今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。
私は、細田佳央太さん(幼少期の松平信康役は寺嶋眞秀)(冒頭の画像)が演じることになった徳川信康がどういう人物だったのか大変興味があります。
そこで今回は、徳川信康についてわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
1.徳川信康とは
徳川信康(とくがわ のぶやす)/ 松平信康(まつだいら のぶやす)(1559年~1579年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の姪・築山殿。幼名竹千代。
また、後に「安祥松平家」の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗りました。
現在では一般的には松平信康と表記されますが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)に既に徳川に改姓しているため、生前は徳川信康と名乗っていたということになります。しかし、江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は徳川将軍家と御三家・御三卿のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「岡崎三郎松平信康」に格下げされたということです。
2.徳川信康の生涯
永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれました。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、「桶狭間の戦い」の後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移りました。
永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立します。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式上の夫婦とはいえ岡崎城で暮らします。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られました。
7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗ります。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となりました。
天正元年(1573年)に初陣します。天正2年(1574年)に信康に付属された松平親宅が何度も諫言するも聞き入れなかったとして、役目を返上して蟄居・出家します(『松平甚助由緒書』)。なお、『寛政譜』では役目返上は故ありとして時期は天正3年、出家を後述の信康切腹を悲嘆してとしますが、この場合も役目返上の理由は諫言を聞き入れないためとされます。
天正3年(1575年)5月の「長篠の戦い」では17歳で、徳川軍の一手の大将として参加しました。その後も武田氏との戦いでいくつかの軍功を挙げ、勇猛さが注目されました。特に天正5年(1577年)8月の遠江国横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったということです。天正6年(1577年)3月には小山城攻めに参軍しています。
天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れた翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移されました(『家忠日記』)。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられました。享年21(満20歳没)。
信康の首は舅である信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られました。なお、岡崎城から信康を出した後に松平家忠をはじめとした徳川家臣たちは「信康に通信しない」という起請文を書かされています(『家忠日記』)。
信康の死後、家康は信康の廟所として清瀧寺を建立し、寺域には胴体が葬られた信康廟が現存しています。首塚を祀った若宮八幡宮では信康は祭神となっているほか、信康と関係が深かった者により複数の寺院等が建立されています。
3.「信康自刃事件」について
(1)「三河物語」に基づいた通説
信康の切腹については幕府成立後のいわゆる「徳川史観」による「三河物語」が通説化しています。
それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託しました。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされます。
信長は使者の忠次に糺しましたが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めました。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求しました。
家康はやむをえず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害されました。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じました。
(2)信康と築山殿の不行状と疑問
家康を悩ませたものとして、信康や築山殿の乱暴不行状については『松平記』『三河後風土記』の両書に詳しく書かれています。
信康については、
・気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。
・領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張した。
・鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、謝罪している。
・徳姫が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て、夫婦の仲が冷え切った。
などがあります。また、『当代記』にも、信康は家臣に対し無常・非道な行いがあったとしています。
築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして減敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものです。
これらのうち特に減敬のエピソードについては築山殿を貶める中傷とする説もあります。
(3)通説への疑問
徳姫との不仲は松平家忠の『家忠日記』によると事実のようですが、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問があります。
また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていてそのような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は窺えないし、事件の発端となったとされる徳姫に対して徳川政権成立後に家康が二千石の領地を与えている理由も通説では説明できません(実際に所領を給与したのは徳姫の義弟にあたる松平忠吉)。
さらに築山殿がいかに家康の正室といえども武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問です。しかも信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていません。
それにもかかわらず家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解です。また酒井忠次は、その後も徳川家の重臣上位の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっています。
また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説も提示されています。また「御母様(=築山殿)」の可能性もあり、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もあるとされています。
於大に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性があるということです。
数正は後年に徳川家から出奔しています。ただし「御」の前には信康の名がくるため「御家門」と「御前様」の説には無理があるとの見解もあります。
なお、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていないとする説がありますが、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立し信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などを建設しており、「信康山長安院清瀧寺」と号させています。また各所に墓所を建立しているので、これは誤りです。
(4)父子不仲説
このため近年では、家康が信長に要求されたためというより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになりました。
『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」と答えています。
つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということです。 また、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れます。
また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されています。
さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことがうかがえます。
また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを窺わせます。
また信康の異母弟・松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けましたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残しています。
・「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。
・「世に伝ふるは……つくづくと御覧し、おそろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけりと仰せけり」(新井白石『藩翰譜』巻十一「上総介殿」)。
この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが窺えます。
「関ヶ原の戦い」で戦況が一時不利になった時、家康は狼狽のあまり「せがれがいればこんな思いをしなくて済んだ」と口走り(側にいた家臣が遅参している秀忠のことだと思い「間もなくご到着されると思います」と声を掛けたところ家康は、「そのせがれのことではないわ!」と吐き捨てた)、また晩年には「父子の仲平ならざりし」と親子の不和について言及しています。
岩沢愿彦が1968年に家忠日記の原本を検めたところ、この事件については、6月4日に「信康御〇〇の中をなをし二被越候」として、家康が岡崎に出向いた。この段階では徳姫との不和の仲介とも読める。しかし、8月4日に岡崎城にて家康と信康が争論により物別れとなった。家康は和解に積極的だが信康が応じず、その結果として信康が降伏の形で岡崎退城に追い込まれた。これは信康が武田氏との連携に傾いて、信長との同盟を継続しようとする家康との政治的立場の相違が不和の原因であるという傍証になるとしています。
(5)派閥抗争説
作家の典厩五郎(てんきゅうごろう)は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部半蔵に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えています。
また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えています。
歴史研究家の谷口克広も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測しています。
(6)その他・家臣団との対立
信康は勇猛なためか横暴な面があり、家臣の松平親宅は「御若気の儀これあり候につき、毎度御諌め申し上げ候えども」信康により追放されています(『寛政重修諸家譜』)。
また信康は同母の妹である亀姫が、武田信玄没後に徳川に寝返ったにすぎない奥平信昌の正室になる(つまり義弟になる)ことに「敵方の者を聟にはなかなか成し難し」と強硬に反対した(『三河東海記』)話もあるなど、信康と家臣団の間で軋轢が生まれていた面も窺わせます。
4.徳川信康の人物像・逸話
(1)人物像
・信康は武勇に優れた武将でしたが、一方で猛々しい部分もありました。また信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったということです(『三河物語』)。
・天正3年(1575年)、家康の小山城攻めの際、信康は諸軍を家康とともに指揮して勝頼も驚いたということです。さらに小山城攻めを諦めて撤退する際、信康は殿軍を務めてこれを成功させ、家康から「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と大いに褒められたということです(『徳川実紀』)。
・勝頼の本陣間近まで供一人を連れて物見を行い、家康に決戦を進言した勇猛さを見せつけました(『松平物語』)。
・信康の母築山殿は岡崎城に同居していましたが、城主・信康を差し置いて当時の女性としては珍しく直接表に出て家臣らの岡崎衆に音信することがありました(『家忠日記』天正6年2月4日条)。
・天正7年8月前ごろには、家康の命令も聞かず、信長も軽視し、家臣にも意見が違うと厳しく当たるようになりました(『当代記』天正7年8月5日条)。
(2)江戸期の軍記や説話
・冷遇されていた異母弟の於義丸(後の結城秀康)を信康は不憫に思い、父・家康との対面を果たさせるなど、弟思いな面がありました。
・信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張しましたが、服部半蔵の介錯で自刃したということです。この時、半蔵が刀を振り下ろさず、検死役の天方通綱(山城守)が急遽介錯、結果として通綱は家中に居場所を失い出家したと言われます(『柏崎物語』)。
・清瀧寺(浜松市)には殉死した家臣、吉良於初(初之丞)の墓が残ります。
・後年、酒井忠次が嫡男・家次の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前でも子が可愛いか」と拒絶されたという逸話が残っています(『東武談叢』)。
・「関ヶ原の戦い」の前夜に、信康の孫娘と、石田三成に呼応した西軍の将の小西行長の嫡男・兵庫頭の婚約が、家康から行長に持ちかけられています。
この孫娘は、親等では福島正則の養子正之と結婚した満天姫とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえます。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえます。
・村岡素一郎は「史疑徳川家康事蹟」において、葬られた信康の遺体は「替え玉」で、本人は同情した家臣達に助けられ、浜松山中の村に逃れたという生存説を江戸時代の説話から推定しました。