「季節がまたがる動物たち」を俳句ではどう詠むのか?

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カエル

蛙や蜻蛉のように「季節がまたがる動物たち」を俳句ではどう詠むのでしょうか?

1.蛙

蛙

・古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音(松尾芭蕉)

これは芭蕉七部集の一つである『春の日』に収録された句で、「蛙」は「春」の季語です。

前に「雀や猫、犬など年中見かける季節感の不明確な動物たちを俳句ではどう詠むのか?」という記事で例に挙げた「蝉」や「蠅」が「夏」なのは、どなたも異存はないと思いますが、「蛙」は6月の梅雨時にうるさいほど鳴くので、「夏」ではないかと感じる方も多いと思います。

季語の季節の区分が「旧暦」に基づいているため、現代の我々が用いている「新暦」の季節感とズレが生じることがよくあります。

しかし「蛙」の場合は少し厄介で、単に「蛙」と言えば「春」の季語ですが、梅雨以降にうるさく鳴きかわす「雨蛙」「青蛙」と言えば、「夏」の季語になります。

単に「蛙」と言えば、冬眠から覚めて、水辺で繁殖活動を始めた頃のカエルを指します。

・青蛙おのれもペンキぬりたてか(芥川龍之介)

これは「青蛙、お前の体はテカテカだが、まるでペンキ塗りたてのようだな」という意味です。

この句は、和歌の「本歌取り」(*)のように、小説『にんじん』で有名なフランスの小説家ジュール・ルナール(1864年~1910年)の『博物誌』にある詩をもじって創作されました。

ルナールの詩は「青とかげ ― ペンキ塗り立てご用心」とあります。これを龍之介はトカゲを青蛙とし、もじったことになります。

龍之介自ら認めている証拠に「だから自分の作には『おのれ』があるのだ」と述べています。

なお、この句について、「学習塾 学びの庭」塾長は次のように解釈しておられます。これは皮肉屋の芥川龍之介らしい解釈だと私は思います。

文明開化以降、西洋文化の模倣ばかりを上っ面を撫でるようにし続けている、自分や自分を含む日本の知識人たちの姿を、まるで表面をペンキで塗ったばかりのような蛙の姿の上に、自嘲的に投影して詠んだと考えられる。

(*)「本歌取り」についての面白い話

余談ですが、近代から現代の歌の歌詞にも「本歌取り」の手法を用いたものがあります。谷村新司の「昴」は石川啄木の「悲しき玩具」をベースにしていますし、さだまさしの「まほろば」「防人の詩」、高野辰之の「朧月夜」もそうです。

これについては、「谷村新司の昴の歌詞は啄木の悲しき玩具に由来。プレアデス星団との交信秘話も紹介」「古典から着想を得た歌詞は意外に多い!」という記事に詳しく書いていますので、興味のある方は是非ご一読ください。

2.蜻蛉

赤蜻蛉

身近な生き物であるトンボですが、季節はいつかと聞かれるとイメージするトンボにより時期が異なることに気づきますよね。

夏に水辺で目にするイメージもあれば、秋の夕暮れに飛ぶイメージもあるため、季節を簡単に限定できないのも事実です。

日本に生息するトンボの中で最大の オニヤンマは、「夏」が季節のトンボの代表格です。

6月頃に羽化して10月頃まで見られますが、活動のピークは真夏で、黒地に黄色の模様、グリーンの目を持ちます。

赤蜻蛉(あかとんぼ)として知られる アカネ属のトンボは、「秋」が季節の代表的な種類で、アキアカネ・コシノメトンボ・キトンボなどがあります。

シオカラトンボは、4月~11月頃まで長い期間活動するトンボです

成熟した雄が水色になるのが名前の由来で、メスは茶色のためムギワラトンボと呼ばれます。

自然豊かな場所だけでなく、住宅地でもよく目にするお馴染みの種類のトンボとなっています。

ギンヤンマ4月~11月頃までの長い季節にわたってよく見るトンボの種類です。

胸のあたりが緑、腹部の付け根部分が青いのが特徴で、山地や水田は勿論、学校のプールや住宅地の公園などでも見かけることがあります。

俳句で用いる季語としての 「蜻蛉(トンボ)」の季節は、秋になります。

ただし、「糸蜻蛉(イトトンボ)」は、例外的に夏の季語になります。

・町中や 列を正して 赤蜻蛉(小林一茶)

・肩に来て 人懐かしや 赤蜻蛉(夏目漱石)

・竹竿の 先に夕日の 蜻蛉かな(正岡子規)

・こそばゆく とんぼに指を 噛ませけり(高橋淡路女)

・つよ風に 羽薄く飛べる と んぼかな(日野草城

・とどまれば あたりにふゆる 蜻蛉かな(中村汀女

・行く水に おのが影追ふ 蜻蛉かな(加賀千代女

・蜻蛉(とんぼう)の おのが影追ふ 水鏡(みずかがみ)(星野立子)

・きらきらと 目だけが死なず 鬼やんま(加藤楸邨

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