皆さんは「曾我兄弟の仇討ち」の話をご存知でしょうか?
今ではほとんど見かけませんが、私が子供の頃に住んでいた明治20年代に建てられた京町家の古い家には、明治時代か大正時代頃の「曾我兄弟の仇討ち」の子供向け絵本が残っていました。
今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようですが、実は曾我兄弟は源頼朝とも関係があるのです。
そこで今回は「曾我兄弟の仇討ち」について、わかりやすくご紹介したいと思います。
なお、前に「高槻・芥川宿仇討ちの辻を見て、江戸時代の敵討ち(仇討ち)制度を考える」という記事を書いていますので、こちらもぜひご覧ください。
1.「曾我兄弟の仇討ち」について
(1)「曾我兄弟の仇討ち」とは
「曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)」とは、建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が行った「富士の裾野の巻狩り」の際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士の裾野で討った事件です。
「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ、「日本三大仇討ち」の1つです。
「曾我兄弟の仇討ち」は、駿河国富士野(現在の静岡県富士宮市、『吾妻鏡』は更に子細に富士野神野と記す)で起きました。兄の「曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)(一万)」(1172年~1193年)が22歳、弟の「曽我五郎時致(そがごろうときむね)(筥王)」(1174年~1193年)が20歳の時のことでした。
真名本『曾我物語』によると、仇討ちの発端は安元2年(1176年)10月に兄弟の父である河津祐泰が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の郎従に暗殺されたことによります。
工藤祐経は郎党に命じて、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の伊東祐親父子を襲撃させ、祐親を討ち漏らしましたが、祐親の嫡男・河津祐泰を射殺したのです。
伊豆の豪族・河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)(1146年?~1176年)が31歳、一万が5歳、筥王が3歳の時のことでした。
工藤祐経(くどうすけつね)(1147年または1154年?~1193年)は「心を懸けて一矢射てむや(真名本『巻第一』)」と伊東荘を中心とする所領争いの相手であり妻(万劫)を離縁させた人物でもある伊東祐親の暗殺を郎従に命じていましたが、実際は矢が祐親ではなく祐泰に命中し非業の死を遂げたのです。
その敵にあたる祐経を曽我兄弟が討った事件です。兄弟の母が曽我祐信(そがすけのぶ)(生没年不詳)と再婚したため兄弟は曽我姓を名乗っていました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の寵(ちょう)により勢いを得ていた工藤祐経は、曽我兄弟を殺そうと謀りましたが、畠山重忠・和田義盛らによって救われました。
筥王は一時、箱根別当・行実(ぎょうじつ)の弟子となりましたが、建久元年(1190年)北条時政によって元服しました。成人した兄弟は祐経を狙いましたが、なかなか仇討ちの機会がありませんでした。
1193年5月、頼朝が催した「富士野の巻狩り」に同行していた工藤祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し、祐経を殺して父の仇を討ちました。
しかし兄祐成は宿衛の新田忠常(にったただつね)に討たれ、翌日弟時致も捕らえられ殺されました。
この事件は様々な分野に影響を与えました。「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名を成す伊賀の仇討」といった言葉にあるように、「日本三大仇討ち」に数えられ、武士社会においては仇討ちの模範とされました。
また『曾我物語』や江戸時代の教科書『富士野往来』といった史料、芸能では「曽我物」を成立させました。
近代には教科書にも採用され、尋常小学校の教科書に曽我物語の要約、高等小学校の教科書や高等女学校の国語読本に能「小袖曽我」が掲載されるなどしました。
しかしGHQによる日本人洗脳プログラムの「WGIP」(*)に基づく検閲で仇討ち物は忌避されたため、戦後はあまり顧みられなくなりました。
(*)「WGIP」とは、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、日本人の愛国心やアメリカに対する反抗心を弱体化・無力化させ、骨抜きにして占領を円滑に進めるため、「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」です。
(2)『吾妻鏡』の記述
曾我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩りの際に富士野神野で起きました。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催しています。
事件は同28日に起きました。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討ちました。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれました。
傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となりました。平子有長・愛甲季隆・吉川友兼・加藤光員・海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎といった武将らは負傷しました。また宇田五郎も兄弟に討たれ、十郎(兄)は新田忠常と対峙した際に討たれました。
弟の時致は源頼朝めがけて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取りましたが、大友能直がこれを押し留めました。この間に時致は取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなりました。この弟・時致の行動の謎については、2.「曾我兄弟の仇討ちの黒幕説などの諸説」で詳しくご紹介します。
その後、和田義盛と梶原景時が検死を行いました。仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参しました。
尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案しましたが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首されました。
30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通しています。
頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じました。6月1日には祐成の妾の虎御前を始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎御前は放免されています。
6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にしました。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じました。
2.「曾我兄弟の仇討ち」の「黒幕説」などの諸説
(1)北条時政黒幕説
歴史学者の三浦周行(みうらひろゆき)氏(1871年~1931年)が大正期に「北条時政黒幕説」を唱え、それ以来学界に大きな影響を与えてきました。
『吾妻鏡』や『曽我物語』では工藤祐経を討った後に弟の曾我五郎時致は源頼朝をも襲っており、これが北条時政の暗躍によるものとする解釈です。
時政は事前に駿河国に入国し準備を行っており、頼朝が富士野に到着した際もあらかじめ参上しており、この説に説得力をもたらしました。
またそれ以前から、時政と曾我兄弟は縁があり、兄の祐成が弟である筥王(曾我時致)を連れて時政の屋形を訪れ、時政を烏帽子親として元服しています。従来から面識のあった時政が、兄弟を頼朝襲撃へと誘導したとする見方が現在でも多くあります。
一方で、頼朝と時政は頼家の擁立で利害が一致しており、時政に頼朝を襲うほどの動機はないし、事件後も頼朝と時政の間に懸隔は見られません。
頼家の晴れの舞台で時政が殺人を仕組むとは考えにくく、また祐成を討ったのは時政の側近の仁田忠常であり、祐成は時政を狙った可能性が高く、兄弟は時政の統制を逸脱した行動をとっているとして、時政黒幕説を疑問視する見方もあります。
(2)伊東父子襲撃への源頼朝関与説
また、歴史学者の保立道久(ほたてみちひさ)氏(1948年~ )は伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとしています。この説では、曾我兄弟は初めから頼朝を父を殺害した仇として認識していたことになります。
(3)「曾我兄弟の仇討ち」後に相次いだ粛清の謎
富士の巻狩りの後に粛清が相次いでおり、巻狩りが契機となった可能性が指摘されています。
例えば巻狩りには源頼朝の異母弟である源範頼が参加しておらず、後の流罪に関係するといった見方もされています。この事件の際に常陸国の者が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが『吾妻鏡』に記されており、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もあります。
3.「源頼朝討たれる」との誤報で弟・範頼誅殺の口実にもされた
源範頼は、兄の頼朝から謀反の疑いをかけられ、伊豆国に流罪となっています。建久4年(1193年)5月28日、「曾我兄弟の仇討ち」が起こり、「頼朝が討たれたとの誤報」が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べました。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされています。
4.季語「虎が雨」の由来
「虎が雨」は「夏」の季語です。「虎が涙雨」「虎が涙」「曾我の雨」とも言います。
陰暦五月二十八日に降る雨のことです。富士の裾野での仇討ちで有名な曾我兄弟の兄・十郎が新田忠常に斬り殺されたことを愛人の虎御前が悲しみ、その涙が雨になったという言い伝えに由来します。