宇治拾遺物語は誰が何の目的で書いたのか?また、どのようにして流布したのか?

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宇治拾遺物語

前に「今昔物語集は誰が何の目的で書いたのか?また、どのようにして流布したのか?」という記事を書きましたが、同様の物語文学である『宇治拾遺物語』についても疑問が湧いてきました。

1.『宇治拾遺物語』とはどういう物語か?

『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)は、鎌倉時代前期(1212年~1221年)成立と推定される日本の説話物語集です。

題名は、『宇治大納言物語』(宇治大納言・源隆国が編纂したとされる説話集で現存しません)から漏れた話題を拾い集めたものという意味、または拾遺(侍従の別官名)俊貞のもとに原本があったことからの呼び名とも言われています

全197話から成り、15巻あります。古い形では上下の二巻本であったようです。

収録されている説話は、序文によれば、日本のみならず、天竺(インド)や大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されています。

ただ、オリジナルの説話は少なく、先行する説話集と酷似する話が、『今昔物語集』とは81話、『古本説話集』とは22話、『古事談』とは20話あります。他にも『十訓抄』『打聞集』などに類似の話が見られます。

天皇・貴族から僧侶・武士・庶民・盗賊まで、幅広い登場人物が描かれています。また、日常的な話題から滑稽談まであって内容も幅広いものです。

同時代の多くの説話集が、王朝貴族文化への憧憬や、仏教ないし処世上の教訓を意図して編纂されたのに対して、本書は人間の弱点をあばき、権威を相対化することに関心を示しています。笑いの要素が顕著であるとともに、貴族や既成宗教の権威が崩れ去った時代の思潮の影が色濃くなっています。

このように他の説話集と比べて、素材や内容の面で広がりは著しく、そこには作者の人間や社会に対する自由で柔軟な思考や感覚といったものを窺うことができます。「今は昔」「是(これ)も今は昔」といった穏やかな語り出しに始まり、全体に平易でわかりやすい和文脈の語り口で語られてはいますが、その内容には鋭い人間批評や風刺、皮肉が効いているものも少なくありません。

巻頭第1話の「道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)と和泉式部(いずみしきぶ)との情事の話」に始まり、末尾第197話の「聖哲孔子が大盗賊にやりこめられる話」で終わっています。

「芋粥」や「絵仏師良秀」は芥川龍之介の短編小説『芋粥』『地獄変』の題材に取り入れられています。

『宇治拾遺物語』に収録された説話の内容は、大別すると次の三種に分けられます。

  • 仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
  • 世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
  • 民間伝承(「雀報恩の事」など)

民間伝承には、「わらしべ長者」や「雀の恩返し」「こぶとり爺(じじい)」などなじみ深い説話が収められています。仏教に関する説話も含みますが、どちらかというと猥雑、ユーモラスな話題(比叡山の稚児が幼さゆえの場違いな発言で僧侶の失笑を買う、等)が多く、教訓や啓蒙の要素は薄いものです。

信仰心を促すような価値観に拘束されておらず、自由な視点で説話が作られています。その意味において、中世説話集の中では特異な存在で、後世の『醒睡笑』などに影響を与えました。

2.誰が何の目的で書いたのか?

(1)作者(編者)(私の個人的推測)

『今昔物語集』よりも自由で面白い内容が多く、宇治大納言・源隆国と同様、僧侶ではない貴族が作者(編者)ではないか(たぶん源隆国の子孫の貴族で、『宇治拾遺物語』の原本を所持していた侍従俊貞の先祖)と私は思います。

ただ、『今昔物語集』と共通の話も多いことから、『今昔物語集』の作者(編者)(たぶん源隆国の息子の鳥羽僧正)と何らかの接点があった人物のような気がします。

後でご紹介する『宇治拾遺物語』序文にもあるように『宇治大納言物語』がベースになっていますので、「原作者は源隆国」ということになります。

源隆国(1004年~1077年)は平安時代中期の公家で、摂関政治全盛期の頃、藤原頼通の側近として活躍した人です。朝廷の高官でありながら文学にも造詣が深い人物です。

ちなみに『今昔物語集』の作者に擬せられている一人である鳥羽僧正覚猷(1053年~1140年)は、源隆国の息子です。なお『宇治拾遺物語』の中にも覚猷のいたずら好きで無邪気な人柄が描かれています。

<私の結論>

『宇治大納言物語』(11世紀成立)の作者は源隆国(1004年~1077年)、『今昔物語集』(1120年代成立)の作者は源隆国の息子の鳥羽僧正(1053年~1140年)、『宇治拾遺物語』(1200年代以降成立)の作者は源隆国の子孫の貴族で、原本を所持していた侍従俊貞の先祖(氏名不詳)と考えれば年代順や人間関係の接点でも辻褄が合うように私は思います。

(2)執筆動機と目的(私の個人的推測)

『宇治拾遺物語』には現在でもよく知られている昔話のほか、日常的な話題や滑稽談がたくさん収録されていて、平安時代の人々の日常が面白おかしく描かれています。

好奇心の赴くままに、昔の説話集を渉猟したり、滑稽談などの「面白い話」を集めて個人的に楽しむことを主目的としながらも、できれば多くの人に読んでもらいたかったのではないかと思います。

『グリム童話集』は、グリム兄弟がドイツのメルヒェン(昔話)を収集して編纂したもので、彼らが創作したもの(創作童話)ではありません。

そういう意味で、『宇治大納言物語』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』も、『グリム童話集』と似ています。

これらの物語の作者たちは、近世の戯作者・読本作家、あるいは近代以降の小説家の走りのようなものかもしれませんね。

3.どのようにして流布したのか?

しかし同時代(鎌倉時代)に読まれていたという記録はなく、江戸時代になって「活版印刷」によって読まれるようになりました。

この物語集が陽の目を見ることになったのは、江戸時代になって「落語の祖」とされている安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)(1554年~1642年)(*)によって、いくつかの説話を含んだ活字本が出版され、多くの人々に読まれるようになりました。

『宇治拾遺物語』は二十数種の伝本があり、「古本系」と「流布本系」に大別されます。

前者は宮内庁書陵部御所本が代表的な伝本です。後者は万治二年板本で、挿絵入りで、内閣文庫他に現存します。

また明治から大正にかけての小説家芥川龍之介も、『宇治拾遺物語』に収録されたエピソードを再構築して数々の名作を生み出しています。

(*)安楽庵策伝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての浄土宗西山深草派の僧です。美濃国出身。誓願寺第55世法主。安楽庵流(織部流の分派)茶道の祖。金森定近の子と言われます。明治38年(1905年)に、関根黙庵の『江戸の落語』で言及されてから「落語の祖」とされています。

安楽庵策伝は、笑い話が得意で説教にも笑いを取り入れていましたが、京都所司代・板倉重宗の依頼で『醒睡笑(せいすいしょう)』を著し、笑話集のさきがけとなりました。

4.『宇治拾遺物語』の序文

序文では、この説話集の成立の経過について、次のようなことが書かれています。

  1. まず、「宇治大納言」と呼ばれた貴族、隆国によって書かれたという『宇治大納言物語』が成立した(現在は散佚)。
  2. その後、『宇治大納言物語』が加筆・増補される。
  3. この物語に漏れた話、その後の話などを拾い集めた拾遺集が編まれた。

世に、宇治大納言物語といふものあり。この大納言は、隆国(たかくに)といふ人なり。西宮殿(にしのみやどの)の孫、俊賢(としかた)大納言の第二の男(なん)なり。年たかうなりては、暑さをわびて、暇(いとま)を申して、五月より八月までは、平等院一切経蔵(びやうゐんいつさいきやうざう)の南の山際(やまぎわ)に、南泉房(なんせんばう)といふ所に籠(こも)りゐられけり。さて、宇治大納言とは聞えけり。

髻(もとどり)を結ひわげて、をかしげなる姿にて、筵(むしろ)を板に敷きて、涼みゐ侍(はべ)りて、大きなる団扇(うちは)をもてあふがせなどして、往来(ゆきき)の者、上中下をいはず、呼び集め、昔物語をせさせて、われは、内にそひ臥して、語るにしたがひて、大きなる双紙(さうし)にかかれけり。

天竺(てんぢく)の事もあり、大唐(だいたう)の事もあり、日本の事もあり、それがうちに、貴(たふと)き事もあり、をかしき事もあり、恐ろしき事もあり、あはれなる事もあり、汚(きたな)き事もあり、少々は空物語(そらものがたり)もあり、利口なる事もあり、さまざまなり。

世の人、これを興じ見る。十四帖(でふ)なり。その正本は伝はりて、侍従俊貞(じじゆうとしさだ)といひし人のもとにぞありける。いかになりにけるにか。後(のち)に、さかしき人々書き入れたるあひだ、物語多くなれり。大納言より後の事書き入れたる本もあるにこそ。

さるほどに、今の世に、また物語書き入れたる出で来たれり。大納言の物語に漏れたるを拾ひ集め、またその後の事など書き集めたるなるべし。名を宇治拾遺物語(うぢしふゐのものがたり)といふ。宇治に遺(のこ)れるを拾ふと付けたるにや、また侍従を拾遺といへば、宇治拾遺物語といへるにや、差別知りがたし、おぼつかなし。

<現代語訳>

世に宇治大納言というものがある。この大納言は、隆国という人である。西宮殿の孫で、俊賢大納言の次男である。年をとってからは暑さを嫌って休暇を願い出て、五月から八月までは、平等院の一切経蔵の南の山際にある南泉房というところに籠られました。それで、宇治大納言と申し上げた。

髻をゆがめて結い、おかしな格好で、板に筵を敷いて、涼んでおられ、大きな団扇で扇がせたりして、往来の者、身分の上中下を問わず、呼び集め、昔物語をさせて、自分は、房の中に寝そべり、人が語るのを聞きながら、その話を大きな双紙に書き写しされた。

インドの話もあり、中国の話もあり、日本の事もあり、その中には、尊い事もあり、おかしな事もあり、恐ろしい事もあり、可哀想な事もあり、汚い事もあり、いくらか嘘っぽい話もあり、物言いのおかしな話もあり、さまざまである。

世の人が、この双紙を面白がって読んでいる。十四帖である。その原本は伝わって、侍従俊貞という人が持っていた。今はどうなっているのであろうか。後に物知りの人たちが書き入れたために、物語りの数が多くなっている。宇治大納言より後代のことを書き入れた本まであるようだ。

ところで、近年、また新しく物語を書き入れた本が現れた。大納言の物語に漏れたものを拾い集め、またその後の事などを書き集めたものらしい。その名を宇治拾遺物語という。宇治に残された物語を拾ったということで名付けたのか。また、侍従を唐名で拾遺というので、宇治拾遺物語といったのか、どちらなのかわからない。はっきりしない。

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