「古典から着想を得た歌詞」は意外に多い!

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さだまさし

前に谷村新司の「昴」の歌詞が、石川啄木の「悲しき玩具」から着想を得たものであることをご紹介する記事を書きましたが、ほかにも源氏物語などの「古典から着想を得た歌詞」の歌があります。

今回はそのような歌をいくつかご紹介します。

1.「花」

【滝廉太郎】 花

「花」は、武島羽衣作詞・瀧廉太郎作曲で1900年に発表された歌曲集(組歌)「四季」の第一曲です。

(1)春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が

櫂のしずくも 花と散る ながめを何に たとうべき

(2)見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う 桜木を

見ずや夕ぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳を

(3)錦おりなす 長堤に 暮るればのぼる おぼろ月

げに一刻も 千金の ながめを何に たとうべき

1番の歌詞は、紫式部の「源氏物語」の第24帖「胡蝶」にある和歌「春の日のうららにさして行く船は棹の雫も花ぞ散りける」を踏まえたものです。

2番の歌詞の「桜」「青柳」も「胡蝶」に出ており、「あけぼの」に近い「朝ぼらけ」、「夕ぐれ」に近い「暮れ」もあります。3番の歌詞にある「錦」も同様に出ています。

3番の全体の歌詞は、中国の蘇軾の詩「春夜」の一節「春宵一刻値千金」からの着想です。

そういう意味で、この歌は武島羽衣のオリジナルの着想ではありません。しかしそうかといって古人の詩を模倣した、あるいは盗作したというのは言い過ぎだと思います。彼の古典の教養から発想を飛ばしたもので、瀧廉太郎の美しいメロディーと共に現代の我々に親しみやすい愛唱歌を残してくれたことに感謝したいと思います。

武島羽衣

ちなみに作詞者の武島羽衣(たけしまはごろも)(1872年~1967年)(本名:武島又次郎)(上の写真)は、国文学者で、歌人・詩人でもあります。 1896年東京大学国文学科を卒業し、大学院に進みました。

東京音楽学校教授や日本女子大学教授を歴任し、 1922~46年御歌所寄人 (よりゅうど) を務めました。唱歌『美しき天然』 (1900年) の作詞者で、赤門派の詩人、美文家として知られましたが、古典主義的傾向が強くあります。

2.「朧月夜」

文部省唱歌 朧月夜

「朧月夜」は、高野辰之作詞・岡野貞一作曲で1914年に発表された小学唱歌です。

菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ
見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し

里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路(こみち)を たどる人も
蛙(かわず)のなくねも かねの音も
さながら霞(かす)める 朧(おぼろ)月夜

この歌詞は、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という俳句に着想を得たものと思われます。

高野辰之

ちなみに、高野辰之(1876年~1947年)は、実家が長野県の豪農の国文学者・作詞家です。

1897年に長野県尋常師範学校を卒業後、1899年に上京して東京帝国大学の上田萬年教授に師事して国文学を学んでいます。

1904年に文部省吏員となり、国定小学読本編纂委員を務めた後、東京帝大講師(日本演劇史)・東京音楽学校教授・大正大学教授を歴任しています。

また1925年、49歳の時に「日本歌謡史」の研究で東京帝大から文学博士号を授与されています。

彼は文部省在職中に「文部省唱歌」を数多く作詞しました。「故郷(ふるさと)」「春の小川」「朧月夜(おぼろづきよ)」「紅葉(もみじ)」「春が来た」などです。しかし「文部省唱歌」については、編纂委員会の合議で作詞・作曲されたことと、国が作った歌ということを強調するためもあり(著作権は文部省)、当時文部省は作詞者・作曲者に高額の報酬を支払う代わりに名前は一切出さず、作者本人も口外しないという契約を交わしたそうです。

そのため、文部省編「尋常小学唱歌」は当初、作詞者・作曲者の名前が伏せられていました。

3.さだまさしの「まほろば」

母をたたえるコンサート さだまさし  まほろば

「まほろば」の中に「例えば君は待つと 黒髪に霜の降る迄」という歌詞があります。これは、万葉集巻二にある磐船皇后の「居(ゐ)明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも」をモチーフにしています。

4.さだまさしの「防人の詩(さきもりのうた)」

さだまさし 防人の詩

「防人の詩」の中の「海は死にますか 山は死にますか」という有名なフレーズは、万葉集巻十六にある「詠み人知らず」の「鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ」に着想を得ています。

5.松崎しげるの「愛のメモリー」

松崎しげる 愛のメモリー

たかたかし作詞・馬飼野康二作曲の「愛のメモリー」は松崎しげるの最大のヒット曲ですが、この歌は結婚の喜びを詠った万葉集の歌にインスピレーションを得て作られたそうです。

万葉集巻二に「内大臣藤原卿の采女安見児(うねめやすみこ)を娶(ま)きし時に作れる」として「われもはや 安見児得たり 皆人の 得難(えかて)にすとふ 安見児得たり」という歌があります。

これは「藤原鎌足」が天皇の女官の采女の中から、とびきり美しかった安見児を娶(めと)ることができた喜びを率直に詠んだ歌です。

「愛のメモリー」という歌は、松崎しげるがスペインのマジョルカ島で開かれた「マジョルカ音楽祭」に参加するために書き下ろした曲です。

スペインだから「情熱的なラブソングにしたい」と馬飼野康二に作曲を依頼(これを「メロ先」と言うそうです)し、後からたかたかしが歌詞を付けたものです。

締め切りは翌日という切羽詰まった中で、たかたかしは万葉集を手に取って、上の安見児の歌からインスピレーションを得て一夜で書き上げたそうです。

たかたかし

ちなみに、たかたかし(1934年~ )(本名:高橋 広雄)(上の写真)は、立教大学文学部中退後、北海道に渡り、業界新聞記者、セールスマン、興信所調査員、ルポライターなどを経験しましたが、青島幸男と知り合ったことが契機となり、以後放送作家として各種音楽番組を手がけながら、作詞家となりました。

作詞活動は1967年から美川憲一の「ネオン化粧」でデビューし、 西城秀樹「情熱の嵐」、松崎しげる「愛のメモリー」等、ヒット曲を世に送り出しました。

6.本歌取り

歌学用語に「本歌取り」というのがあります。典拠のしっかりした古歌(本歌)の一部を取って新たな歌を詠み、本歌を連想させて歌に膨らみを持たせる技法です。

「万葉集」「古今集」でもこれに類する方法が行われていましたが、平安時代末期、藤原俊成の頃からは意識的に行われるようになりました。

本歌取りの例として藤原定家(藤原俊成の次男で小倉百人一首の選者)の次の歌が「新古今集」にあります。

「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」

これの本歌は、万葉集の次の歌です。

「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」

上の1~4に挙げた例は、「現代の本歌取り」と言えるかもしれません。



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