1.季節外れ(季節の終わり)の動物を詠んだ俳句
蝉は成虫になる前の幼虫時代の約7年間を地中で過ごすと言われています(実際は種類によって異なり、日本の蝉は1年~5年程度。アメリカには13年ゼミや17年ゼミという「周期ゼミ」もいる)が、この期間については俳句の感興を呼び起こすことがないため、俳句に詠まれることも滅多にありません。
「蝉」は本来は夏の季語ですが、「蝉」の前後に別の言葉を付けて「秋」や「夏の終わり」の蝉を詠んだ俳句もあります。
(1)秋の蝉
・仰のけに 落ちて鳴きけり 秋の蝉(小林一茶)
道を歩いていると突然セミが飛んできて地面に落ち、ひっくりかえってしまった。それでもまだ鳴き続けている。「セミの季節もそろそろ終わりか。もう秋だなぁ」という意味です。
一句の眼目が「あおのけに」にあるのは言うまでもありません。寿命を迎えたセミを表現するのにぴったりの言葉です。いかにも羽をバタバタとさせている感じです。上の句形は八番日記のもので、七番日記には、
・仰のけに 寝て鳴にけり 秋の蝉(小林一茶)
とあります。これを擬態語であらわすならば、「ヒューッ」と「ゴロン」の違いで、これは断然「ヒューッ(と落ちた)」のほうがいいですね。同じ句を何年もかけて推敲しているわけで、一茶などは即興で詠んでいるように見えても実際は苦労しているのですね。
(2)落蝉(おちぜみ)
・落蝉の事切れし眼の澄みにけり(中本真人)
・落ち蝉も二三鳴き澄む秋の蝉(稲畑汀子)
・落ち蝉の 砂に羽摶つ 尚暑し(河東碧梧桐)
落蝉は、読んで字のごとく成虫になったセミが地面に落ちていることです。
地面に落ちているセミは力つきていることが多いため、再び空を飛ぶことはできなません。それでも懸命に羽ばたいて空を飛ぼうともがくこともあります。
幼いころはそれが滑稽に見えましたが、その生態を知ると何とも言えない気持ちになるものです。今は床に落ちて「ジジジジッ」と羽を鳴らして玄関先や、ベランダ、歩道などでもがく姿を目にします。
「夏」の季語とする歳時記もありますが、短い夏の終わりの象徴として、「秋」の季語として詠まれることが多いようです。
(3)落ち鮎
・鮎落ちていよいよ高き尾上かな(与謝蕪村)
68歳の蕪村は、天明3(1783)年9月13日、宇治田原在住の門人・毛条の招きで家族や社中を伴って宇治田原を訪れ、宇治山で松茸狩りを楽しみました。
山の頂上に人家があり、汲み鮎を生業としている人々が住む高ノ尾村(現高尾地区)があることを知って驚き詠んだのがこの句です。
鮎は九月から十月頃産卵のため三百グラムほどにもなり、下流へと下ります。その頃になると腹は赤みをおび鉄が錆びたような色になり、「錆鮎」とも呼ばれます。産卵した鮎は、体力消耗して、多くは死んでしまいます。それゆえ、一年魚ともされます。
「落ち鮎」は、人生の終着点に向かっている旅人のようです。「落ち鮎」とは産卵間際の鮎のことで、産卵が終わるとその体は瘦せ細り、やがて海へと行ってしまいます。もうそこで死んでしまうので、鮎の旅は終わるのです。
「若鮎」は「晩春」、「鮎」は「夏」の季語ですが、「落ち鮎」は「秋」の季語です。
2.「冬眠」中の動物を詠んだ俳句
蛙や蛇などは地中で冬眠しますが、これも俳句の感興をあまり呼び起こさないのは、セミの幼虫時代と同じです。
ただし、冬眠中の動物を詠んだ珍しい俳句がありますのでご紹介します。
ちなみに「冬眠」が「冬」の季語になります。
・冬眠の蛙の側を霧通る(金子兜太)
・金色の蛇の冬眠心足る(加藤楸邨)
・冬眠の蛇を掘り出し笏となす(岡井省二)
・冬眠の蛙そのまま埋め戻す(星加克己)
・冬眠の亀動かずに活きてゐし(川崎不坐)
・冬眠の蛇の寝息を窺へり(後藤志づ)
・冬眠の蛙の上を歩きけり(谷口佳世子)