。

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