「六法に恋という字は無かりけり」という言葉があります。これは憲法学者・弁護士で元大阪府知事の黒田了一氏(1911年~2003年)の短歌「夜もすがら 独りひもとく六法に 恋という字は 見出でざりけり」に基づくものです。
確かに法律学は無味乾燥で、歌人の川田順に言わせれば「黐鳥(もちどり)のかかずらわしき学問」です。
ところで、短歌(和歌)には有名な「恋歌」がたくさんありますが、俳句には「恋の句」があるのでしょうか?
意外に思われるかもしれませんが、俳句にも「恋の句」がたくさんあります。
1.恋の俳句
(1)鞦韆は 漕ぐべし 愛は奪ふべし(三橋鷹女)
「鞦韆(しゅうせん)」は遊具のブランコのことで、「ブランコは強く漕いで愛は待たずに奪うべし」という意味の句になっています。 自分の好きな人の気持ちを何としても掴みたい気持ちが出ています。
三橋鷹女(みつはしたかじょ)(1899年~1972年)は、千葉県出身の俳人です。原石鼎・小野蕪子に師事し、戦後は新興俳句系の「俳句評論」などにも関わりました。
昭和期に活躍した代表的な女性俳人として、中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに「四T」と呼ばれました。
(2)死なうかと 囁かれしは 蛍の夜(鈴木真砂女)
ホタルの一瞬の光のような儚い恋心を詠っている俳句です。 蛍の季語はよく恋心を表す言葉として使われることが多く、 仄かな光が幻想的で恋の炎を連想させます。
鈴木真砂女(すずきまさじょ)(1906年~2003年)は、千葉県出身の俳人で波乱万丈の人生を送りました。
彼女は千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋旅館(現鴨川グランドホテル)の三女として生まれました。日本女子商業学校(現嘉悦大学)卒業後、22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚し、一女を出産しましたが、夫が賭博癖の末に蒸発してしまい、実家に戻ることになりました。
28歳の時に長姉が急死し、旅館の女将として家を守るために義兄(長姉の夫)と再婚しました。俳句をしていた姉の遺稿を整理するうちに自らも俳句に興味をもつようになり、大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門、万太郎死後は安住敦に師事しました。30歳の時に旅館に宿泊した年下で妻帯者の海軍士官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔するという事件を起こしました。その後家に帰るも、夫婦関係は冷え切ってしまいました。
50歳のとき離婚し、銀座1丁目に「卯波」という小料理屋を開店しました(1957年3月)。保証人は作家の丹羽文雄でした。その後は「女将俳人」として生涯を過ごすことになりました。
(3)会ひたくて 逢ひたくて踏む 薄氷(黛まどか)
会いたい気持ちがあってもなかなか踏み出せていない気持ちの状態を表しているものとなっています。 冬が開けて冬から春に変わる頃の薄氷を踏む様子があと少しの勇気がほしいという恋の気持ちを表現しています
黛まどか(まゆずみまどか)(1962年~ )は、神奈川県出身の俳人で、父の黛執も俳人です。
1983年(昭和58年)フェリス女学院短期大学卒業後、富士銀行勤務時代に杉田久女を知り俳句の世界に魅了されました。
1988年、「東京きものの女王」を受賞しています。1990年、俳句結社「河」に入会し、吉田鴻司に師事しました。 1994年、「B面の夏」50句で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞、初の句集『B面の夏』を出版しました。同年、女性のみの俳句結社「東京ヘップバーン」を立ち上げました。1996年、女性会員による俳誌『月刊ヘップバーン』を創刊、代表となっています。
(4)雪はげし 抱かれて息の つまりしこと(橋本多佳子)
冬に雪が激しく降る吹雪の日を見ると夫に激しく抱かれたことを再び思い出すという悲しい俳句となっています。 彼女は38歳の時に夫をなくしています。
橋本多佳子(はしもとたかこ)(1899年~1963年)は、東京都出身の俳人です。
祖父は箏の山田流家元の山谷清風で、父の雄司は官僚です。。菊坂女子美術学校(のちの女子美術大学)日本画科を病弱のため中退しています。
1917年に建築家・実業家の橋本豊次郎と結婚し、福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区中井浜)に「櫓山荘(ろざんそう)」を建築し移り住んで後、高浜虚子が来遊したことを期に句作を始め、杉田久女が俳句の手ほどきをしました。
1927年、「ホトトギス」雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選。1929年、30歳の時、豊次郎の父・料左衛門の死去にともない大阪・帝塚山に転居しました。同年に「ホトトギス」400号記念俳句大会(大阪、中央公会堂)で、久女に山口誓子を紹介され、1935年1月より山口誓子に師事し、同年4月に水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人となりました。
1935年5月、豊次郎と上海・杭州に旅行。1937年に一家で櫓山荘へ移る。同年、帰阪後に豊次郎が発病し、9月30日に逝去(享年51)しました。
戦後、西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男らと出会い、戦後俳壇の女流スターとなっていきます。
女性の哀しみ、不安、自我などを女性特有の微妙な心理によって表現しましたが、「白桃に入れし刃先の種を割る」、「ひとところくらきをくゞるおどりの輪」、「乳母車夏の怒濤によこむきに」といった力強い作品もあります。
(5)ゆるやかに 着てひとと逢ふ 蛍の夜(桂信子)
この蛍は夏の季節を表したものです。夏の夜にゆるやかに着物を着つけることによって男性に心許していることを表現している俳句となっています。
桂信子(かつらのぶこ)(1914年~2004年)は、大阪府出身の俳人です。
大阪府立大手前高等女学校卒業後、1934年、日野草城の「ミヤコ・ホテル」連作に感銘を受け、翌年より句作を開始しました。どこにも投句しませんでしたが、1938年、草城主宰の「旗艦」を知り投句しました。1939年に桂七十七郎と結婚し、1941年に「旗艦」同人となりました。同年、夫が喘息の発作のため急逝し、以後は会社員として自活しました。
(6)恋ふたつ レモンはうまく 切れません(松本恭子)
恋二つの間で迷っている気持ちを表している俳句となっています。 レモンは淡い青春・純粋な爽やかな心を表しているので、なかなか決めれていない状況をさらに表しています。
松本恭子(まつもときょうこ)(1958年~ )は、長崎県出身の俳人です。
佛教大学在学中に「青玄」に入会し伊丹三樹彦に師事し、のち同人となりました。1986年、第一句集「檸檬の街で」を刊行し、女性の青春的感性を口語文体で表現しました。翌年刊行された俵万智『サラダ記念日』の俳句版として話題となり「レモンちゃん」の愛称で親しまれました。のちの第二句集『夜の鹿』(2000年)では伝統的な文語体による作品となっています。エッセイ集に「二つのレモン」(1990年)があります。
2.「恋」を含む季語
有名なのは、春の季語である「猫の恋」です。
「猫の恋」のほかにも、「恋猫」「猫の夫」「猫の妻」「春の猫」「うかれ猫」「猫さかる」「猫の契」「通ふ猫」などがありますが、いずれも発情期の猫の様子を表す季語です。
なお、小林一茶に次のような句があります。
鳩の恋 烏の恋や 春の雨