『蜻蛉日記』の作者の藤原道綱母とは?有能な政治家の夫・兼家と不肖の息子・道綱

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藤原道綱母

日本三大美人」と言えば、小野小町が有名ですが、あと二人は衣通姫と藤原道綱母です。

衣通姫は、伝説上の人物ですが、藤原道綱母は実在の人物で息子は右大臣藤原道綱です。

藤原道綱母は、『蜻蛉日記』の作者として有名ですが、人物像はあまり知られていません。

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そこで今回は、藤原道綱母の人物像と『蜻蛉日記』についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.藤原道綱母について

藤原道綱母・百人一首

(1)藤原道綱母とは

藤原道綱母・家系図

藤原道綱母(ふじわら の みちつな の はは)(936年? ~995年)は、平安時代中期の歌人で、藤原倫寧(ふじわら の ともやす)(?~977年)の娘です。

『尊卑分脈』に「本朝第一美人三人内也(=日本で最も美しい女性三人のうちの一人である)」と書かれていますが、尊卑分脈は間違いも多く根拠は判然としません。なお、『榻鴫暁筆』(室町時代後期)によれば、他の2人は、藤原安宿媛(光明皇后)と藤原明子 (染殿后)です。

彼女は文才と歌才に優れているだけでなく、才色兼備で、男性からの人気もかなり高かったようです。自分に惚れた男の滑稽さを静かに笑いながらも、そのなかで最も熱心だった兼家と結婚しました。

藤原兼家(929年~990年)との間に、一子・藤原道綱(955年~1020年)を儲けました。また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしています。

ところが、彼はどうしようもない浮気者でした。やがて彼女は、家に帰らなくなった夫への嫉妬や、愛人女性に対する怒り、それでも変わらぬ息子への愛などを募らせていきます。

そして彼女は兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』に綴りました。

晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われていますが、詳細は不明です。『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えています。

小倉百人一首では右大将道綱母とされています。

(2)夫の藤原兼家とは

藤原家家系図

藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)(929年~990)は、平安時代中期の公卿で、藤原北家、右大臣・藤原師輔の三男です。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。

息子は、藤原道隆(長男)・道綱(次男)・道兼(三男)・道義(四男)・道長(五男)・兼俊らで、娘は藤原超子(長女、冷泉天皇女御・三条天皇生母)・次女(藤原道綱母の養女)・詮子(三女、円融天皇女御・一条天皇生母)・綏子(四女、三条天皇東宮女御・尚侍)です。

正室は藤原時姫(藤原中正の娘)で、道隆・道兼・道長・超子・詮子を生んでいます。妻は藤原道綱母のほかに5人おり、綏子を生んだ妾(対御方)などもいました。

藤原家と花山天皇の家系図

策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となりました。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また長男・道隆にその地位を譲って世襲を固めました。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重されました。

兄・兼通との激しい確執や、室の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいることでも知られています。

(3)息子の藤原道綱とは

藤原道綱

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藤原道綱(ふじわら の みちつな)(955年~1020年)は、平安中期の公卿で官位は正二位です。妻は源頼光の娘。

正暦2年(991年)参議、6年後に大納言となりましたが、異腹弟の道兼(内大臣)や道長(権大納言)の方が上席でした。

道綱の無能ぶりは世間の知るところで、日記『小右記』で知られる藤原実資(ふじわら の さねすけ)(957年~1046年)から「わずかに名前は書けるが一二を知らない」と貶されています。

晩年「どうしても大臣になりたい」と弟の道長に頼みこんでいるのを知った実資は、「一文不通の人(何も知らない奴)が大臣になったということは聞いたためしがない」と憤慨しており、結局その願いは実現しませんでした。「不肖の息子」だったようですね。

ちなみに「一文不通(いちもんふつう)」とは、「文字の一つも通じない意から、読み書きがまったくできないこと」です。

藤原実資は、官途における競争相手で、道綱のことを「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」などと貶(けな)していますが、そのまま額面通り受け取るのは酷です。

ただし、父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったようです。

母が著した『蜻蛉日記』における道綱に関する記述は、やはり母から見てもおとなし過ぎるおっとりとした性格であると記されていますが、弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が書かれています。

勅撰歌人として『後拾遺和歌集』巻十五雑一に1首、『詞花和歌集』巻七恋上に1首、『新勅撰和歌集』巻十二恋二に1首(『蜻蛉日記』にも掲載)、『玉葉和歌集』巻十二恋四に1首、計4首が入集しています

また、『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えますが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感をもっていたようです。

2.『蜻蛉日記』について

藤原道綱母

(1)『蜻蛉日記』とは

『蜻蛉日記』(かげろうにっき、かげろうのにっき、かげろうにき)は、平安時代の女流日記で上中下の三巻からなり、作者は藤原道綱母です。天暦8年(954年)~ 天延2年(974年)の出来事が書かれており、成立は天延2年(974年)前後と推定されています。

「題名」は、日記の上巻の終わりに「かく年月はつもれど思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば声あらたむるもよろこばしからず。なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という記述があることに由来しています。

トンボのことを漢字で「蜻蛉」と書きますが、「トンボ日記」ではありません。『蜻蛉日記』でいう「かげろふ」は、トンボに似て小さく、細い弱々しい体をしている「蜉蝣」(下の画像)のことです。この虫の飛ぶ姿が、空気が揺らめいてぼんやりと見える「陽炎かげろう」に似ているからとされます。また、はかないもののたとえとされた陽炎が、はかない命のこの虫の名に転用されたという説もあります。

蜉蝣

夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもう一人の妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事があります。

浮気夫の言葉のひとつひとつが、本心ではなく何か誤魔化そうとしていることなどはお見通しです。夫への嫉妬、許しがたい不貞に対する思いが、赤裸々に綴られていきます。

彼女は家柄のよい環境で、現実の厳しさから隔離され、大切に育てられました。だからこそ、ぞんざいな扱いを受けることに慣れていなかったことでしょう。

女心をむき出しにして書き留められていく『蜻蛉日記』ですが、そこには愚痴や憎しみだけが込められているわけではありません。日を追うごとに女性として成長していくさまも感じられます。

女性の葛藤と成長、そして男の狡さと弱さを垣間見ることができます。

歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首あり、中でも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首にとられています。

女流日記のさきがけ」とされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えました。また、自らの心情や経験を客観的に省察する「自照文学の嚆矢」ともされています。

なお兼家に対する恨み言を綴ったもの、ないし復讐のための書とする学者もありますが、国文学者の今西祐一郎九州大学名誉教授は、兼家の和歌を多数収めているので、兼家の協力を得て書いた宣伝の書ではないかという説を唱えています。

(2)『蜻蛉日記』の執筆目的

藤原道綱母は、男女の永遠のテーマともいえる嫉妬や、すれ違う愛への苦悩を、類まれなる文才で綴りました。

満たされない思いを吐き出す場として、蜻蛉日記は書かれたと考えられます。現代ならSNSのブログやツイッターといったところでしょうか?

3.藤原道綱母の和歌

・かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経ふ人ありけり

意味:時は淡々と過ぎ、世の中は相変わらず頼りなく、拠り所もなく、自分はただ暮らす人である

・嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る

意味:あなたがいないことを嘆きながら、ひとり夜を過ごして明けるまでの時間は、どれだけ長いものかおわかりですか?わからないでしょうね。

・鹿の音も聞こえぬ里に住みながら あやしくあはぬ目をも見るかな

意味:鹿の鳴き声も聞こえないような都に住みながら、不思議に眠れない、あなたの目を見れない、逢えないからです。

・きえかへり露もまだひぬ袖のうへに今朝はしぐるる空もわりなし

意味:消え入るような思いで夜を過ごし、涙もまだ乾かない袖の上に、今朝は時雨を降らせるとは、空も遣る瀬ない。

・ふく風につけてもとはむささがにのかよひし道は空にたゆとも

意味:吹く風にことよせて、お手紙を差し上げ、ご挨拶致しましょう。蜘蛛の通り道であった糸はその風によって空中で切れてしまうとしても。

・いかがせむ山のはにだにとどまらで心も空に出でむ月をば

意味:私にどう致せましょう。寝待の月のように、山の端にとどまりはせず、うわの空のご様子で出掛けてゆこうとする貴方を。

・くもりよの月とわが身のゆくすゑのおぼつかなさはいづれまされり

意味:曇った夜空の月と、我が身の行末と、頼りなさはどちらがまさっているのでしょう。

・たえぬるか影だにあらばとふべきを形見の水はみ草ゐにけり

意味:あの人との仲は絶えてしまったのだろうか。せめて水に面影だけでも見えれば、問いただすことができようものを、形見に残していった水には、もう水苔が生えて姿も映らない。

・いつしかもいつしかもとぞまちわたる森の木間(こま)より光みむまを

意味:いつかは、いつかはと待ち続けるのです。森の木の間から神のご威光を拝む時を。

・花にさき実になりかはる世をすてて浮葉の露と我ぞけぬべき

意味:花と咲き、やがて実になろうとする世を捨てて、水に浮く蓮の葉の露さながら私は消えてしまいそうだ。

・ふる雨のあしともおつる涙かなこまかに物を思ひくだけば

意味:雨脚のように絶えず流れ落ちる涙であるよ。くよくよと物を思っていると。

・袖ひつる時をだにこそなげきしか身さへ時雨のふりもゆくかな

意味:昔は袖を濡らしただけでも嘆いたものだが、今は袖のみか我が身そのものが時雨と降って――こうして年老いてゆくのだなあ。

・もろごゑになくべきものを鶯はむつきともまだしらずやあるらむ

意味:声を合わせて泣きたいのに、鶯は正月だとまだ知らずにいるのだろうか。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「光る君へ」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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