「国士無双」という言葉の由来をわかりやすく紹介します

フォローする



国士無双麻雀

「国士無双」と言えば、マージャンの「十三幺九(シーサンヤオチュー)」という「役満」を思い浮かべる方も多いと思いますが、今回は本来の「国士無双」の由来をわかりやすく紹介します。

1.「国士無双」とは

「国士無双」とは、「国中で並ぶ者がないほど優れた人物」のことです。「国士」は国の中で傑出した人のことで、「無双」は二つとない、並ぶ者がないことです。

出典は、「史記」淮陰候伝(わいいんこうでん)です。

2.「国士無双」の由来

もと、中国・前漢の蕭何(しょうか)が、後に軍の指揮官として漢王朝の成立に大功をあげた韓信を評して、劉邦(漢の高祖)に推薦した時の言葉です。

秦が滅んで、楚の覇王項羽と漢王劉邦が天下を争っていた頃のことです。楚軍の勢威に押されて巴蜀(はしょく)の地に逼塞していた漢軍の中に、「股くぐりの話」で有名な韓信がいました。

彼ははじめ楚軍に属していましたが、いくら軍略を献策しても項羽が一度も取り上げなかったので、愛想を尽かして逃げ出し、漢軍に投じたのです。

まだまだ劉邦に知られる機会などありませんでしたが、それでもふとしたことで部将の夏候嬰(かこうえい)に認められ、治粟都尉(じぞくとい)に推挙されました。

兵糧を管理する職掌柄、彼はさらに丞相の蕭何の知遇を得ました。韓信は大望を抱いていて、それにふさわしい英才を秘めていることを、さすがに蕭何は見抜いていてひそかに期待を寄せていました。

その頃、各地から劉邦に従ってきた部将の中には、望郷の念に駆られて逃亡する者が相当ありました。当然、軍中に動揺の色が見え始め、相次ぐ逃亡兵に混じって韓信も逃げ出しました。

おのれの英才に自負するところの大きかった彼は、治粟都尉ぐらいではとても満足できなかったのです。

韓信逃亡の報が伝わると、蕭何は急遽後を追いました。それが異常なまでに急であったので、蕭何も逃げたと早合点した者がいて、劉邦にその報が伝えられると、劉邦は左右の手を失ったように落胆し、怒りもまた大きいものでした。

ところが二日ばかり経って、蕭何がひょっこり帰って来ました。その顔を見て劉邦は怒りかつ喜びました。

「丞相ともあろう者がどうして逃亡したのだ?」「逃亡したのではありません。逃げた者を追いかけたのです。「誰を?」「韓信です」

「なに、韓信?今までに逃亡した諸将は10人に上るが、お前は誰一人として追いかけなかった。それを名もない韓信に限って追いかけたとは、嘘であろう?」

「今までに逃亡した将軍くらいの人物なら、いくらでも見つけ出せます。主公は名もない韓信と仰せられますが、それは韓信をご存知ないからです。韓信は実に国士無双と称すべき人物です。主公がこの巴蜀の地の領有だけで満足でしたら、韓信は必要ありません。もし。東方に進出して天下を争うおつもりなら、韓信以外に軍略を計れる者はおりません」

「もちろん、自分は天下を目標にしている。この地に朽ち果てる気持ちはさらさらない」「それなら、韓信を活用する決意をしてください。それなら必ず韓信はとどまります」「よろしい。自分は韓信をよく知らないが、お前がそれほどまでに推挙するのなら、韓信を将軍に任じよう」「いえ、その程度では活用したことになりません」「よし、では大将軍に任じよう」

こうして韓信は、紀元前206年(漢王の元年)漢の大将軍になり、その才能を発揮すべき出発点に立ったのです。

3.「韓信」とは

韓信

「韓信(かんしん)」(?~B.C.196年)は淮陰出身で、前漢の高祖の勇将です。若い頃、淮陰の町中でごろつきに喧嘩を売られましたが、侮辱に耐え、その股下をくぐった話(韓信の股くぐり)は有名です。

最初は項羽に従いましたが重用されなかったため、劉邦に従い、丞相・蕭何の推薦で大将軍となり華北を平定しました。はじめ斉王、次いで楚王に封ぜられましたが、のち淮陰候に左遷され、反逆の疑いで「呂后(りょこう)」(高祖の皇后)に処刑されました。

上に述べた「韓信の股くぐり」とは概略次のような話です。

「大柄で背丈は高いが、どのくらい強いんだろうな。死ぬのが怖くなければ、俺の頭を斬り落としてみろ。怖ければ俺の股下をくぐってみろ」と無頼の徒に喧嘩を売られました。

韓信は無頼の徒を見つめて、最後の言葉に意味を考えました。「彼を殺せば、間違いなく死刑に処される。股下をくぐることは公衆の面前での最悪の屈辱となる」

彼はしばらく熟考した後、ひざまずきごろつきの股下をくぐり始めました。見物人は韓信を臆病者と指さしながら腹を抱えて大笑いしました。

彼は大志を抱く身でしたから、ごろつきと争うことを避け、言われるままに彼の股の下をくぐらされるという屈辱をあえて受けたのです。

余談ですが、この話は「赤穂義士銘々伝」にある「神崎与五郎の詫び証文(神崎の堪忍袋)」とよく似ています。

「神崎則休(かんざきのりやす)」(1666年~1703年)は赤穂浪士四十七士の一人で通称が与五郎です。

赤穂から江戸へ向かっていた神崎与五郎は、途中、遠州・浜松の煮売り酒屋で酒を飲んでいました。そこへ馬方の丑五郎という男が酔っ払って入ってきて、馬に乗って行くよう迫りますが神崎はこれを断ります。

丑五郎は「侍のくせに馬に乗らないのか?」と散々悪態をつくので、仕方なく神崎は手をついて謝ります。さらに丑五郎は「詫び証文」を書けと迫ります。こんな奴とは思いながらも、仇討ちという大望が露見してはならないと、神崎はぐっと我慢して詫び証文を書いたという話です。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする