<2023/7/5追記>「らんまん」で田邊教授が槙野万太郎に「私のプラントハンターになれ」と提案するシーンがありました。
これは、小学校中退ながら植物に関する知識が豊富で植物採集に有能な槙野万太郎を使って、新種をどんどん発見させ、その手柄を横取りしようという田邊教授の狡猾な企みでした。
田邊教授は学歴のない万太郎を見くびっていましたが、プライドが強い万太郎にきっぱり拒否されましたね。
1.「プラントハンター」とは
「プラントハンター(Plant hunter)」とは、「主に17世紀から20世紀中期にかけてヨーロッパで活躍した職業で、食料・香料・薬・繊維等に利用される有用植物や、観賞用植物の新種を求め世界中を探索する人」のことです。
欧州各国の中でも、「プラントハンター」が最も盛んであったのはイギリスとオランダなどです。イギリスではキューガーデンなどの公的機関や、ヴィーチ商会などの民間企業がしのぎを削り、「プラントハンター」を日本も含むアジアや中南米まで派遣しました。ペリーが黒船で来日した際にも、プラントハンターが二名同船しており、日本での植物採集を行ったということです。
専業の「プラントハンター」以外にもチャールズ・ダーウィンのように調査航海に同行した生物学者や船医が現地で植物を収集することもありました。
世界で初となる貴重な異国の植物を集める旅は、紀元前15世紀のファラオであるハトシェプスト女王による探検と言われており、プント国から香料が鉢植えとしてもたらされました。
中世後期において、セイヨウトチノキやチューリップのような植物がオリエントからヨーロッパにもたらされ、オランダのアムステルダムでは1630年代にチューリップ・バブルも発生しました。
いわゆる「プラントハンター」の起源は、北西ヨーロッパといわれ、17世紀から18世紀にかけて貴族たちが、当時手に入りにくかった地中海沿岸のオレンジやレモンをイタリアやスペインからアルプスを越えて運ばせたことに始まります。その後、イギリス人がヨーロッパ大陸からサクランボ、オレンジ、アネモネ、チューリップなどを輸入、19世紀に入ると、舞台はヨーロッパからアジアやアフリカ、中南米へと広がっていきます。このころから「プラントハンター」と呼ばれるようになり、貴重な種類の植物を求めることから、徐々に植物学者が採集を担うようになっていきました。
日本を訪れたイギリスの「プラントハンター」にロバート・フォーチュン(1812年~1880年)(上の画像)という人がいます。彼は中国からインドへ「チャノキ(茶の木)」を持ち出したことで有名です。
彼は、1860年、帆船マーモラ号に乗って長崎から神奈川にやってきました。日本の植物はすでにツンベルク博士やシーボルト博士によってヨーロッパに標本などで紹介されていましたが、植物大国の日本にはさらに多くの園芸品種もあることに彼は驚きました。「江戸と北京」という著作にも紹介されている日本原産のノギクの仲間が、彼の目に留まったといわれ、「日本を象徴する花」とまで紹介しています。
そう言えば、伊藤左千夫の小説に「野菊の墓」というのがありましたね。この小説をもとにした木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」という映画もありました。ロバート・フォーチュンは「日本人の心」がよくわかっていたようです。
日本に自生しているノギクの仲間には、「ヨメナ(嫁菜)」「ノコンギク(野紺菊)」「イソギク(磯菊)」(下の画像、左から)などがあります。
160年以上も経過した現在、彼が紹介した野生のノギクの仲間が少なくなってきています。このような日本らしさ、情緒のある植物たちが季節ごとに見られなくなるのは、日本の文化もともに消えていくことにもなります。
「プラントハンター」たちの果たした役割は、単に植物の収集だけではありません。その国の文化も一緒に、つまり人と植物の関わりも一緒に伝えてきたことが評価されているのです。
2.「プラントハンター」と「ガーデニング」の発展との関係
優雅で情緒豊かな日本庭園やイギリスの自然美を活かしたイングリッシュガーデン、フランスの整形式庭園など、世界にはいろいろなガーデンスタイルがあります。
「プラントハンター」の登場でイギリスの庭文化が大きく変革していきます。その第一歩となったのは、世界中から集まった植物を分類し、展示する場所としてスタートした慈善団体「ロンドン園芸協会」と見本庭園の「ウィズレー」(現在の「ウィズレー王立園芸協会植物園」)(下の画像)です。
(1)「十字軍の遠征」と「大航海時代」
ヨーロッパでは「十字軍の遠征」(11世紀末〜13世紀末)以降、中近東からの情報が多くもたらされました。そして歴史的な交易路であるシルクロードによって、アジアの物品や香辛料が運ばれ、植物にも人々の関心が高まりました。
ただ、途中にトルコのようなイスラム国家があり、キリスト教徒の西ヨーロッパには西アジアに行く安全なルートがなく、地中海ルートもイスラム教の国に支配されていたため、新しく安全なルートが求められている時代でした。
欧米列強は16世紀の「大航海時代」(15世紀半ば~17世紀半ば)以降、「帝国主義」による「植民地支配」を開始します。大西洋に面したスペインとポルトガルが積極的にアフリカ西海岸を南に下ったことで、さまざまな品物が母国にもたらされました。
ポルトガルやスペインは、多くの冒険家や宣教師を航海へ送り出しました。1498年にはバスコ・ダ・ガマがインド航路を発見、多くの物品や香辛料をポルトガルに持ち帰り莫大な利益を得ました。スペインが送り出したクリストファー・コロンブスは、1492年にアメリカ大陸を発見しました。また、1519年にスペインを出発したフェルディナンド・マゼランは、世界一周航路を切り開き、地球が丸いことを実証しました。
(2)「プラントハンター」の活躍で各地の植物が世界に渡る時代
17世紀の中頃には、地球上のほぼ全ての地域にヨーロッパ人が訪れ、「大航海時代」が終わりを告げると、「植民地時代」が始まります。第二次世界大戦までにはヨーロッパと日本を除く、ほぼ全ての地域がヨーロッパ列強の植民地、あるいは支配下になり、本国に莫大な利益をもたらしました。
新しく発見された地域には冒険家、宣教師とともに植物採集のための「プラントハンター」が多く訪れ、いろいろな香辛料をはじめ、食料や薬草などを持ち帰りました。また、その中には珍しい花や木も含まれていました。
日本はその当時鎖国をしていましたので、自由に植物を持ち出すことはできませんでしたが、かの有名な通称シーボルト(ドイツ人医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)とその前任者で植物分類の基礎を作ったカール・フォン・リンネ(スウェーデン人の植物学者)の弟子のカール・ツンベルク(スウェーデン人の植物学者、博物学者、医学者)などによって、多くの植物がヨーロッパに紹介されました。その後鎖国は解かれ、園芸品種も含む日本のさまざまな植物がヨーロッパに送られると、その園芸文化の高さに触れた当時の人々は驚いたようです。
(3)「プラントハンター」が持ち帰った膨大な植物
そんな中、世界中に送られた「プラントハンター」がイギリスに持ち帰った植物は膨大な量となり、整理し分類する必要に迫られていました。そして1804年、ロンドンの植物好きが集まって、園芸文化の普及や奨励を目的とする慈善団体「ロンドン園芸協会」が設立されました。その協会が1861年に王室の許可を得て現在の名称となった「王立園芸協会」であり、当時世界中からもたらされた植物を一カ所に集めた植物園が「キュー・ガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)」(下の画像)です。
王立園芸協会は、庭文化の普及も目的の一つとして、ウィズレー(The Royal Horticultural Society’s garden at Wisley)に最初の作庭の見本となる庭をつくりました。手がけたのは、実業家で王立園芸協会の会員であったジョージ・ファーガソン・ウィルソンで、1878年に約25ヘクタールの敷地に庭がつくられ、その後、拡張されて現在は約100ヘクタールになっています。
(4)現在も世界中から来園者が訪れるウィズレーの植物園
ウィズレーへの来園者は、1905年には年間約5,000人ほどでしたが、近年は年間100万人以上の人が訪れています。イギリスで最も人気のあるキューガーデンには及びませんが、見本庭園に限らず、蔵書や植物のコレクションでも有名な場所です。
1910年に造園家のジェームズ・プーラムとその息子によって、ロックガーデンが築かれました。斜面地を巧みに利用して水はけをよくし、高山植物や球根植物が多く植えられています。また矮性の樹木や球根類も多く、スコットランドのエジンバラ植物園のロックガーデンとともに、世界中のロックガーデンの手本になっています。
なだらかな丘になっているので、高台から庭全体が見渡せます(上の画像)。ちょうどゴルフ場の打ち下ろしのロングホールのような景色ですね。園内の植物には全てネームプレートがつけられ、まるで生きた植物図鑑のようです。
(5)イギリスの庭園文化を支える植物園
「プラントハンター」によって多くの植物がイギリスに持ち込まれ、もともと自生の植物が少なかったイギリスに園芸文化が深く根付いた理由の一つが、王立園芸協会の存在です。植物分類はキューガーデン、植物の庭での使い方はウィズレーガーデンと、2つの庭はイギリスの園芸文化を底辺で支える両輪となっています。ロンドンから車でもさほど遠くないので、ぜひ訪れたい「ガーデニングの聖地」です。