今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。
私は、市川右團次さん(冒頭の画像)が演じることになった空誓上人がどういう人物だったのか大変興味があります。
そこで今回は、空誓上人についてわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
余談ですが、江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。
二番目に多いのが「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。
現代の価値観では、戦国武将達が多くの側室を持っていたことに、ひどく嫌悪感を抱く人も多くいることでしょう。しかし、明日をも知れぬ戦乱の世で、御家を存続させるため、多くの子を儲ける必要があり、ひとりの女性だけでは限界があるので、仕方のないことでもありました。
1.空誓上人とは
空誓上人こと空誓(くうせい)(生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期の浄土真宗本願寺派の僧侶。野寺本證寺10世。蓮如の曽孫。「三河一向一揆」の中心人物。
父は本願寺派中興の祖である蓮如の孫・堅田慈敬寺4世実誓、母は権大納言四条隆永の娘。
永禄4年(1561年)本證寺9世玄海が、「加賀一向一揆」に加わるために遠征して討死したため、空誓は近江・堅田の慈敬寺から移って、顕如の猶子として本證寺住持を継ぎました。翌年には院家に列し、大僧都となっています。
2.本證寺とは
本證寺(ほんしょうじ)は、愛知県安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院で別名は野寺御本坊。
戦国時代には三河・一向宗の3か寺として鼓楼や土塁を備え、水濠をめぐらした城郭寺院(城郭伽藍)となっており、「三河一向一揆」の拠点になりました。
大坂の「石山本願寺」(*)とよく似ていますね。
(*)石山本願寺とは、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗本願寺派の寺院です。当時は「大坂本願寺」「大坂城」「石山御坊」などと呼ぶのが一般的でした。跡地には現在、大阪城が建っています。
石山本願寺の特徴は、寺を中心に堀や土居を巡らせる「寺内町」があるところです。規模は明らかにはなっていませんが、『信長公記』には「方八町」、石山本願寺の住職である顕如の側近が書いた『宇野主水日記』には「七町五町」とあります。
一町は約109mなので、その広さは1辺が約872m、もしくは約545m×約763mの広さがあったのではないかと考えられています。寺というよりも、城郭と呼ぶのが相応しいものだったことは間違いありません。
寺内町にどれほどの人々が暮らしていたかは明らかになっていませんが、最盛期には2~3万人がいたと考えられ、戦国大名に属さない一種の独立王国を構築していました。
石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦いました。
本證寺の境内は本堂と庫裏を囲む内堀と東西約320m、南北約310m規模の外堀からなる二重の堀構造となっており、まさに防御するための城と言えます。
本證寺境内は国指定史跡となっており、鎌倉時代の絵画絹本著色と善光寺如来絵伝は国の重要文化財に指定されています。
開基は鎌倉時代の1206年頃(建永元年頃)で、親鸞門侶の慶円(きょうえん)が開創。
この慶円は下野・小山城主・小山朝政の次男だったようで、俗名は小山靫負佐兼光(ゆきのえすけかねみつ)。
13歳で比叡山に登ると慈円から教えを受けました。本證寺の場所(野寺の地)に堂宇を建てると故郷に帰ったあと、越後・国府にて親鸞の教化を受け改宗し、名を慶円に改めたということです。
天文18年(1549年)の門徒連判状では、三河の武士門徒115名が署名しているなど多くの支持を得ているのがわかります。
寺の周りには寺内町が構成され、宿屋、店舗、学校、病院もあったとされます。
松平広忠(徳川家康の父)は本證寺に対して不入の特権(検断権の拒否である年貢・諸役の免税)を与えており、松平家の家臣の中には本證寺からお金を借りる者もいました。
余談ですが、今の日本の「宗教法人」も非課税です。旧統一教会のように善良な日本人をマインドコントロールして日本人信者からお金をむしり取る(搾取する)ことで、私腹を肥やす「カネの亡者」のような韓国人教祖のいる悪徳宗教もありますね。私は「宗教法人の非課税は廃止すべき」だと思っています。
そして、「三河一向一揆」では、上宮寺、勝鬘寺と並んで一揆の拠点となりました。
現在の本證寺・本堂は、江戸時代の1663年(寛文3年)に建立されてもので、境内にある建物類で一番古いものです。
3.空誓上人の生涯と「三河一向一揆」
永禄6年(1563年)「三河一向一揆」が蜂起し、三河三箇寺と称された本證寺・佐崎上宮寺・針崎勝鬘寺を中心に岡崎城主の松平家康との抗争が勃発しました。
争乱の発端には諸説あり、本證寺の寺内で松平氏の家臣が本證寺の守護使不入権を侵害したためともいわれますが、いずれにしても本願寺教団の利権を解体して西三河統一を目指す松平氏と不入権を主張する一向一揆の衝突です。
中心勢力は、三河三ヶ寺(宮寺・本証寺・勝鬘寺)と本宗寺、一揆に呼応した三河守護家である吉良義昭、そのほか荒川義広(吉良持清の子)、尾張・品野城だった松平家次、松平信次、松平昌久などでした。
松平元康(徳川家康)の家臣の一部にも本願寺門徒がおり、松平家から離反して一向宗に味方して寺院に立て籠もりました。
三河一向一揆に味方した松平家の家臣としては下記のメンバーがいます。
渡邊高綱、渡邊守綱、酒井忠尚、夏目吉信(夏目広次)(夏目漱石の先祖)、鳥居忠広(鳥居元忠の弟)・内藤清長(内藤家長の父)・加藤教明(加藤嘉明の父)・石川康正(石川数正の父)・高木広正・本多正信・本多正重・蜂屋貞次・榊原清政(榊原康政の兄)・大原惟宗・矢田作十郎・久世長宣・筧助太夫など。
このように多くの松平家家臣らも門徒武士として門徒側に与したために、松平氏の内乱の様相を呈することになりました。
窮地に立った徳川家康は、三河を統一するうえでも、本證寺などの一向一揆を解体する必要が生じたのです。なお本多忠勝は宗派を変えて、徳川家康についています。
近江国より赴任して間もなかった空誓あくまで指導者に祭り上げられたにすぎないとする見解もありますが、永禄7年(1564年)西尾城の松平勢及び援軍の水野氏勢と小川で衝突した際には自ら一揆勢を率いて戦いました。
空誓は怪力の持ち主で、自ら鎧を身につけ鉄棒を振り回し戦ったともいわれますが敗れます。
桜井円光寺14世順正が空誓を逃がすために自ら空誓を名乗って自害したため、松平軍も本證寺に追い打ちをすることはありませんでした。
同年松平氏と一向一揆との間に和議が結ばれ、順次一向一揆は解体しました。しかし程なく家康は一方的に一向宗禁制を命じたため、既に一揆を解体していた本願寺派の諸寺はことごとく破却となり、空誓も野寺を追われて加茂郡菅田和の岩谷へと退去しました。
その後、いつまで菅田和に滞在したかは不明ですが、天正8年(1580年)「石山合戦」の結果、石山本願寺を退いた教如(顕如の子)を援助したことが知られています。
天正11年(1583年)徳川家康は20年ぶりに国内本願寺派を赦免して諸寺復興を許可しました。しかし空誓は仲介に立っていた本多重次の書状を改竄し、家康の許可を得たと偽って幡豆郡荒川に道場を建立するという事件を起こしています。
重次はこの暴挙を「俗方之上ニも珍敷事」と非難し、本願寺に本證寺の処罰を求めています。
天正13年(1585年)本證寺は復興を果たし、諸役免除の特権も回復しました。以後、空誓は徳川氏に接近し、本願寺教団の三河国内における地位確立に尽力しました。
天正18年(1590年)には小田原征伐の凱旋を顕如が出迎えるため、その日時を尋ねる書状を家康へと送っています。
同年、徳川氏が転封により江戸へ居を移すと、同地に徳本寺などの末寺を置いています。本願寺東西分立では東本願寺に属しました。
慶長6年(1601年)野寺のうち43石9斗4升を寺領として与えられました。
晩年には家康に請われて江戸城に招かれ、隣国尾張藩主となる家康九男の義直を助けるよう依頼され、入封の際には清洲城に登城して祝辞を述べました。
そのため歴代の本證寺住持は、藩主や住持が交代する際には登城謁見を許されることが慣例となりました。同じく江戸城にも住持交代の際には将軍謁見を許されるなど、本證寺は江戸幕府や尾張藩と親密な関係を保ちました。