源頼家の妻たちはどんな女性だったのか?またその子供たちの運命とは?

フォローする



北香那・つつじ役山谷花純・せつ役

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

前に「源頼家」の記事を書きましたが、彼の妻たちはどのような女性だったのでしょうか?またその子供たちを待ち受けていた運命とは?

2022年6月10日の「第七次出演者発表」で、頼家の正室「つつじ」役を北 香那(きたかな)さん、頼家の側室「せつ」役を山谷花純(やまやかすみ)さんが演じることが明らかになりました。

頼家は、父の源頼朝が妻・政子をはばかって表向きはなかなか側室を取れなかったのと違い、その短い生涯の中で多くの女性を妻としました。史料から明らかになっている4人以外にも、安達景盛の妾・美濃局・三浦義澄の娘などの側室がいたようです。

1.頼家の正室「つつじ」(辻殿)

源頼家の正室・つつじ

正室「つつじ」(辻殿)(生没年不詳)は、源平合戦で源氏方として奮戦した「足助(あすけ)重長(加茂重長)」(生年不詳~1181年)と、「源為朝(みなもとのためとも)」(1139年~1170年)(下の画像)の娘の間に生まれた女性です。

源為朝

源為朝は頼朝の叔父であるため、辻殿は頼朝の従兄弟の娘、頼家の「はとこ」にあたる女性です。

彼女は『吾妻鏡』によると、頼家の次男「公暁(くぎょう)」(1200年~1219年)の母親であると伝わっています。また、頼家四男の「禅暁ぜんぎょう)」(生年不詳~1220年)も彼女の所生では?という説もあるようです。

叔父の三代将軍・実朝を暗殺したことで有名なのが頼家の次男・公暁です。

公暁は父の死後、祖母政子の指示のもと、出家しますがさほど仏事には関心がなかったのか、髪を伸ばしたままであったと伝わります。(後々のことを思えば、「自分こそが将軍に……」という野心もあって僧侶のような恰好を嫌がったのかもしれませんね。)

公暁は実朝を暗殺した後、乳母父である三浦義村を頼りますが、彼に騙されて殺害されてしまいました。しかし、実は生きている……という説も後年まであったようです。

2.頼家の側室「せつ」(若狭局)

源頼家の側室・せつ

側室「せつ」(若狭局)(生年不詳~1203年)は、13人の合議制の御家人の1人である比企能員の娘です。父能員、母(渋河兼忠の娘)が頼家の乳母父になったことから、若狭局もまた幼少期から頼家に近しい位置にあったと思われます。

比企能員は頼朝を流人時代から支え続けた乳母である比企尼の甥にあたります。比企尼は比企能員を猶子として、実子の比企朝宗が没すると比企氏の惣領としました。

このため、源頼朝の信任も厚く初期の段階から重要な役割を演じています。しかも、比企氏は武蔵国にあっては大豪族ですから、北条氏に比べて格の違いを誇っていたことでしょう。

源頼朝と北条政子の嫡男万寿が生まれたときには、当然のように乳母父となっています。そんな関係ですから、万寿こと頼家に自分の娘を嫁がせることは当然でしょう。

彼女については『吾妻鏡』では「妾」と表記されていますが、父能員が高位の御家人であったこと、また頼家の長男「一幡(いちまん)」(1198年~1203年)の母親であることから、正室格だったのでは……とする説もあります。

彼女は頼家の長男である一幡を産みましたが、頼家唯一の娘・竹御所や頼家の次男・公暁も若狭局所生では?という説もあります

息子の一幡は頼家からは嫡子として扱われ、そのまま成長すれば、いずれは父頼家の後をついで将軍になったことでしょう。しかし、運命は残酷でした。

比企能員は北条氏との対立の結果、だまし討ちのようにして殺されてしまいます。

そして比企一族は屋敷に火を放って自害します。彼女もその際に燃える館の中でその生涯を終えたと伝わっています。

あるいは燃え盛る屋敷の中、一幡を連れて逃げるも、北条氏にとらえられ、一幡を殺されてしまったとも言われています。

ちなみに、息子の一幡は頼家の嫡子で、頼朝生前に生まれた唯一の孫でもあります。

しかし外祖父・比企能員と頼家の母の実家北条氏の対立の結果、比企一族の滅亡とともにその命運は尽きることとなります。亡くなった時に彼はまだ6歳でした。

3.頼家の側室「一品房昌寛娘」

源頼朝の右筆であった僧侶・「一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)」(生没年不詳)の娘頼家の側室でした。彼女は頼家の死後、有力御家人三浦義澄の息子である「三浦胤義(みうらたねよし)」(1185年頃?~1221年)と再婚します。

三浦胤義は、妻である一品房昌寛娘が、その所生の子である頼家の四男「禅暁(ぜんぎょう)」(生年不詳~1220年)を殺され悲しんでいる姿を見て、北条方に恨みを持っていました。ちなみに「禅暁」は、父頼家の死後、出家して仁和寺に入っていました。

そのため胤義は、「承久の乱」で、後鳥羽上皇に味方しましたが、北条義時らに敗れます。

胤義は特に後鳥羽上皇方の中心武将とみなされていたため、子供たちとともに自害します。東国に残されていた子供たちも、1人を残してすべて処刑されてしまいました。

頼家の三男「栄実(えいじつ)」(1201年~1215年)は、一品房昌寛の娘の所生と伝わります。

「栄実」は、父の死後は「尾張中務丞」なる人物のもとで育てられ、のちに政子の指示のもと、公暁ともども出家します。建保元年(1213年)栄西の弟子となって栄実と名乗るようになります。

しかし、頼家の息子だということで、北条氏打倒の陰謀にたびたび担ぎ出された末に、幕府方の武士たちの襲撃を受け、自害しました。

頼家の四男「禅暁」(生年不詳~1220年)は、公暁による実朝暗殺後、実は公暁に通じていたとの風聞が流れたことが命取りとなり、最終的に京で殺害されました。

子供(栄実・禅暁)と夫を失った一品房昌寛娘がどのように残りの人生を過ごしたのかは伝わっていません。

4.頼家の側室「源義仲娘」

この頼家の側室「源義仲娘」は、本当に妻だったのかもわからない女性です。

『尊卑分脈』によると、頼家唯一の娘で、第4代将軍「藤原頼経(ふじわらのよりつね)(1218年~1256年)」の妻となった「竹御所(たけのごしょ)」(1202年~1234年)の母親が、源義仲(木曽義仲)の娘だった……と伝わります。(ただ竹御所は比企氏ゆかりの地に住んでいたことから、比企能員の娘である若狭局所生という説も根強いです。また後述の美濃局の娘とも。)

頼家の長女である「竹御所」はその後、比企氏と北条氏の争いに巻き込まれますが、歴史の中を生き抜いていきました。

そして祖母である北条政子の庇護のもと、源実朝の御台所坊門信子の猶子となります。実質的には北条政子の地位を継ぐことになり、御家人の尊敬を集める立場になります。

義仲娘の所生と伝わる「竹御所」は、政子の死後まで唯一残った政子・頼朝夫妻の血を受け継ぐ存在でした。

そのため、彼女は年がかなり離れた(竹御所よりも16歳年下だった!)第4代将軍・藤原頼経に嫁ぐこととなります。

年こそ離れていましたが、頼経と竹御所の夫婦仲はそれなりに良好でした。結婚して数年後、竹御所は妊娠しますが、彼女は難産がもとで子供ともども亡くなってしまいます。

「竹御所」の死により、政子・頼朝夫妻、そして第2代将軍頼家の血は完全に途絶えることとなりました。

もしも源義仲(木曽義仲)の娘が頼家の妻だったとしたのなら……どのような思いで、兄弟である義高を殺した頼朝の息子に寄り添ったのでしょうね。

5.安達景盛の妾

「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバー・安達盛長と比企尼長女・丹後内侍の間に生まれた嫡男、安達景盛は京都より一人の女性を「妾」として迎え入れていました

この女性について詳しいことは分かりませんが、妾として迎え入れた、ということは公家の姫君とかではなく、白拍子とかだったのでしょうか?

頼家はこの女性に横恋慕し、何度も彼女に文を出しますが返事はなかったそうです。耐えきれなくなった頼家は、側近たちに命じて、景盛の留守中に無理やりこの女性を略奪します。

彼女は当初、頼家の側近であった小笠原長経の家に置かれましたが、最終的には頼家の御所に迎え入れられたそうです。

さらに頼家は景盛に難癖をつけて殺そうとしたそうですが、母の政子によって止められたとか。

この話はあくまでも北条氏側の歴史書である『吾妻鏡』の話ですから、どこまで信用して良いかは分かりませんが、実際に景盛と頼家との間に女性を巡っていさかいがあったのかもしれませんね。

6.美濃局

「美濃局(みののつぼね)」は、伊予国の有力御家人・河野通信と北条時政娘との間に生まれた女性です。

『河野系図』によると、上記の「竹御所」は美濃局の娘だと伝わります

しかし、実際には美濃局は、竹御所の母ではなく乳母だったのではないか?という説も根強いようです。乳母だったとしたら、美濃局は頼家の妻ではないでしょう。

7.三浦義澄の娘

「三浦義澄の娘」は、縣篤岐本『源氏系図』で公暁の母親とされている女性です。

三浦義澄は13人の合議制のメンバーの一人でもあります。また、頼朝最初の妻・八重姫の姉妹の嫁ぎ先でもあります。もしかしたら、八重姫の姪であったのかも?

とはいえ、他の資料では言及されていない女性ですので、本当に三浦義澄の娘が頼家の側室だったのかは不明です。

公暁の乳母父が三浦義村(三浦義澄の息子)であったことから、おそらく三浦義澄の娘が公暁の母親では?と言われるようになったのかもしれません。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする