明治時代の「お雇い外国人」(その14)ギュスターヴ・E・ボアソナードとは?

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ギュスターヴ・エミール・ボアソナード

幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。

彼らは「お雇い御雇外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。

長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。

当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。

彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。

主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。

そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。

第14回はギュスターヴ・エミール・ボアソナードです。

1.ギュスターヴ・エミール・ボアソナードとは

ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビー(Gustave Émile Boissonade de Fontarabie)(1825年~1910年)は、フランスの法学者・教育者で「お雇い外国人」として日本の近代法体制の形成に大きな貢献をした人物で、1909年に勲一等旭日大綬章を受章しています。

太政官法制局御用掛・元老院御用掛・外務省事務顧問・国際法顧問・法律取調委員会委員など政府諸機関の要職を歴任したほか、司法省明法寮・司法省法学校や、帝国大学(現:東京大学)・東京法学校(現:法政大学)・明治法律学校(現:明治大学)で教鞭を執り、日本法学の草分けとなる多くの法律家を輩出しました。東京法学校では教頭も務めました。

彼は幕末に締結された「不平等条約」による治外法権に代表される不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれています。

行政・外交分野でも日本政府の顧問として幅広く活躍しました。

呼称については、ボワソナード、ボアソナド、ボワソナドとも表記されます。

2.ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの生涯

彼は1825年6月7日パリ近郊のバンセンヌで、著名な古典学者(ギリシャ語の研究)でパリ大学教授のジャン・フランソワ・ボアソナード(1774年~1857年)と貧しい庶民の娘との私生児として生まれました(1856年に認知されています)。

パリ大学法学部を卒業し、1849年パリ控訴院付弁護士に登録。パリ大大学院で論文「夫婦間贈与の歴史」が最優秀賞を受け、1864年グルノーブル大教授となってローマ法の講義を担当し、1867年論文「遺留分」で学士院賞を受けパリ大準教授となりました。

このころ日本では、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた「不平等条約」を対等なものに改正する「条約改正」(関税自主権の回復と治外法権の撤廃)が大きな外交課題となっていました。(ちなみに条約改正は、1894年に外相・陸奥宗光がイギリスとの交渉で治外法権撤廃に成功、その後他の国々とも同様の改正に成功。関税自主権の回復は1911年に外相・小村寿太郎により実現)

不平等条約改正の契機となったのが、1886年に起きた「ノルマントン号事件」(イギリスの貨物船ノルマントン号が沈没し、イギリス人やドイツ人などの西洋人乗組員26人は救命ボートで脱出して全員救助されたのに、日本人乗客25人は救助されず全員死亡した事件)です。

しかし、当時の日本には「近代的な法典がないことがネック」(*)になっており、近代法典の整備が急務でしたが、そのような知識を持った日本人が皆無のため、欧米の学者を招聘する必要があったのです。

(*)西欧諸国が治外法権を主張した理由として、日本などアジア諸国に西洋のような近代的な法律が存在しないということがありました。

1873年(明治6年)、駐仏公使鮫島尚信の依頼で、パリに滞在中の井上毅(いのうえこわし)ら司法省官員に憲法、刑法を講義したことが機縁となり、明治政府から招聘され、同年11月に来日しました。パリ大学教授ポストが当分空かないことも来日決断の理由だったようです。

以後22年の滞在期間中に多方面にわたって貢献し、多くの業績を残しました。

まず、1874年から法律家の養成を目的に司法省法学校でフランス法や自然法論を講義しました。そのほか帝国大学や、東京法学校(のち和仏法律学校)、明治法律学校など草創期の私立法律学校において法学教育に尽力し、卒業後法典編纂や司法実務、法学教育などに活躍する多数の法律家を養成しました。

性法講義

余談ですが、彼の当時の講義は「性法講義」(上の画像)という名称で現在に残されています。「性法」とは聞き慣れない言葉ですが、現在でいう「自然法」のことです。

また、司法省を中心に元老院、外務省、法制局など政府諸機関に顧問として助言や献策を行うとともに、多様な質問に回答を与えました。特に1874年の「台湾出兵事件」や1882年の「壬午(じんご)軍乱」の善後処理のために有益な助言を行い、さらに1887年の外相井上馨(いのうえかおる)の外国人裁判官任用案に反対意見書を提出するなど、外交上や条約改正に貢献しました。

また司法卿に罪刑法定主義や拷問廃止を強く訴え、罪刑法定主義や拷問制度の廃止に尽力しました。主要任務である法典編纂では、まず1876年から刑法、治罪法の草案起草に取り組み、元老院などの審議を経て1880年公布、1882年施行の刑法旧刑治罪法に結実しました。

ついで1879年から草案起草にあたった民法は、フランス民法典(ナポレオン法典)の影響が強いものでしたが、法律取調委員会や元老院、枢密院などの審議を経て1890年公布の民法(旧民法に結実しました。

しかし帝国議会内外で「英法派」や「国粋派」の反対に遭い、「民法典論争」(*)の末、1892年施行延期(実質廃案)が決定されました。ただし、その後梅謙次郎らによって起草された日本民法典には、ボアソナード民法典の影響が見られます。

(*)「民法典論争」とは、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)にかけて、旧民法の施行を延期するか断行するかどうかを巡って「延期派」と「断行派」との間で行われた論争のことです。

民法典論争のきっかけは、民法が公布される以前の1889年5月に「東京大学法学士会」から「民法は天賦人権論に基づき社会の人倫を破壊するものとの反対意見が提出されたことでした。

その内容は、法典編纂を急ぐことを戒めており、緊急に必要なものは単独で法律を制定し、法典全体は草案を一般に広め、批評も考慮して十分に審議をして完成すべきというものでした。

明治初期には国内法を統一することに重きを置いていましたが、この頃には不平等条約の改正が明治政府の第一課題となり、そのために民法典の編纂と成立を急ぐ姿勢が見られました。こうした政府のやり方に批判が上がったことが論争の始まりだったのです。

そして、民法典の施行延期を主張する穂積八束らの「延期派」(国粋派)と施行断行を主張する梅謙次郎らの「断行派」の間で激しい論争が繰広げられました。

ボアソナードは、「延期派」の意見に対し「日本古来の家族制度に多少の変更を加えただけである」と反論しました。また、「日本が西欧諸国に対して、対等に条約改正をするには国内の法律を確立する必要があり、法典編纂をむやみに延期するのはどうか」との意見も出しています。

これは、梅謙次郎の意見とほぼ同じで、梅も「まずは法律を施行して修正すべきところは後日修正すればよい」というものでした。

穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と論じ、論争は「延期派の勝利」に終り、1892年の帝国議会は施行を延期することを可決しました。

これを受けて日本人起草委員(穂積陳重・梅謙次郎・富井政章)のみによって、これに代る民法典 の編纂事業が行われることになりました。

ちなみに、日本人起草委員の穂積陳重は「英法派・延期派」、梅謙次郎は「仏法派・断行派」、富井政章は「仏法派・延期派」でした。

同時に商法典論争も行われ、論争は「自由主義」と「国家主義」の思想対立に発展し、「フランス法学派」と「イギリス法学派」の抗争もからんで紛糾。1892年の議会で商法・民法施行延期法案が通り、1896年まで延期となりました。

論争の対象となったのは、「財産法」と「家族法」でした。「財産法」は「お雇い外国人」のフランス人法学者ボアソナードが起草し、「家族法」は磯部四郎をはじめとする日本人学者が起草しました。

この旧民法が日本の伝統的な儒教の思想である忠孝を排除して、フランス流個人主義を基にしているということが、日本の現実と合わないと批判が上がったのです。

フランス民事訴訟法を基礎とした民事訴訟法典の起草にも努力しましたが、ヘルマン・テッヒョー起草のドイツ法的法典が採択されました。

1895年失意のうちに帰国し、南仏アンティーブで1910年6月27日85歳の生涯を閉じた。墓地もアンティーブにあります。

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