今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。
私は、中村勘九郎さん(冒頭の画像)が演じることになった茶屋四郎次郎がどういう人物だったのか大変興味があります。「四郎」でもない「次郎」でもない中途半端な珍しい名前でもありますね。
そこで今回は、茶屋四郎次郎についてわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
1.茶屋四郎次郎とは
茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう/ちゃやしろじろう)(1545年~1596年)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商の通称。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしでした。
「どうする家康」に登場する茶屋四郎次郎は「初代」です。
正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島宗延の子の明延が武士を廃業し、大永年間(1521年~1527年)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされます。
「茶屋」の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来します。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠としました。
明延の子の初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになりました。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築きました。
また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われました。
しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになります。十代延国(延因)時代の1800年(寛政12年)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、1807年(文化7年)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業しました。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされます。
2.「初代」から「三代目」の茶屋四郎次郎について
初代:茶屋四郎次郎 清延(ちゃやしろうじろう きよのぶ)(1545年~1596年)明延の子で「茶屋四郎次郎家初代」とされる人物。若い頃は家康に仕え、「三方ヶ原の戦い」等で活躍して橘の家紋を賜ったとされます。
「本能寺の変」の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越え」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行いました。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられます。
二代:茶屋四郎次郎 清忠(ちゃやしろうじろう きよただ)(生年不詳~1603年)初代の長男。父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめました。
豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになります。
1600年の「関ヶ原の戦い」後には京都の情勢不穏を家康に進言し、京都所司代設置のきっかけを作りました。板倉勝重が所司代に就任すると上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)町人の御礼支配、京都町人頭にも任命されました。
三代:茶屋四郎次郎 清次(ちゃやしろうじろう きよつぐ)(1584年~1622年)二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていましたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継ぎました。
呉服師の一方で、養父・藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務めます。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得ました。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心でしたが、1622年に38歳で死去しました。
しばしば俗説では、徳川家康の死因は鯛の天ぷらを食べたことであるとされ、その天ぷらを家康に勧めたのは清次とされます。
『徳川実紀』東照宮御実記附録巻十六には、以下のような話が記載されています。
元和2年(1616年)1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際、家康は清次に上方での流行を尋ねた。清次は「タイをカヤの油で揚げ、その上にニラをすりおろした物をかけた料理」が流行っており、自分も食べたがとてもいい香りがしたと答えた。家康は調理を命じてその料理を食べたが、その夜に腹痛を訴えたという。
3.茶屋四郎次郎の子孫などについて
蛸薬師下るの本邸は1708年(宝永5年)の大火によって焼失し、上京区小川通出水上るに移転しました。このためこの付近は茶屋町と呼ばれます。左京区北白川の瓜生山に別荘を持っていたことから、一帯の丘陵を古くは「茶山」と称しました。
『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』(竹村俊則 著)では、「中島情延の代であったことから、情延山とも呼ばれる」としていますが、山名の由来について「史料上、確実なのは、江戸時代には当地が「情延山」と呼ばれていたことだけ」という見解もあります。
初代清延三男の新四郎長吉(長意)は尾張藩に下り、尾州茶屋家(茶屋新四郎家)を創設しました。尾州茶屋家は尾張藩主の御側御用と、本家同様公儀呉服師も勤めました。また新田開発に従事し、茶屋新田・茶屋後新田を拓き、後に町名の由来となりました。茶屋家が代々居住した地区は茶屋町 (名古屋市)と呼ばれました。
蓬左文庫には尾州茶屋家文書が収録されています。清延の17代目子孫、尾州茶屋家当主の中島恒雄は東京福祉大学を創立し、運営する学校法人名を「学校法人茶屋四郎次郎記念学園」としました。
初代清延四男の宗清は和歌山藩主の徳川頼宣に仕え、紀州茶屋家(茶屋小四郎家)を創設しました。