ラファエロは若死にしたが、工房システムとローマ教皇の庇護で大量の作品を残す

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ラファエロ自画像

フランス革命前後に活躍したダヴィッドやその弟子のアングルにも大きな影響を与えたと言われているルネサンス期を代表する画家の一人であるラファエロとは、どのような人物でどんな人生を送ったのでしょうか?

1.ラファエロとは

ラファエロ・サンティ(1483年~1520年)は、「盛期ルネサンス」(*)を代表するイタリアの画家・建築家です。

(*)「盛期ルネサンス」とは、美術史において、イタリアルネサンス芸術の最盛期(1450年~1527年)を指す言葉です。前期はフィレンツェのメディチ家の庇護を受けたフィレンツェ派が活躍した時期で、後期はローマ教皇ユリウス2世が芸術家たちのパトロンとなった時期です。このユリウス2世やレオ10世(メディチ家出身)は「ルネサンス教皇」と呼ばれます。

彼の作品は、その明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う「新プラトン主義」を美術作品に昇華したとして高く評価され、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、「盛期ルネサンスの三大巨匠」と呼ばれています。

彼は37歳の若さで亡くなりましたが、膨大な数の作品を残しました。その秘密は「大規模な工房経営」にありました。今で言えば「スタジオジブリ」や「京都アニメーション」のようなもので、ローマでの活動時代初期に描かれた作品の多くは、デザインこそ彼のものですが、下絵以外の大部分は工房の職人が手掛けたもので、彼自身が最後まで手掛けたものより品質の面で劣ると言われています。

「協同作業」という意味では、日本の「浮世絵」にも絵師(作画)・彫師(原版彫)・摺師(印刷)という分業体制がありました。喜多川歌麿・葛飾北斎などの絵師は有名ですが、彫師・摺師は無名の職人たちです。

また東大寺南大門にある「金剛力士像」も、運慶・快慶のもとで多くの仏師が作業に参加して完成したものです。

(1)生い立ちと少年時代

彼は中央イタリアの都市国家ウルビーノ公国に、宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの息子として生まれました。

ウルビーノ公国は小国ですが、歴代君主が芸術家や文人を庇護したためウルビーノ宮廷は高い文化的水準を有し、美術史上重要な国です。

彼は画家であった父に絵画を学びましたが、幼少のころから芸術の才能を見せ、宮廷画家だった父の「大きな手助け」になるほどだったそうです。下の画像は10歳代の頃に描かれた彼の自画像デッサンですが、すでに優れた才能の片鱗を見せていますね。

ラファエロ10代の自画像

彼もウルビーノ宮廷によく顔を出し、上流階級との交際も巧みだったようです。

しかし1494年、彼が11歳の時に父が亡くなったため、その後は伯父で聖職者のバルトロメオが後見人となりました。

父の死後も、宮廷画家であった父の「工房」は存続しており、幼少の彼も「工房」の経営に何らかの役割を果たしていたようです。なお、1495年に彼の父の跡を継いで宮廷画家となったティモテオ・ヴィティのもとで画家修業を積んだとする説もあります。

(2)徒弟時代

1500年頃には画家ペルジーノ(1445年~1523年)の「工房」で助手のような立場になっていたようです。

彼が徒弟期間を終えて「マスター(マイスター)」として登録されたのは、1501年のことです。

彼の初期作品には明らかにペルジーノの影響があり、「おそらくラファエロほどに師ペルジーノの教えを吸収できる才能を持った弟子はいなかった」と言われています。

ペルジーノは十代の彼をフレスコ装飾の助手として参加させるなど、彼の画風の形成に大きな役割を果たしました。

その後各地の教会からの依頼で絵画を制作しています。彼は画家としてのキャリア初期から絵画制作注文を多く受けています。

(3)放浪とフィレンツェでの長期滞在

ローマに落ち着くまでの彼は、北イタリアのさまざまな都市で絵画を手掛け、放浪生活を送りました。

1504年にはフィレンツェに赴いて1508年まで長期滞在し、巨匠たちの作品から学び、「大公の聖母」などを描いて名声を博しています。

(4)ローマに定住し2人の教皇の手厚い後援を受ける

1508年にローマに移り、ローマ教皇ユリウス2世やレオ10世(メディチ家出身)の手厚い後援を受け、ヴァチカン市国のヴァチカン宮殿に多くの作品を残しました。

彼がローマに移ったのは、ローマ教皇ユリウス2世からの招きによるものですが、この招きは、当時サンピエトロ大聖堂の建築を任されていた建築家ドナト・ブラマンテ(彼の遠縁にあたる)の推挙によるものだったようです。

私が最も印象に残っている作品は、「小椅子の聖母」ですが、その他の作品もキリスト教関係が多いのは、ヨーロッパがキリスト教社会であることはもちろんですが、ローマ教皇の庇護を受けていたことが最大の理由だと思います。

ローマ教皇ユリウス2世とレオ10世の肖像画も描いていたのは、今回調べてみて初めて知りました。

2.ラファエロの主要な作品

(1)ウルビーノで活動していたキャリア初期の作品

①「モンドの磔刑図」(1502~1503年)

モンドの磔刑図

②「聖母戴冠の祭壇図」(1502~1504年)

聖母戴冠の祭壇図

③「聖母の婚礼」(1504年)

聖母の婚礼

④「聖ミカエルとドラゴン」(1504~1505年)

聖ミカエルとドラゴン

⑤「聖ゲオルギオスとドラゴン」(1505~1506年)

聖ゲオルギオスとドラゴン

(2)フィレンツェの伝統的絵画の影響が見られる1504~1508年の4年間の作品

①「大公の聖母」(1505年)

大公の聖母

②「アンシデイの聖母」(1505年頃)

アンシデイの聖母

③「ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)」(1506年頃)

ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)

④ヒワの聖母(1506年頃)

ヒワの聖母

⑤「カーネーションの聖母」(1506~1507年頃)

カーネーションの聖母

⑥「アレクサンドリアの聖カタリナ」(1507年)

アレクサンドリアの聖カタリナ

⑦「美しき女庭師」(1507年)

美しき女庭師

⑧「十字架降下」

十字架降下

(3)2人のローマ教皇の手厚い後援を受けた12年間の輝かしいローマ時代の作品

①「アテナイの学堂」(1509~1510年)

アテナイの学堂

「アテナイの学堂」に描かれた哲学者ヘラクレイトス

哲学者ヘラクレイトス

②「署名の間」の北壁(パルナッスス山)(1510~1511年)と西壁(アテナイの学堂)

画像の左側が「パルナッスス山」で、右側が「アテナイの学堂」

「署名の間」の北壁(パルナッスス山)

③ローマ教皇「ユリウス2世の肖像」(1512年頃)

ユリウス2世の肖像

④ローマ教皇「レオ10世の肖像」(1512年頃)

レオ10世の肖像

⑤「ガラテアの勝利」(1512年)

ガラテアの勝利

⑥「小椅子の聖母」(1513~1514年頃)

小椅子の聖母

⑦「システィーナの聖母」(1513~1514年頃)

システィーナの聖母

⑧「ボルセーナのミサ」(1514年)(「ヘリオドロスの間」の南壁)

ボルセーナのミサ

⑨「聖ペテロの放免」(1514年)(「ヘリオドロスの間」の北壁)

聖ペテロの放免

⑩「ボルゴの火災」(1514年)(「ボルゴの火災の間」の南壁)

ボルゴの火災

⑪「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」(1514~1515年頃)

バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像

⑫「奇跡の漁り」(1515年)

奇跡の漁り

⑬「シチリアの苦悶」(1517年)

シチリアの苦悶

⑭「バラの聖母」(1518年頃)

バラの聖母

⑮「ラ・フォルナリーナ」(1518~1519年)

ラ・フォルナリーナ

⑯「キリストの変容」(1520年)

キリストの変容

「盛期ルネサンスの三大巨匠」ラファエロ(Raphael)の絵画



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