「ペルシア戦争」とは?『歴史』を書いたヘロドトスとはどんな人物か?

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ヘロドトス

前に「ペロポネソス戦争とは?『戦史』を書いたトゥキディデスとはどんな人物か?」という記事を書きましたが、「ペロポネソス戦争」の前に起こった「ペルシア戦争」を扱った『歴史』を書いた歴史家ヘロドトスがいます。

そこで今回は、「ペルシア戦争」とヘロドトスについてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「ペルシア戦争」とは

ペルシア戦争

紀元前5世紀に、当時の超大国であるアケメネス朝ペルシアと、ギリシアの都市国家のあいだでおこなわれた「ペルシア戦争」。世界史の授業でも絶対に登場する重要な争いですが、一体どんなものだったのでしょうか?

「ペルシア戦争」は紀元前492年から紀元前449年にかけて行われました。当時の超大国であるアケメネス朝ペルシアと、アテネやスパルタを中心とするギリシャの都市国家連合の戦いです。

約50年間で、ペルシアは4度のギリシャ遠征を行いました。ペルシア海軍の主力を担っていたのはフェニキア人で、地中海の交易権を巡るギリシャとフェニキアの戦いという一面もあります

紀元前479年の「ミュカレの戦い」でギリシャが勝利したこと、紀元前465年にペルシア王のクセルクセス1世が暗殺されたことから、ペルシア戦争はギリシャの勝利。紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれて終結しました。

しかし敗北を喫したとはいえ、ペルシアが滅びたわけではありません。その後もペルシアはギリシャへの介入を図り、アテネを盟主とする「デロス同盟」と、スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」の戦いである「ペロポネソス戦争」が勃発する一因となります。

最終的にアケメネス朝ペルシアが滅びたのは、マケドニア王国のアレキサンダー大王がおこなった「東方遠征」で、首都であるペルセポリスが破壊された紀元前330年でした。

ちなみにペルシア戦争に関する資料はほとんど現存しておらず、ペルシア戦争について記されているのは同時代を生きたギリシアの歴史家、ヘロドトスの著作『歴史』のみ。そのため帝政ローマ時代の著述家プルタルコスのように、ヘロドトス個人の戦争観で事実が歪められていると批判する声もあります。

(1)「ペルシア戦争」の原因

「ペルシア戦争」の原因となったのが、紀元前499年から紀元前493年にかけて起こった「イオニアの反乱」です。これは、ミレトスを中心とするイオニア地方の都市国家が、アケメネス朝ペルシアの支配に対して起こしたもの

アテネなど、ギリシャの都市国家が反乱を援助します。しかし紀元前493年にミレトスが陥落して、反乱は失敗。結果的に、ペルシアがギリシャに侵攻する口実を与えることになってしまうのです。

紀元前492年、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は反乱へ介入したことに対する報復として、ギリシャ遠征軍を派遣。ペルシア戦争が勃発しました。

(2)「ペルシア戦争」の経過

①第一次ペルシア戦争

紀元前492年に、ペルシアのダレイオス1世がギリシャへ遠征軍を派遣しました。海と陸から侵攻しましたが、海軍が暴風雨によって壊滅的被害を受けたため、大規模な戦いは起こらないまま終結します。

②第二次ペルシア戦争

紀元前490年におこなわれたペルシアの本格的なギリシャ侵攻で、迎え撃つアテネとの間で「マラトンの戦い」が起こります。アテネの重装歩兵密集戦術が奏功して、ギリシャ軍が勝利しました。

ちなみに、母国の勝利を伝えようと、ひとりの青年がマラトンからアテネまで約40kmの道のりを走り抜けたことが、陸上競技マラソンの由来だといわれています。

ペルシア戦争 第二次遠征の進路

<ペルシア戦争 第二次遠征の進路>

③第三次ペルシア戦争

紀元前480年におこなわれた「ペルシア戦争」最大の戦い。ダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世が自ら大軍を率いてギリシャに侵攻しました。

「テルモピュライの戦い」では、20万人ものペルシア軍に対し、ギリシャのスパルタ軍はたった300人で対抗したそうです。奮戦虚しくスパルタ軍は全滅し、ペルシア軍はアテネにも攻め込むなど勝利を目前としていました。

しかし「サラミスの海戦」で「三段櫂船」を操るアテネ海軍が躍進。ペルシア軍は撤退を余儀なくされるのです。

④第四次ペルシア戦争

紀元前479年におこなわれました。「サラミスの海戦」で敗れたクセルクセス1世は、戦意を喪失してペルシアに帰国。残された軍が体勢を立て直し、再度アテネへの侵攻を目指します。

そんなペルシア軍を、アテネとスパルタの連合軍は、陸上では「プラタイアの戦い」、海上では「ミュカレの海戦」で迎撃し、勝利しました。ペルシアによるギリシャ遠征は失敗に終わることになります。

ただその後も交戦状態は続き、小規模な戦いはたびたび生じていました。正式にペルシア戦争が終結したのは、紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれた時になります。

(3)「ペルシア戦争」の結果とアテネの民主政

ペルシアの「専制政治」に対抗して、アテネを中心とするギリシアの都市国家が「自由」を求めた「ペルシア戦争」。戦後のギリシャでは、自由を讃える歌や祝祭が大いに流行しました。

その一方で、有力な都市国家間での覇権争いが起こり、特にアテネとスパルタの対立が激化することとなります。

「ペルシア戦争」を通じて大きく勢力を伸ばしたアテネは、強力な海軍を有して海上貿易の覇権を掌握しました。アテネを盟主として結成された「デロス同盟」には最盛期で200もの都市国家が参加をし、経済的にも軍事的にも最盛期を築きます

さらに政治では、「民主政」が全盛期に。市民が直接投票をして法律や法案の決定に関わる直接民主制と呼ばれるものです。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、外国人居住者や女性、奴隷に投票身分はありませんでした。実際に投票権を持っていたのは、成人人口の30%未満だともいわれています。

もともとアテネでは、出身や財産、土地からの収穫高に応じて市民が4つの等級に分けられていました。上位2階級が「貴族」、下位2階級が「平民」です。平民たちは「ペルシア戦争」に大きく貢献。勝利を決定づけた重装歩兵や、三段櫂船の船の漕ぎ手を主に務めたのは彼らでした。

これを受けて戦後は、平民たちの発言権が強まっていきます。やがて貨幣経済が発達すると、貴族と平民の間に対立が生まれ、平民は徐々に権利を獲得していくように。そして紀元前508年に、民会を中心とするアテネ民主政が成立しました。

2.「ペルシア戦争」を扱ったヘロドトスの『歴史』とは

ヘロドトスは、各地での目撃、伝聞、文献などに基づく探究の成果(ヒストリア)を書きため、アッティカ方言と詩語を交えたイオニア方言を用いて、それを大著『歴史』にまとめあげました。

ヘロドトスが著した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のもので、ギリシャのみならずバビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシャなどの古代史研究における基本史料の一つです。

これを9巻に分けたのは、前2世紀のアレクサンドリアの文献学者アリスタルコスだったと考えられます。本書においてヘロドトスは、西方のギリシア人と東方のバルバロイの抗争を伝説時代から説き起こし(1巻1~5章)、小アジアのギリシア人を支配し、本土のギリシア人と友好関係を結んだ最初のバルバロイの王国であるリディアの盛衰(1巻6~94章)と、これを滅ぼしたペルシア帝国の発展(1巻95章~5巻22章)の跡をたどりました。

この帝国に対して小アジアのギリシャ人が蜂起(ほうき)したイオニア反乱(5巻23章~6巻42章)を経て、ペルシアの大遠征軍を迎えてギリシャが勝利した「ペルシア戦争」の経過を、前479年まで詳述しました(6巻43章~9巻121章)。

最後の章(9巻122章)で完結しているか否かについては意見が分かれています。また地理学、民族学的内容のものを中心に、長短さまざまな「脱線」が随所に挿入されていますが、ギリシャ人とバルバロイの偉大な事績の数々、とくにペルシア戦争とその原因を後世に伝えるという目標(序章)に沿って、東西の対立抗争のクライマックスとしてのペルシア戦争に叙述が集中していくように、全体が構想されています。

ヘロドトスは天才的な語り手で、その著作は「物語り的歴史」とよばれ、またしばしば、同じ事柄についてのさまざまな資料をそのまま提供していますが、信憑(しんぴょう)性を判断できる場合は資料を選択しています。

彼には民族的偏見がなく、観念よりも事実への関心が強く、神話を疑うこともありましたが、基本的には神々、神託、前兆などを受け入れ、運命と偶然に縛られる世界において、人間はなお行動の自由を持つが、その限界を超えた傲慢(ごうまん)は神々の警告を受け、罰せられると信じていました。

彼の『歴史』への批判は、トゥキディデス以来続いており、確かに誤った叙述や脱漏などもありますが、今日では信頼性が高いとみる見解が一般的です。

3.『歴史』を書いたヘロドトスとは

ヘロドトス(B.C.484年頃~B.C.425年頃)は、古代ギリシャの歴史家です。

歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の一人とされ、しばしば「歴史の父」とも呼ばれます。

彼は過去の出来事を詩歌ではなく実証的学問の対象にした最初のギリシャ人で、ペルシア戦争とその背景を主題とする『歴史』9巻はギリシア散文史上最初の傑作とされます。

彼は小アジアのドーリス地方のハリカルナッソスの名家に生まれました。僭主(せんしゅ)リグダミス打倒の試みに参加して敗れ、サモス島に亡命。紀元前455年ごろいったん帰国したようです。

その後まもなく研究調査の旅行に出、各地でその成果を口演し、前445年ごろアテネを訪れてソフォクレスとペリクレスを知り、前443年に南イタリアにおけるアテネの植民市トゥリオイの建設に加わって、その市民権を得、そこで死んだようです。

古代の大旅行家で、その足跡は、東はメソポタミアのバビロン、西は南イタリア、北は黒海北岸、南はナイル川を1000キロメートルもさかのぼったエレファンティネ島に及びました。



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