「邪馬台国論争」のそれぞれの説の根拠は何か?

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邪馬台国・東遷

1.邪馬台国論争とは

前に「邪馬台国の謎」についての記事を書きましたが、その中で邪馬台国の所在地についてはいまだに確定しておらず、さまざまな説が唱えられていることをご紹介しました。

これが「邪馬台国論争」と呼ばれるものです。

いまだに論争がある大きな原因が、魏志倭人伝に記された朝鮮半島にある魏の領地・帯方郡から邪馬台国への「行程」の方角・距離が不正確なためです。

厳密に魏志倭人伝の行程通り単純に距離と方角を足していくと、太平洋の真ん中に行き着くそうです。

邪馬台国からの行程

そのため、学者や研究者たちは距離や方角を読み替えるなどの注釈を加えて、いろいろな推理をしてきました。

この論争は、「政治的意図」や「ナショナリズム」が絡んで、学界だけでなく在野研究者も巻き込んだ論争が今も続いています。

これは「正史としての『日本書紀』の信頼性」や、「天皇制の起源」にも影響する古代史論争です。

今回はこれについてわかりやすくご紹介したいと思います。

(1)九州説(筑後山門説)

九州説邪馬台国

江戸時代の政治家で朱子学者の新井白石(1657年~1725年)は「古史通或問」において「大和国説(畿内説)」を説きましたが、後に「外国之事調書」で「筑後山門(ちくごやまと)説」を説きました。

以後、江戸時代から現在まで「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉、松本清張ら)の二つが学界の主流となっています。

ただし「九州説」には、邪馬台国が「移動したとする説」(東遷説)と、「移動しなかったとする説」(畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされたとする説)があります。「東遷説」は邪馬台国が畿内に移動して「ヤマト政権」になったとするものです。

この「東遷説」にも、「この東遷を『神武東征』や『天孫降臨』などの日本神話に結び付ける説」と、「特に記紀神話とは関係ないとする説」の二つのパターンがあります。

なお、「九州説」には、古くから支持されている「筑後山門説」(筑後平野説)のほかに、「福岡平野説」「佐賀平野説(吉野ケ里遺跡説など)」「宇佐説(大分県)」「西都説(宮崎県)」など、ほとんど九州全域にわたって諸説が乱立しています。

(2)畿内説(畿内大和説)

邪馬台国畿内説

「畿内説」には、奈良県桜井市三輪山近くの「纏向(まきむく)遺跡」を邪馬台国の都と比定する説が有力ですが、ほかに「琵琶湖畔説」、「大阪府説」もあります。

江戸時代の国学者の本居宣長(1730年~1801年)は、「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも、「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、「九州の熊襲による偽僭説」を提唱しました。

ちなみに「九州の熊襲による偽僭説」とは、「大和朝廷(邪馬台国)とは全く別でつながることはない王国を想定し、筑紫にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長がいた」とするものです。

(3)四国説

邪馬台国・四国説

これは1970年代後半から注目され始めた新しい説です。

邪馬台国までの道順を表しているとされる魏志倭人伝の「『南至投馬国水行二十日』を経て『南至邪馬台国水行十日陸行一月』」の解釈として、「まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部から四国へ上陸、その後は『畿内説』と同じく南を東と読み替えて、陸路で徳島県にたどり着く」というものです。

(4)出雲説

邪馬台国出雲説

これも近年出てきた説で、出雲大社の存在、数多く存在する古墳や神話の舞台になっていることや、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の発見なども背景にあるようです。

(5)越前説

邪馬台国越前説

継体天皇(450年?~531年)が越前(あるいは近江)の豪族出身で、継体天皇で従来の天皇の系統が大きく変わったということなので、こういう説もありうるのかと思います。

2.私の推理

考古学や古代史の素人ながら、歴史好きの私の推理は次の通りです。

私は「九州説」の「東遷説」が最も説得力があると思います。そして、「この東遷を『神武東征』や『天孫降臨』などの日本神話に結び付ける」説に賛同します。

「古事記」にヤマトタケルノミコト(倭建命/大和武尊)が伊吹山で故郷を想って歌った「倭(やまと)は国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)しという歌があります。これは大和(奈良県)の山々の風景です。

ヤマトタケルノミコトの息子は第14代仲哀天皇でその皇后が神功皇后です。日本書紀の「神功皇后記」において、魏志倭人伝の卑弥呼の記事を引用し、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述していることから、神功皇后が卑弥呼であるとする説もあります。

しかし「三韓征伐」した神功皇后は、「三国史記」や「好太王碑文」などから考えて4世紀に活躍した人物ですから、卑弥呼の後継者・壹與(壱与)に当たるのではないかと私は思います。

この「ヤマト政権(大和政権)」は、元々は九州の邪馬台国を母胎としたものではないかと思います。2~3世紀の頃では、大陸との交渉は九州でないと地理的に無理があります。

「古事記」や「日本書紀」には邪馬台国や卑弥呼の名前は全く出て来ません。「邪馬台国征伐」のような記述はありません。逆に「熊襲征伐」の記述はあります。熊襲は九州南部を根拠地とするヤマト政権に抵抗した豪族(国)です。

「古事記」や「日本書紀」に邪馬台国や卑弥呼の記述がなく、戦前は邪馬台国の研究が禁じられていたことから考えると、卑弥呼や邪馬台国は「皇国史観」にとって「不都合な存在」だったのでしょう。

その理由は、かつて魏に朝貢した邪馬台国や巫女の卑弥呼を前面に出すと、「建国神話」が成り立たなくなり、「神の子」としての天皇の権威や正統性に傷が付くため、卑弥呼の時代のことは天照大御神や神功皇后のような神か神話上の人物にすり替えたのではないかと思います。



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