「最後の浮世絵師」「血まみれ芳年」と呼ばれた月岡芳年はどんな人物だったのか?

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月岡芳年

2022年12月25日の「江戸川柳でたどる面白い偉人伝(その1:神代)」から2023年1月5日の「江戸川柳でたどる面白い偉人伝(その12:江戸時代②)」にかけて、12回シリーズで「江戸川柳でたどる面白い偉人伝」という記事を書き、その中で月岡芳年の浮世絵の歴史画をいくつか掲載しましたが、月岡芳年とはどんな人物だったのでしょうか?

1.月岡芳年とは

月岡芳年(つきおかよしとし)(1839年~1892年)は、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師です。姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。画号は、一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、魁斎(かいさい)、玉桜楼(ぎょくおうろう)、咀華亭(そかてい)、子英(しえい)、そして最後に大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いました。

河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした良きライバルでした。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねています。

江戸時代を代表する浮世絵師が、葛飾北斎歌川広重だとすれば、明治時代を代表する浮世絵師が月岡芳年で、「最後の浮世絵師」とも呼ばれます。歌舞伎の残酷シーンや「戊辰戦争」の戦場等を題材にした無残絵から「血まみれ芳年」の異名でも知られています。

月岡芳年は、そのほかにもジャンルを問わず幅広い題材をテーマにした多作の絵師として、幕末から明治期の浮世絵界をリードしました。

2.月岡芳年の生涯

月岡芳年は1839年(天保10年)、江戸新橋の南大阪町に生まれました。

父は吉岡兵部(よしおかひょうぶ)ですが、後に伯父の京屋織三郎(きょうやおりさぶろう)へ養子入りします。

12歳の頃に江戸末期の人気浮世絵師・歌川国芳の弟子となり、15歳で武者絵「文治元年平家一門海中落入図」を発表して浮世絵師としてデビューしています。

そして、1865年(慶応元年)に大叔父にあたる画家・月岡雪斎(つきおかせっさい)の養子となりました。

27歳で兄弟子の落合芳幾(おちあいよしいく)と共作した「英名二十八衆句」(えいめいにじゅうはっしゅうく)では、歌舞伎の残酷な場面を描き、初期の代表作となります。

その後は上野戦争、西南戦争をテーマとした作品や、歴史画、新聞錦絵、美人画、妖怪画など多彩なジャンルで活躍し、54歳で亡くなるまで多くの傑作を残しました。

一説によれば、その作品数は1万点にものぼると言われています。

月岡芳年は2度結婚をしており、最初の妻との子を2歳で亡くすものの、そのあとに2人目の妻・坂巻泰(さかまきやす)と結婚し、その連れ子「きん」と「耕漁」を養子としています。

月岡芳年は、江戸で生まれ東京を生き、精神的な病を抱えながらも亡くなる直前まで絵筆を握り続けた浮世絵師です。

3.月岡芳年の画風・画題

(1)芝居から題材を得た無残絵「英名二十八衆句」など

月岡芳年は、処女作から5年あまりが経った1858年(安政5年)に刊行された「江戸の花子供遊の図」を皮切りに、武者絵や妖怪画、故事を題材とした物など多くの作品を発表します。

なかでも1864年(元治元年)に、初めて本格的な物語絵の揃物「通俗西遊記」を刊行して注目を浴びました。すでに日本で読本として翻訳されていた中国の「西遊記」ですが、錦絵シリーズとして刊行されたのは本作が初めてとされます。

その躍動的なシーンと緻密な画面構成は、月岡芳年の確かな筆力を感じさせます。

また、月岡芳年が27歳になる1865年(慶応元年)頃には、揃物の発表が相次ぎます。最初の揃物で妖怪をテーマにした「和漢百物語」(わかんひゃくものがたり)、歌舞伎や講談を題材とした「英名二十八衆句」などを立て続けに発表しました。

「和漢百物語」とは言わば怪談集のことで、日本と中国の怪奇談や妖怪伝説を描いた全26図が確認されています。

題材は当時親しまれていた読本から取材した作品が最も多く、図柄は江戸中期の読本「絵本太閤記」や、それに基づいて描かれた歌川国芳の作品「菊池容齋」(きくちかんさい)画の「前賢故実」(ぜんけんこじつ)などを拠りどころとしました。

人物の誇張された筋肉描写をはじめ、なおも師の画風が強く踏襲された作品です。

兄弟子の落合芳幾と競作した「英名二十八衆句」は、後世に残る「血みどろ絵」・「残虐絵」の代表作となりました。

これは、師・歌川国芳が手がけた全10図の「鏗鏘手練鍛の名刃」(さえたてのうちきたえのわざもの)をヒントに制作された、歌舞伎や講談を題材とした全28点の揃物です。月岡芳年と落合芳幾の2人はそれぞれ半数の14枚ずつを担当しました。

この作品が月岡芳年の出世作となりました。歌川国芳の「鏗鏘手練鍛の名刃」では、直前に起きていた闘争を連想させるようなシーンが描かれるにとどまっています。

しかし「英名二十八衆句」は、凄惨な血とともに殺人や残虐なシーンを描いたおどろおどろしい物で、目を背(そむ)けたくなるようなグロテスクな描写を試みています。

明治初期の不安定な時勢が反映されたこの作品は、月岡芳年の名を世に広く知らしめました。1865年(慶応元年)に発行された「江戸歳盛記」の人気浮世絵師ランキングで、月岡芳年は第10位に選ばれています。

(2)戊辰戦争を題材にした絵

月岡芳年は、江戸から明治という未曾有の転換期を生きました。

1868年(慶応4年/明治元年)1月の「鳥羽伏見の戦い」をきっかけに、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍と東北諸藩を中心とした旧幕府軍による戊辰戦争が勃発しました。

同年5月には、旧幕臣で結成された彰義隊(しょうぎたい)と新政府軍が衝突する上野戦争も起こりました。内戦はおよそ1年5ヵ月続き、月岡芳年は30歳前後でこれを経験することになります。

その戊辰戦争を題材として制作したのが、「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)です。

このシリーズの制作にあたって、月岡芳年は上野戦争の取材に赴き、新政府軍の前に敗れゆく彰義隊の姿を取材しました。月岡芳年が取材した勇士達の姿は歴史上の人物に見立てられ、全65作品に描き残されます。

実際に死を目の当たりにしたためか、残虐絵の一種とは言え「英名二十八衆句」のような血みどろの作品は少なく、死のリアリティが際立つ作品です。

この作品も高い評価を得ており、月岡芳年の代表作のひとつとなりました。

1868年(慶応4年/明治元年)に発行された「東京歳盛記」では、浮世絵師の番付で4位になっており、月岡芳年が絵師として確固たる地位を確立していたことが分かります。

(3)精神の病からの復活

1872年(明治5年)に「魁題百撰相」を発表して間もなく、34歳の月岡芳年は一時精神を患います。「英名二十八衆句」を手掛けて以来、人気浮世絵師となった月岡芳年には仕事が急増したため、自由な時間を失って神経をすり減らしてしまったのです。

幸い翌年に快癒すると、大きく蘇えるという意味を込めて画号を「大蘇」と改め、新聞錦絵など新たなジャンルの作品に精力的に取り組み始めました。

月岡芳年が師匠・歌川国芳風の画風から脱し、独自の画風を模索し始めたのもこの時期のこと。月岡芳年は、人物を描くにあたって写生を重視していました。

刑に処された下総国佐倉藩名主「佐倉惣五郎」(さくらそうごろう)を描く依頼を受けた際には、実際に弟子を柱に縛り付けたというエピソードが残されています。

(4)西南戦争の錦絵

1877年(明治10年)2月、明治政府に不満を募らせていた薩摩士族が新政府軍の拠点である熊本城へ侵攻し、「西南戦争」の火蓋が切って落とされました。

当時の英雄の1人である「西郷隆盛」が指導者だったこともあり、この戦争は人々の大きな関心を集めます。新聞で取り上げられると共に、膨大な数の錦絵によっても報じられました。

これらの錦絵は「西南戦争錦絵」と呼ばれる作品群を構成しています。

「西南戦争錦絵」には複数の浮世絵師が関与しましたが、そのなかでも月岡芳年は、武者絵の定評とその人気によってか、最も多くの西南戦争錦絵を手掛けました。

例えば、薩摩軍が50年来の大雪の中で旧鹿児島街道の難所「三太郎峠」越えに挑む「鹿児島暴徒出陣図」(かごしまぼうとしゅつじんず)。

西南戦争で敗れた西郷隆盛が切腹しようとする場面を描いた「西郷隆盛切腹図」(さいごうたかもりせっぷくのず)、「篠原国幹」(しのはらくにもと)や「村田新八」(むらたしんぱち)といった薩摩軍の主要な人物を描いた物など、多数を描いたのです。

月岡芳年は、現地で取材をして描いたわけではなく、東京にいながら戦地の様子を錦絵で伝えました。そのなかには彼の想像力の成した業が目立ちます。

例えば、巨大な魚に乗る西郷隆盛という奇怪な図が強烈なインパクトを与える「隆盛龍城攻之図」です。

安政の大獄で西郷隆盛と共に身投げした僧・月照の霊が魚達を味方に付け、西南戦争で戦死した西郷隆盛の霊と共に龍王のいる竜宮城に攻め入るという設定の作品です。

「西郷隆盛霊幽冥奉書」(さいごうたかもりのれいゆうめいにほうしょす)は、すでに逝去していた西郷隆盛を単身幽霊として描いたものです。集団の戦闘シーンが多い西南戦争錦絵のなかでも珍しい題材であり、正面を向いた人物像の構図も特徴的です。

同時期には初めての美人画半身図「見立多似尽」(みたてたいづくし)、歴史上の人物を描いた「大日本名将鑑」(だいにっぽんめいしょうかん)なども手掛けています。

写実的な人体描写が特徴の独自な画風が、月岡芳年の作品に現れ始めたのもこの頃です。

(5)新たなメディアの新聞での活躍

写真や活版印刷の登場によって浮世絵が陰りを見せるなか、明治時代の浮世絵師が活躍する場のひとつとなったのが新聞でした。

新聞は、瓦版の役割を引き継ぎながらも定期性や迅速性を併せ持った新たなメディアとして庶民に浸透していきます。

日本初の日刊紙は、1872年(明治5年)に創刊した「東京日日新聞」。

戯作者の条野採菊(じょうのさいぎく)、月岡芳年の兄弟子である落合芳幾、貸本屋番頭の西田伝助らが共同で創刊しました。

続けて「郵便報知新聞」が創刊され、月岡芳年はこの挿絵を担当します。

また月岡芳年は、同紙で掲載された記事をもとにしたテキスト入りの浮世絵「錦絵新聞」も制作。

その後、1882年(明治15年)には「絵入り自由新聞」に迎え入れられます。月給100円と、当時としては破格の厚遇でした。

さらに月岡芳年は、「自由燈」「やまと新聞」でも挿絵を担当。特に1886年(明治19年)に創刊した「やまと新聞」では創刊当初より筆を執り、噺家・三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)の創作人情噺の連載に挿絵を提供します。

円朝の有名な怪談「真景累ヶ淵」(しんけいかさねがふち)も連載され、これが大変な人気を得たのです。また同紙では、定期購買者向けに月岡芳年の錦絵を付録として配布していました。

当時話題の人物や幕末・明治初年の人物を中心に近世の実在の人物を描いた錦絵「近世人物誌」がその付録です。

爆発的な人気で購買者が予想以上に増えたために、元々月に2~3回配布する予定だったのが実際には月1回の配布になってしまったというエピソードが伝わっています。

複数の新聞に挿絵を提供していたことと合わせて、月岡芳年の当時の人気ぶりが窺える逸話です。

(6)浮世絵からの脱却

月岡芳年は「最後の浮世絵師」とも称されます。彼は死の直前まで浮世絵制作に熱心に取り組んでいますが、絵師としての歩みもその作品も、実は浮世絵の枠にとどまらなかったのです。

例えば月岡芳年は、洋風絵画によく見られる明暗や逆光といった技法を、錦絵に積極的に取り入れています。また、新聞挿絵はカメラアングルのような構図で描くこともありました。

劇画のような独特の構図も当時は目新しい物で、浮世絵に欧化や近代化の波を取り入れた新たなスタイルを牽引したのです。

また、月岡芳年は肉筆画も制作していました。なかでも有名な作品のひとつが、1882年(明治15年)に開催された第一回内国絵画共進会へ出品した肉筆画「藤原保昌月下弄笛図」(ふじわらのやすまさげっかろうてきず)です。

ただ1人笛を吹きながら歩く藤原保昌を盗賊の首領が狙うも、まったく隙がなく、攻め入ることができないという場面が描かれた作品。のちに大判3枚揃の錦絵としても刊行されました。

絵画共進会の記録によると、このとき月岡芳年は出品区分を「浮世絵」の第4区ではなく「諸々の流派に属さないもの」の第6区に出品しています。

この展覧会には他の浮世絵師も作品を出品していましたが、すべての絵師が第4区に出品していました。月岡芳年がそうしなかったのは、時勢を感じ取り、浮世絵の枠を超えようと意図していたからなのではないかとも考えられます。

このように挑戦的な気風であった月岡芳年は、常に絵師としての研鑽を怠りませんでした。

彼の画廊には江戸狩野派、四条派の紛本(ふんぼん:研究や制作の参考とするために模写した絵画)が収蔵されていたと言われます。かつて葛飾北斎などもそうであったように、浮世絵以外の様々な物から貪欲に画法を学んでいたのです。

月岡芳年の弟子である水野年方(みずのとしかた)や尾形月耕(おがたげっこう)は、いずれも木版画以外に日本画でも活躍した絵師。

さらに水野年方から弟子の鏑木清方(かぶらぎきよかた)、清方の弟子の伊東深水(いとうしんすい)へと、月岡芳年の画系は受け継がれます。

月岡芳年が浮世絵に真摯に取り組みながらも浮世絵の枠を超えようと試みたことで、弟子達が日本画の世界で活躍する基礎を築いたのです。

(7)文学を題材とした傑作

月岡芳年はその晩年には、和漢の物語や故事など文学を題材とした作品へ熱心に取り組みます。また、独自の画風を完成させ、絵師としての円熟期を迎えたのもこの頃です。

1885年(明治18年)発行の「東京流行細見記」では、ついに浮世絵師番付で首位の座に立つなど絵師としての絶頂期を迎え、数々の傑作を発表しました。

同じ年に刊行された「新撰東錦絵」(しんせんあずまにしきえ)は、講談や講釈、巷説に取材した全23図の揃物。整然とした構図、大判2枚続の画面を活かした奥行きのある背景や写実性の高い人物描写が印象的で、さながら映画のひとコマを観ているような感覚を与えてくれます。

また、1885年(明治18年)より刊行された「月百姿」は、月岡芳年の画業の集大成と言える作品。

和漢の物語や伝承を月と共に100図描いた揃物で、淡い色彩やぼかしを多用した表現が見られます。

円山四条派の筆法や構図、画題が取り入れられているのも特徴で、絵師として浮世絵の枠にとどまらずに研鑽した成果が結実した作品として高く評価されました。

さらに怪奇画の集大成と言える作品が、1889年(明治22年)年刊行の「新形三十六怪撰」(しんけいさんじゅうろくかいせん)。

歌舞伎、浄瑠璃、謡曲、伝説、民話、史譚などから幅広く題材を取り上げ、幽霊や妖怪などを描いた36図の揃物で、月岡芳年の長年に亘る構想の末に完成をみた傑作です。

シンプルな構図に繊細な描線、計算されつくされた色彩など、怪奇画と言えども観る者に洗練された印象を与えます。

この「新形三十六怪撰」の完成前に、月岡芳年は逝去。精神の病が再発し、悪化しての死だったと伝えられており、同作は弟子達の助筆によって完成されました。

4.月岡芳年の作品

(1)『英名二十八衆句』 大判28枚揃 慶応2年~慶応3年 芳幾と合作

①「稲田九蔵新助」

無惨絵(いわゆる「血まみれ芳年」の一点)

稲田九蔵新助」無惨絵、いわゆる血まみれ芳年の一点

②「直助権兵衛」

無惨絵(いわゆる「血まみれ芳年」の一点)

直助権兵衛」無惨絵、いわゆる血まみれ芳年の一点

(2)『魁題百撰相』 大判65枚揃 慶応4年~明治2年

①「森坊丸」

森坊丸

②「秀頼公北之方(千姫)」

秀頼公北之方・千姫

(3)『大日本名将鑑』 大判51枚目録共52枚揃 明治10年~明治15年

①「天岩戸を引き開けるアメノタヂカラオ」

天岩戸を引き開けるアメノタヂカラオ

②「神武天皇」

『日本書紀』における神武東征の一場面。神武天皇が携える弓の先にまばゆく輝く金鵄が留まり、それを目の当たりにした敵兵ども(右下)は怖れおののいている。1880年(明治13年)に刊行。

神武天皇

(4)『芳年武者无類』 大判32枚揃 明治16年~明治18年

①「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」

源義経(奥)とその家来である武蔵坊弁慶(手前)。1885年(明治18年)刊。

九郎判官源義経 武蔵坊弁慶

(5)『月百姿』 大判100枚揃 明治18年~明治25年

①「史家村月夜」

史進を描いたもの。

史家村月夜

②「稲葉山の月」

人物は豊臣秀吉。

稲葉山の月

③「月下乃斥候」

斎藤利三を描いたもの。

月下乃斥候

④「朱雀門の月」

朱雀門の鬼と合奏する源博雅を描いたもの。

朱雀門の月

⑤「破窓月」

達磨を描いたもの。1887年(明治20年)刊。

破窓月

⑥「北山月」

狼と遭遇し、笙を聞かせて難を逃れた豊原統秋の伝承を描いたもの。

北山月

⑦「貞観殿月」

鹿を仕留める源経基を描いたもの。

貞観殿月

⑧「足柄山月」

笙を吹く源義光を描いた

足柄山月

⑨「玉兎」

孫悟空と月の兎を描いたもの。

玉兎

⑩「赤壁月」

赤壁に遊ぶ蘇軾を描いたもの。

赤壁月

(6)『風俗三十二相』 大判32枚目録共33枚揃 「遊歩がしたさう 明治年間妻君之風俗」など 城西大学水田美術館所蔵 明治21年

風俗三十二相の一枚。

(7)『新形三十六怪撰』 大判36枚揃 明治22年~明治25年

①「皿屋敷 お菊の霊」

皿屋敷 お菊の霊

(8)その他の作品

①「東海道 舞坂」

東海道 舞坂

②「近世侠義傳 盛力民五郎」

近世侠義傳 盛力民五郎

③「東京招魂社内外人競馬図(靖国神社の競馬)」 1871年(明治4年)

東京招魂社内外人競馬図

④「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」

三河一向一揆を描いたもの。

大樹寺御難戦之図

⑤「皇国一新見聞誌 佐賀の事件」

佐賀の乱を描いたもの。

皇国一新見聞誌 佐賀の事件

⑥「鹿児島暴徒出陣図」

西南戦争を描いたもの。

西南戦争

⑦「松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)」

八百屋お七

⑧「日本略史 素戔嗚尊」

素戔男尊のヤマタノオロチ退治を描いたもの。

日本略史 素戔嗚尊

⑨「皇国二十四功 鳥居強右衛門勝商」

長篠の戦いの時、長篠城を密かに脱出する鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を描いたもの

皇国二十四功 鳥居強右衛門勝商

<2023/6/4追記>2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、鳥居強右衛門の決死の長篠城脱出と岡崎城から帰還直前に武田軍に捕らえられ、結局磔刑に処せられる場面が描かれましたね。

東京大学史料編纂所蔵『落合左平次道久背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図』

<東京大学史料編纂所蔵『落合左平次道久背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図』>

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