ニュートンにも黒歴史があった!ライバルを蹴落とし、晩年は錬金術に没頭!?

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ニュートン

ニュートンと言えば、ペストが大流行した時期にケンブリッジ大学が長期休校になったため故郷に帰り「万有引力の法則」を発見したことで有名な物理学者です。また「微分積分法」を発見した数学者でもあります。

彼は日本で最も有名な科学者の一人ですが、その生涯を辿ると、陰湿なやり方でライバルを蹴落としたり、晩年は錬金術に没頭するなど科学者らしからぬ「黒歴史」もあります。

今回はこれらの「黒歴史」をご紹介したいと思います。

1.ニュートンとは

ニュートンのプリンキピア

アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)(1642年~1727年)は、イギリスの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者です。ちょうど「清教徒革命」(1642年~1649年)が起こった年に生まれています。

彼の三大業績として「万有引力の法則の発見」「ニュートン力学の確立」「微分積分法の発見」があります。

主著は『自然哲学の数学的諸原理』( Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica)(略称「プリンキピア」)(1687年刊行)で、ニュートン力学体系の解説書です。

ケンブリッジ大学卒業後、1669年に母校の数学教授に就任し、1672年に「ロイヤル・ソサエティ(王立協会)」会員となり、1688年には下院議員となっています。1699年には王立造幣局長官に就任し、1705年には自然科学の分野では初めてとなる「ナイト」の称号を授与されています。

余談ですが、「王立協会」と言えば、「科学史上最高の実権主義者」と呼ばれ「ロウソクの科学」で有名なファラデーが低い身分の出身のために、なかなか会員になることができなかった組織です。

2.ニュートンの黒歴史

ニュートンは自然科学分野において著しい功績を残していましたが、それ以外の分野にも熱心に取り組んでいました。こうした事実は、科学者たちが自分たちに都合の悪いと思われた面は隠して、都合のいい面ばかりを強調し、フィクション的ニュートン像を語り続けた結果、20世紀始めには事実がすっかり忘れ去られてしまっていました。

かつての「伝記」によくあった弊害です。

生涯の長い期間をケンブリッジで過ごしたニュートンは、そこに「ポーツマス・コレクション」と呼ばれる数多い未発表資料を残していました。経済学者ジョン・メイナード・ケインズは1936年に一部を入手し、分析した成果もふまえ、1946年に『人間ニュートン』というタイトルの講演を行い、ニュートンを「最後の魔術師とも「片足は中世におき片足は近代科学への途を踏んでいるとも評しました。1960年代には資料の批判的な研究が盛んになり、ニュートンが持つもうひとつの側面が鮮明になりました。

彼は我が強く気難しくて偏屈な一面もあり、議論において意見の合わぬ者は反論の余地すら与えず叩き潰すまで論破したそうです。

「講義があまりに高度で難解なため、お手上げになった学生から順に退散、誰もいなくなった教室で一人講義を続けていた」という逸話や、「生涯で一度だけ笑ったことがあるが、それは論敵がボロを出した嘲りの笑いだった」という逸話が残っています。

(1)ゴットフリート・ライプニッツとの「微分積分法の先取権」をめぐる争い

1660年代にはドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646年~1716年)と「微分積分法の先取権」をめぐって争いが生じ、裁判で25年も争い、さらに双方の弟子・後継者らも巻き込んで、論争は実に18世紀まで続くことになりました。

ライプニッツは、微積分法をニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法(ライプニッツの記法)を与えました。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多いと言われています。

(2)ロバート・フックとの「光の分散と干渉の理論」に関する論争

1672年にはロバート・フックと「光の分散と干渉の理論」に関して論争になりました。

ニュートンは、性能の高い望遠鏡を作ろうとしたことをきっかけに、光の研究を始めました。彼は太陽光をプリズムに通して、虹色のスペクトルを生み出す実験をして、光にはさまざまな色の光が含まれていることを示しました。

太陽光のような白色光(色の付いていない光)は、色の付いた光が重なり合ったものだとわかったのです。

彼は著書「光学」(1704年刊行)の中で、このスペクトルの実験のほかに、「光は粒子である」という説を発表しました。

しかし、彼の「粒子説」では、「光とは何か」という疑問に答えられませんでした。光が粒子だとすると、光が障害物の後ろにも伝わる現象(回折)や、光が重なると強め合ったり弱め合ったりする現象(干渉)の仕組みをうまく説明できなかったのです。

ニュートンと同時代に、「光は波動である」と主張する科学者が現れました。

オランダの数学者・物理学者・天文学者クリスチャン・ホイヘンス(1629年~1695年)は17世紀末に「ホイヘンスの原理」を発表し、「光の波動説」を提唱しました。

イギリスの自然哲学者・建築家・博物学者ロバート・フック(1635年~1703年)も「光の波動説」を唱え、ニュートンが「粒子説」を発表するとすぐに反論し、論争となりました。

余談ですがロバート・フックは、「フックの法則」(バネの伸び縮みの法則)の発見者として有名です。

ニュートンとロバート・フックは、1686年のプリンキピア出版にあたっても、「万有引力のアイディアの先取権」をめぐって対立しました。

(3)ジョン・フラムスティードとの彗星をめぐる論争

1680年にはジョン・フラムスティードと彗星をめぐって論争しました。

これは「1ヵ月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものかという論争」で、イギリスの天文学者ジョン・フラムスティード(1646年~1719年)が観測データにもとづいて同一だとしたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかったというものです

論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したものの、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、のちにロイヤル・ソサエティ(王立協会)の会長の地位についたときなどはその地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとし、またプリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求するときにはフラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりしたそうです。

またフラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになった時には、それを形式的にはニュートンと親交の深かったイギリスの天文学者エドモンド・ハレー(1656年~1742年)の本とし、フラムスティードの名がそれには冠されないようにすることで(『天球図譜』)仕返しを行う、などということもしました。

(4)錬金術師としての顔

ニュートンの錬金術研究

彼は1696年に造幣局に勤務することになって以降は錬金術に没頭し、現代的な意味での「科学的な研究」は行っていません。彼が「科学的な研究」を行ったのは1696年の造幣局入局までの30年あまりだけです。

彼は、あらゆるものを金にすることができる賢者の石を探し求めていたと言われています。

結局、ニュートンは賢者の石を作ることができませんでしたが、ニュートンが錬金術を研究してまとめた資料は現在も残っています。

(5)神学者としての顔

ニュートンの神学研究

彼は神学者として聖書の研究も行っていました。哲学者の側面も持っていた彼は、様々な資料を集めて研究に没頭しています。

そして、彼が研究した結果は「世界は2060年に滅びる」という予言でした。この予言は2003年になって発見され、大きな注目を集めました。

晩年、神学者として『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イングランド国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れて生前には発表しませんでした(1754年刊)。ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものです

ちなみにアタナシウス(295年頃~373年)とは、 初期キリスト教会の教父でアレクサンドリアの司教です。ニカイア公会議でキリストが神そのものではないとするアリウスに対して「三位一体説」を唱え、「正統信仰の父」と呼ばれています。

なおアリウス(250年~336年)とは、アレクサンドリアの司祭で、古代のキリスト教アリウス主義の提唱者です。

「三位一体説(さんみいったいせつ)」とは、「創造神である父なる神、子なる神イエス、聖霊の3者は本来一体であり、絶体神の3つのペルソナ(位格)として現れる」とするキリスト教の教義です。

「アリウス論争」という有名な宗教論争がありました。

「アリウス論争」は318年~319年頃に起こりました。アリウスは、子なるイエス・キリストが生まれた者であれば父なる神と同質ではありえない(ヘテロウシオス、父と子は異質)とするユダヤ教同様の厳格な唯一神教を説きました。

これに対し、主教アレクサンドロス、アタナシオスらニカイア派はキリストの誕生を人間のそれと同一に考えるべきではないとし、父と子は同質(ホモウシオス)とする三位一体論を説きました。

325年のニカイア公会議でアリウスの教えは異端とされ、その際採択された「ニカイア信条」によって、神である父と子であるキリストは同質であることが確認されました。一応の決着は見られましたが、その教えを信奉するアリウス派は多く、その死後もアノモイオス(非類似)派、ホモイオス(類似)派、ホモイウシオス(類似本質)派の三派に分裂しつつも勢力を保ちました。

これらのアリウス派とニカイア信条を擁護するニカイア派の抗争に、宮廷を取りまく政争がからみあい、複雑多岐な宗教政治的紛争が長く続きました

現代の我々から見ても不毛な宗教論争で、このような宗教的な事柄に科学者のニュートンが首を突っ込んでいたとは驚きです。

(6)オカルト研究者としての顔

上記のように天才科学者として世界的に有名なニュートンですが、実はオカルト研究者としての側面を持っていました。

ニュートンは、「錬金術師」として、「賢者の石」(鉛などの非金属を金に変える力があると信じられた物質)と「エリクシール」(不老不死の薬)の発見に力を注いでいたようです。しかし、ニュートンの時代、錬金術の研究の一部は禁止され、不許可の研究を行えば絞首刑の罰則もあったのです。なぜなら、錬金術によって金が作り出されると金の価値が暴落し、経済を混乱させる恐れがあったためでした。それゆえ、ニュートンは錬金術の研究を密かに行っていました。

また、それと同時にニュートンは50年以上かけて聖書の研究をしていました。彼は、聖書に隠された暗号、つまり「バイブル・コードの調査と解釈を行っていたのです。そして、その研究結果を18世紀に書き上げ、ある伯爵の邸宅に「秘密文書」として保管していました。なぜなら、その内容がニュートンの時代のキリスト教社会にとって危険な思想だったからでした。

ニュートンは、「キリストは神の預言者」つまり、人間として捉えていました。その考えは、キリストと聖霊が一体であるとする「三位一体」を唱えた当時のキリスト教に反するものでした。この「秘密文書」は1936年にロンドンのササビーズで競売にかけられ、ユダヤ人学者が落札。その存在が公になったのでした。

やがて、秘密文書はエルサレムにあるヘブライ大図書館が保管しました。ニュートンの死後280年を経た2007年6月、ついにその内容の一部が公開されたのでした。

ニュートンは、聖書のなかで預言書として扱われている旧約聖書の『ダニエル書』新約聖書の『ヨハネ黙示録』を力を注いで研究しました。両書に登場するある数字に注目し、独自の計算方法で、世界の終末は「2060年」と導き出したのでした。

◇『ヨハネ黙示録
「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、42ヶ月の間、活動する権威が与えられる」

「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が1,260日の間養われるように、神の用意された場所があった」

『ヨハネ黙示録』に登場する42ヶ月=1,260日。(ひと月を30日として計算)

◇『ダニエル書
「聖者らは彼の手に渡され、1時期、2時期、半時期がたつ。やがて裁きの座が開かれ、彼らはその権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる」

ニュートンは「1時期、2時期、半時期」を「1年、2年、半年」と解釈。合計で3年半になります。月にすると42ヶ月で、さらに日に換算すると1,260日。

聖書において、「神の1日は人間の1年を当てはめると、1,260年という数字が導き出されるのです。

また、ニュートンは『ダニエル書』に登場する「4つの獣」と『ヨハネ黙示録』に登場する「7つの頭と10本の角がある赤い竜」は同じものと解釈。黙示録にはその他にも「海から上がってくる獣」と「地中から上がってくる獣」が登場します。

「赤い竜」「海の獣」「地中の獣」これらが手を組み、三位一体の教義を取り入れて偶像崇拝する堕落しきったキリスト教と化す。そして、法王の主権が成立したのは西暦800年。

西暦800年に1,260年を足すと2060年になるというわけなのです。

しかし、ニュートンの秘密文書には、2060年に滅びるというよりも、「早ければ2060年に終末を迎えると記されているそうです。ニュートンは2060年以降の出来事について、人類が滅亡するとは明言はしていないのです。

邪悪な国家が滅亡し、全ての苦難から解放される……そして、世界が新た価値観に置き換えられ、神聖なる霊感に目覚め平和な世界に移行する……」

つまり、平和な時代の到来を感じさせる予言をしているのです。

ニュートンは、人々が誤った支配から解放され、正しい信仰に目覚める時代の到来を予言していたのかもしれません。しかし、聖書にも描かれている通り、愛と平和の千年王国の樹立には、ハルマゲドン(新約聖書ヨハネ黙示録で、世界の終末に起こる善と悪との勢力の最後の決戦の場所)を経なければならないのです。



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