山本常朝 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その18)

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山本常朝

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に江引き続いて戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第18回は「山本常朝」です。

1.山本常朝とは

山本常朝(やまもと つねとも)(1659年~1719年)は、江戸時代の武士で、佐賀藩士です。『葉隠の口述者として有名です。通称は不携(ふけい)、市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門(じんえもん)。俳号は古丸。

「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じました。

彼は万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路(現在の佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩士山本神右衛門重澄の次男として生まれました。母は前田作左衛門の娘。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳の時の子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思いましたが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき、佐賀藩2代藩主・鍋島光茂(1632年~1700年)の御側小僧(おそばこぞう)として仕えました。

11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改めました。

延宝6年(1678年)元服して権之允と改名、御側役(おそばやく)として御書物役手伝に従事します。この年に、後に『葉隠』の筆記者となる田代陣基(たしろつらもと)(1678年~1748年)が生まれています。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けましたが、彼が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となりました。

失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然(たんねん)和尚(?~1680年)に仏道を学び、21歳のときに仏法の血脈(けちみゃく)(師から弟子に法灯が受け継がれること)と下炬念誦(あこねんじゅ)(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けています。

『葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたようです。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ、藩随一の学者と言われながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎(いしだいってい)(1629年~1694年)を度々訪れて薫陶を受けました。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えています。

天和2年(1682年)6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられています。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられ、命により親の名“神右衛門”を襲名しました。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教からの古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得るために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走しました。

古今伝授のすべてを授かることは容易ではありませんでしたが、元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこしました。

2.山本常朝の老後の過ごし方

彼は戦乱の世から50年以上後に生まれましたが、「命を懸けて戦った昔の武士への憧れに似たノスタルジー」を持っていたようです。

元禄13年(1700年)5月16日、藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で担う」の心意気で側近として仕えた彼は、追腹(おいばら)禁止により「殉死」もならず、願い出て出家しました。

5月19日に藩主の菩提寺である曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めました。

7月初旬に佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町)黒土原に「朝陽軒」という草庵を結び、「尋ね入る法(のり)の道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲しました。「分け入りてまだ住みなれぬ深山辺(みやまべ)に影むつまじき秋の夜の月」もその頃の歌です。

ゆえあって3代藩主綱茂の祐筆(ゆうひつ)役を免ぜられた田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年)3月5日のことで、『葉隠』の語りと筆記が始まりました。

後に、「朝陽軒」は「宗寿庵」となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住みました。

正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、後の佐賀藩5代藩主・鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈しました。

享保元年(1716年)9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を終えました。

彼彼には他に、養子の常俊(つねとし)に与えた『愚見集』『餞別(せんべつ)』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述があります。

山居すること20年、享保4年(1719年)10月10日、60歳で没しました。翌日、庵前において野焼、墓所は八戸龍雲寺。

辞世の歌:重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵 虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを

3.『葉隠』とは

『葉隠』については「葉隠(はがくれ)・葉隠武士道とは?わかりやすくご紹介します」という記事に詳しく書いていますので、ご一読ください。

4.山本常朝の言葉

・毎朝、毎夕、改めては死ぬ死ぬと、常往死身に成っているときは、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり

・凡そ二つ一つの場合に、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわりて進むなり

・若し図にあたらぬとき、犬死などと云ふは、上方風の打ち上がりたる武道なるべし。二つ一つの場合に、図にあたることのわかることは、到底出来ざることなり。我れ人共に、等しく生きる方が、万々望むかたなれば、其の好むかたに理がつくべし

・武士は、仮にも弱気のことを云ふまじ、すまじと、兼々心がくべき事なり

・武士道においておくれ取り申すまじき事

・武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり

・士は食はねども高楊子、内は犬の皮、外は虎の皮

・礼にて腰は折れず、敬語で筆は磨り減らぬ

・分別も久しくすれば寝まる

・芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず

・武士たるものは、武道を心掛くるべきこと、珍からしからずといへども、皆な人油断と見えたり。其の仔細は、武道の大意は、何と御心得候か、と問ひかけられたるとき、言下に答へ得る人稀なり。そは平素、胸におちつきなき故なり。さては、武道不心がけのこと、知られ申し候。油断千万のことなり

・さては世が末になり、男の気おとろへ、女同前になり候事と存じ候。口のさきの上手にて物をすまし、少しも骨骨とある事はよけて通り候。若き衆心得有りたき事なり

・私なく案ずる時は、不思議の知恵も出づるなり

・今の世を、百年も以前のよき風になしたく候ても成らざる事なり。されば、その時代々々にて、よき様にするが肝要なり

・凛とした気持ちでいれば、七呼吸の間に判断がついてしまうものである

・人に意見をして疵(きず)を直すと云ふは大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候

・盛衰を以て、人の善悪は沙汰されぬ事なり

・酒盛の様子はいこうあるべき事なり。心を附けてみるに、大方飲むばかりなり。酒というものは、打ち上がり綺麗にてこそ酒にてあれ、気が附かねばいやしく見ゆるなり。大方、人の心入れ、たけだけも見ゆるものなり。公界物なり

・端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり

・酒に酔ひたる時一向に理屈を言ふべからず。酔いたるときは早く寝たるがよきなり

・勝茂公兼々御意なされ候には、奉公人は四通りあるものなり。急だらり、だらり急、急々、だらりだらりなり

・大事の思案は軽く、小事の思案は重く

・大難大変に逢うても動転せぬといふは、まだしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり

・勝(かつ)といふは、味方に勝事也。味方に勝といふは、我に勝事也。我に勝といふは、気を以(もって)、体(たい)に勝事也

・大慈悲を起こし人の為になるべき事

・先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を呑む様に 請け合わせ疵直るが意見なり

・志の低い男は、目の付け所が低い

・世に教訓をする人は多し、教訓を悦ぶ人はすくなし。まして教訓に従ふ人は稀(まれ)なり。年三十も越したる者は、教訓する人もなし。教訓の道ふさがりて、我儘(わがまま)なる故、一生非を重ね、愚を増して、すたるなり

・徳ある人は、胸中にゆるりとしたる所がありて、物毎いそがしきことなし。小人は、静かなる所なく当り合ひ候て、がたつき廻り候なり

・礼儀を乱さず、へり下りて、我が為には悪しくとも、人の為によき様にすれば、いつも初会の様にて、仲悪くなることなし

・何様(なによう)の能事(のうじ)持ちたりとて、人の好かぬ者は役に立たず

・少し理屈などを合点したる者は、やがて高慢して、一ふり者と云はれては悦び、我今の世間に合はぬ生れつきなどと云ひて、我が上あらじと思ふは、天罰あるべきなり

・兼好・西行などは、腰ぬけ、すくたれ者なり。武士業(わざ)がならぬ故、抜け風をこしらへたるものなり

・親に孝行仕るべき事

・『只今がその時』、『その時が只今』、つまり、いざという時と平常とは同じことである

・只今の一念より外はこれなく候。一念々々と重ねて一生なり

・貴となく、賤となく、少となく、悟りても死、迷うても死

・五十ばかりより、そろそろ仕上げたるがよきなり

人間一生誠に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚(おろか)なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり

<現代語訳>人間の一生などは、ほんとうに短いものだ。だから好きなことをして暮らすのがよい。つかの間ともいえるこの世において、いやなことばかりして苦労するなんて愚かなことだ。だが、このことは、悪く解釈すると害になるので、若い人たちにはついに教えることのなかった「人生の秘伝」といったものだ

この最後の言葉は、72歳になった私が一番痛切に共感を覚えるものです。これは陶淵明の考え方に通じるものです。ご参考までに次にご紹介します。

一度しかない短い人生なので「若い時に楽しむこと」を勧めたのが陶淵明(365年~427年)です。

盛年重ねて来らず。一日再び晨(あした)なり難し。

時に及んでまさに勉励すべし。歳月人を待たず。

これは、陶淵明の「雑詩」で、一般には「勧学詩」と思われています。

しかし、私は高校生の時、漢文の先生から、「この詩は、実は勉強を奨励するものではなく、若い盛りの時代は二度と来ない。だから大いに遊んで人生を楽しもうという内容です。それは、人口に膾炙している上記の「最後の四句」ではなく、その前の「八句」を読めばわかります。」と教えられ、衝撃を受けた覚えがあります。

人生根帯(こんたい)なく 飄として陌上(はくじょう)の塵の如し

分散して風を追うて転じ これすでに常の身にあらず

地に落ちては兄弟となる なんぞ必ずしも骨肉の親のみならんや

歓を得ればまさに楽しみをなすべく 斗酒比隣を集めん

現代語訳すると、次のようなものになるのだそうです。

「人生は、木の根や果実のへたのようなしっかりした拠り所がない。まるであてもなく舞い上がる路上の塵のようなものだ。

風のまにまに吹き散らされて、もとの身を保つこともおぼつかない。

そんな人生だ。みんな兄弟のようなもの。骨肉にのみこだわる必要はないのだ。

うれしい時は大いに楽しみ騒ごう。酒をたっぷり用意して、近所の仲間と飲みまくるのだ。

血気盛んな時期は、二度とは戻ってこないのだぞ。一日に二度目の朝はないのだ。

楽しめるときは、とことん楽しもう!歳月は人を待ってはくれないのだから!」

このように、「書物や詩などを引用する時などに、その一部分だけを取り出して、自分の都合のいいように変な解釈をこじつけること」を「断章取義」と言います。日本の野党が政府与党の発言の一部を切り取って曲解することがよくありますが、あれも「断章取義」です。

陶淵明と言えば、役人を辞めて故郷に帰り、田園生活を謳歌していることを詠った「帰去来の辞」で有名です。

しかし今考えると、忘憂の物(酒)を主題とした「飲酒二十首」や、「桃花源記」のような「理想郷」を詠んだ詩人なので、前半八句のような考え方を持っていたとしても、何の不思議もありませんね。

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